★エッセイ「人はなぜ 自ら死んではならないのか」
菊池昭仁
エッセイ「人はなぜ 自ら死んではならないのか」
「死にたいなんて言うなよ~。死ぬより辛いことなんてねえんだから。
死んだらそれで終わりだぞ。がんばれ、俺も応援するから」
こう言って励ましてくれる人は悪い人ではない。だがこの人は「死にたい」と思ったことがない人だ。
そして、頑張って死を留まっている人に対して、「頑張れ!」は残酷な言葉に他ならない。
「これ以上何を頑張ればいいというの?」と、その人は思うはずだからだ。
死ぬより辛いことなんて この世には山程ある
私はそう思って生きている。
人は一度くらいは「死んでしまいたい」と思ったことがある筈だ。
受験に失敗したり、学校や会社でいじめられたり失敗したり、失恋したり病気になったり、身体が不自由になったり、愛する人に先立たれたりと、理由は際限なくあるだろう。
私の知り合いの女性は中学の時、いじめる側にいて、いじめられた子がそれを訴え、それを今まで見て見ぬふりをして、一緒に虐めていたクラスメイトたちから、今度はみんなでその虐めた子ひとりを責め立て、彼女はそれを苦にして校舎の屋上から飛び降り自殺を図ってしまった。
幸い命は取り留めたが、今も水頭症の後遺症で苦しんでいる。
幼い心理ですることには時折、残酷な悲劇が露呈してしまうことがある。
確かにいじめは悪いが、それを見て見ぬふりをしている人間も同罪である。
親や教師はそれをきちんと子供に教える義務がある。
交通事故で亡くなる人は令和4年には年間2,610人だと言われるが、自殺した人は21,881人もいるそうである。交通事故でお亡くなりになる方の10倍もいるのだ。
そして自殺未遂をする人はゆうに7万人を超えるとも言われている。
自殺は5月が最も多いそうだ。新しい生活に馴染めないからなのかもしれない。
では、
人は死んだらどうなるのだろう?
「どうせ自分の命だ。死ぬのは俺の勝手だ!」
そんな冷静に自分を俯瞰して死ぬ人はいないだろう。殆どは発作的に、無意識にその行為に及ぶのだと思う。
私は事業に失敗し、多額の負債を抱えて生きているのか死んでいるのかわからない状態だった。
新幹線のホームに立っていると、無意識に黄色いブロックラインを超えていることにハッとすることがよくあった。
高いビルや橋の上にいてもやはり同じようなことを考えてしまう。
死にたい この今の状況から逃げたい
逃げればいいのである。欲があるから逃げられないのだ。
失いたくないから逃げられないのだ。
命を捨てるくらいならすべてを失えばいい、逃げればいいのだ。
そんな幸福は幸福ではない。
そして次第に自分を追い詰めてゆく。
ある高僧が仰っていたが、自殺をすると、本来生きるべき残りの人生を死んでから償うのだそうだ。
例えば86歳で天寿を全うする人が22歳で自殺をすると、残りの64年間を暗くて悪臭のする冷たい空間でたった独りで過ごすことになるらしい。
ではどうしたら自殺をしなくて済むのだろうか?
簡単なことだ、死を頭から離せばいい。
つまり、死を思わないことだ。
メメントモリ(死を想え)
白人のインテリゲンチャーの中には、書斎机にラテン語のこの言葉を刻んだペーパーウエイトを置いたりしていることがある。
「死を想え」とは、「人は必ず死ぬ、今やるべき事を成せ」という戒めであると私は理解している。
「自分はこんなに一生懸命やっている」と思っている時ほど、実は自分が思うほど、一生懸命やっていないことが意外と多いものだ。本気でやっていない場合が多い。少なくとも私はそうだった。
一生懸命やっているかどうかは、自分が判定するものではなく、それを見ている他人なのである。
やってもやっても、やってもダメ。それでも無心になって諦めないでやり続ける。
するとある時、突然トンネルを抜けて、輝く世界が広がってゆくのである。
今でも私は時々死にたいと想うことがある。私は弱い人間だから。
早くラクになりたい
そんな時、私は強引に焼肉などを食べ、電話で女と下ネタで盛り上がるようにしている。
そしてまた狂ったように書く。小説や詩やエッセイなどの文章を書きまくるのだ。
するとまた生きようと思う。無意識に死が自分から遠ざかってゆくのである。
では、
なぜ人は自殺をしてはいけないのか?
それは自分が沢山のものからの恩恵を受けて、「生かされている」からである。
人間は自分が勝手に生きているのではない。生かされているのだ。
誰に? 大いなる力にだ。
それを人は神と呼ぶ。
私は神様は信じるが、特別な宗教に入信しているわけではない。
宗教とは薬のようなもので、その教えに合う人もいれば合わない人もいる。
宗教を強制してはならない。
ましてや政治に関わるなど以ての外である。
自殺をすることは、神が人間に与えていただいた、魂を磨くための修行の機会を自ら放棄することになるのだ。
故に自殺は神への冒涜になる。
人生は辛いものだ。生きていくのは辛くて当たり前なのである。
生きることは魂を磨く修行なのだから。
自分が進化成長し、その命を子孫に継承することでこの世を天国に近づける。そのために人は生きている。
人間が生きる目的とはそれなのだと思う。
だから人は良心に従い生きなければならない。学ばなければならないのだ。
そして学ぶことに遅いと言うことはない。
私は毎日、不治の病で死の恐怖に怯えながら生きている。
人間としてこの世に生を受けた以上、寿命が来るその1秒前までも本気で生きたい。
左目を失明し、心筋梗塞や様々な障害を抱え、今もこうして発症から10年以上も生かされている。
今 生きていること自体が奇跡なのだ
私は死ぬまで死なない。私は天寿を全うしたい。
せっかく人間として生まれたのだから。
どうか一人でも多くの人が、自ら命を絶ちませんように祈ります。
★エッセイ「人はなぜ 自ら死んではならないのか」 菊池昭仁 @landfall0810
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。★エッセイ「人はなぜ 自ら死んではならないのか」の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
未完成交響曲/菊池昭仁
★6 エッセイ・ノンフィクション 連載中 12話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます