第17話

 不意に彼女が告げた一言が、ハンドルを握る優人にとっては妙に気になってしまった。前方に注意はしつつも、ちらりと助手席に座る彼女の横顔を見つめる。


 真名はシートに深々ともたれたまま、首を傾けて窓の外を流れる景色を眺めていた。しかし、その瞳はどこか悲しげな色に染まっている。


 優人はなんの気なしに、先程、真名が口走った一言を繰り返していた。それを受け、彼女は大きくうなずく。


「私は少なくとも、そう思うの。この世界は一つの大きな〝器〟で、そこに注がれた〝幸福〟と〝不幸〟の数は決まっているんじゃあないかって。誰かが幸せになれば、どこかの誰かが不幸になる――そういう風にして、日々は過ぎていっているんだと思う」


 なんとも突拍子もない話に、優人は苦笑いで返してしまう。どうやら宗教論などではなく、真名自身が幼少期から抱いてきた価値観らしい。


 優人も思いを巡らせるが、どこかそれは非現実的な考えに思えてしまった。彼女の言う通り、〝幸福〟と〝不幸〟の総量が決まっているというなら、そのバランスを取っているのはなんなのか。それこそ、〝神〟などというとんでもない存在が上から世界を眺め、せっせと采配しているというのだろうか。


 どこかふざけた調子で言う優人に、なおも真名は真面目に返した。彼女の射るような視線に、わずかばかり怯んでしまう。


「神――そうね。どこかにきっと、そういう存在がいるのかもしれない。誰かに光が当たっているなら、その逆にいる人間は影の側にいる。誰しもが平等に照らされることなんてない。光だけしかない世界は、ただの狂気の園でしかないもの」


 当時、なぜこんな言葉を彼女が口走ったのかは、理解できなかった。だが、様々な出来事を経て、彼女が抱えていた大きな闇を覗き込んだ優人ならばその真意をくみ取ることができる。


 生まれながらにして貧困を味わい、親から愛されず、痛みと共に育った彼女は常に影の側にいたのだ。彼女にとって大人が口走る道徳はていの良い嘘の塊で、それを賛美する人間たちは殊更、無知で邪悪に見えたのだろう。


 優人と真名の歩んできた道は、あまりにも違いすぎる。田舎に生まれ育ったことをどんくさいと思い続けていた優人だったが、彼の生き様すら真名にとってみれば暖かな輝きに満ちた、光の下に描かれた道だったのだろう。


 当時の自分は、そこまでを読み取ることができなかった。だからこそハンドルを握り、愛車を前へと進めながら、それでも不安げに真名の横顔を見つめるしかなかったのである。


 優人の視線に気付いた真名は、驚いたようにこちらを見つめ返す。やがて彼女はどこか困ったように笑い、目を細めた。


「ごめんなさいね、面倒くさい女で。けれどそんな私に、そうやって精一杯付き合ってくれるんだもの。光の側だろうが、影の側だろうが――あなたはやっぱり、優しい人なのよ」


 きっとそれは、彼女なりの気遣いだったのだろう。真名は自分が抱いた憂いに、優人を巻き込みたくなかったのかもしれない。


 あの笑顔を忘れることができない。どこか切なくて、悲しくて――それでも、優人が悩んでくれていることが嬉しくて、必死に作り上げたあのあべこべな笑顔が。


 記憶の残滓が白に染まり、遠のく。


 かつてのドライブの光景がかすみ、意識の海へと溶けていった。


 音一つないその真っ白な景色の中で、優人は本能から叫ぶ。


 彼女の名を――優人にとって、なにがあろうとも光として焼き付いた、愛すべき名を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る