第16話

 寺の本堂に上がると、まずは独特の線香の香りが鼻を突いた。人によっては落ち着く匂いなのかもしれないが、あいにく、優人は過去に起こった忌まわしき事故を思い出してしまい、どうにもばつが悪い。


 脳裏に浮かんだ真名の葬式の思い出を振り払いながら、彼は案内してくれる尼僧に続く。柳念という名の僧侶は、本堂の上に飾られた大きな絵画へと優人を案内してくれた。


「こちらになりますねぇ。これが、寺に古くから伝わる『幸人来福絵図』というものです」


 優人は顔を持ち上げ、目の前に広がっていた光景に「ほお」と素直にため息をついてしまった。


 元々は金箔をふんだんに使った絵画だったのだろうが、時の流れによって風化が進み、全体はくすんだ茶色に染まっている。それはこの村にかつて起こった〝幸人〟の記録を残した、太古に描かれた絵画であった。


 絵の下部には、どこかみすぼらしい衣服に身を包んだ村人たちの姿が見える。彼らは皆、田畑の上にひざまずき、遥か頭上を見て歓喜の声を上げているようだ。


 その視線の先には大きな山があり、さらに山頂付近には一人の僧侶があぐらをかき、微笑みながら村を見下ろしている。言わずもがなそれは、かつてこの村を訪れ邪気を祓って見せた僧侶・浄優の姿である。


 彼の背後からは後光が差しており、眼下の村はもちろん、その外側に広がる世界もろとも金色の輝きで照らし出している。


 それだけならばよくある宗教画だったのだが、優人は浄優――〝幸人〟の手元に描かれた〝それ〟を見つけ、目を細める。


 そこにはしっかりと、〝鐘〟が描かれていた。形は何の変哲もない鐘なのだが、〝幸人〟同様にそれはうっすらと光を放っているようだ。


 絵にしばし見惚れていた優人だったが、尼僧・柳念は優しい笑顔のまま静かに語りかけてくる。


「お連れの方――川嶋様、でしたか。彼も先刻、同じようにこの絵図に圧倒されておりました。かなり勉強熱心な方で、とても専門的なことをいくつも質問されておりましたねえ」

「そうですか。あいつは、この絵を見た後はどこに?」

「さあ、そこまでは。一応、お話を終えた後はまっすぐ、寺から出ていかれたようでしたねえ」


 微笑む彼女を見つめ、優人は思考を巡らせる。尼僧はなおも柔らかに笑っていたが、一方で優人は笑みを浮かべることができない。


 佐久間家を後にした優人と双葉は、そこで得た情報を共有するため、一旦、川嶋と合流しようと民泊に戻った。だが、待てど暮らせど川嶋が帰ってくる様子はない。痺れを切らし、優人はこちらから川嶋を探しに出かけ直したのである。


 万が一、川嶋が宿に帰ってきた時のことを考え、双葉には民泊で待機をしてもらっていた。どこを探すべきか迷ってしまったのだが、ひとまずは川嶋が調査に赴く予定であった、村唯一の寺へと足を運んでみたのである。


 予測通り、川嶋は一足先にこの寺を訪れ、〝鐘〟や〝幸人〟についての取材を行っていたようだ。しかし、尼僧の言葉が本当ならば、これまた一足先にこの場を立ち去ってしまったようである。


 こういう時、携帯端末での通話ができないというのは厄介極まりなかった。宿に戻れば通信手段はあるが、それだって民泊の部屋の近辺のみで有効な方法である。


 どうしたものかと後ろ頭をかいてしまった優人だったが、尼僧はそんな彼を見て、なおも物腰柔らかに問いかけてきた。


「どうかされましたか? お連れの方をお探しでしょうか」

「ええ。まぁ、あいつのことですから、まだ色々なところを回って調査を続けているのかもしれません。この近くだと、また公民館に資料でも確認しに行ってるのかも」

「まぁ、そうですかぁ。でしたら、こちらから公民館のほうに連絡してみましょうか?」


 思いがけない提案に少したじろいでしまったのだが、別段、それを強く拒む理由もない。どちらにせよ、このまま村の中で行き違いになり続けるのも、体力と時間の問題な気がしたのだ。


 結局、優人は柳念の厚意に甘え、近くの施設に一報を入れてもらうことになった。尼僧が電話をかけている間、優人は寺の横に設置された事務所内の応接室に通される。ちゃぶ台一つが置かれた簡素な和室に腰を落とすと、尼僧は手際よく冷たい茶を一杯、持ってきてくれた。


「どうぞ。まだまだお暑いですので、しっかり冷たいものも取ってくださいな」

「あ……すみません、わざわざ」


 なにからなにまで至れり尽くせりな尼僧に、素直に優人は恐縮してしまう。茶を置いた後、なおも柳念はにこにこと笑っていた。


「けれど、随分と珍しいことを調べられているんですねぇ。ライターの方でしたっけ? こんな小さな村のことなんて、調べても記事になるんでしょうかね」

「まぁ、そこはなんとも。まだ、この村を記事にするって決まったわけではないですから。俺らも、ネタを求めて各地を回っているところですし」


 優人が告げたそれは、なにからなにまで嘘でしかなかった。経歴を問われるたび、もう何度もこの嘘をつき続けているのだが、随分とそれもこなれたものである。


 差し出された茶を手にすると、独特の香りが鼻をついた。どうやら麦茶などではなく、随分と特殊な茶葉を使ったもののようだ。わずかに口に含むと苦味こそあったが、喉越しがなんとも心地良い。


「大変なお仕事なんですねぇ。私なんて、ずっとこの寺で務めておりますから、ここだけの話、お二人みたいに各地を旅するのが少し羨ましくも感じてしまいます」

「そんな、良いものじゃあないですけどね。むしろ、きついことばかりで――」


 茶で喉を潤しながら、二人は他愛のない世間話を交わしていく。日中、動き回っていたせいか随分と体は乾ききっていたようで、気が付いた時には差し出された一杯を飲み干してしまっていた。


 優人が冷たいため息をほうとつくのと同時に、柳念はどこか思い出したように慌てて立ち上がった。


「ああ、すみません。そうでしたそうでした、公民館に連絡しないと。申し訳ありません、無駄話ばかりしてしまって」


 恐縮する尼僧に、優人は「いえいえ、全然」と頭を下げる。困ったように立ち去っていく尼僧の背中を見つめていると、なんとも肩の力が抜けた。


 僧侶というより、その立ち振る舞いは親戚のおばさんかなにかだ。そんなことをゆらゆらと考えながら、優人の視線は窓の外へと向けられる。


 このままだといずれ、夜が来てしまう。ただでさえ連絡が取れない状態で、そのうえ村から光が消え去ってしまえば、川嶋と合流するのは至難の業となってしまうだろう。


(やはりおとなしく、宿で待つべきだったか……)


 優人の中にわずかばかり後悔の念が湧き上がってきたが、過去を悔やんでも仕方がない。


 尼僧はこの寺にある電話を使って、公民館に連絡を取ると言っていた。ならば同様に、優人らが宿泊している民泊にも連絡を取れないかと、不意に思いつく。川嶋が帰っていなかったとしても、待機しているはずの荒木双葉とは情報交換ができるかもしれない。


 そう思い立ち、優人はおもむろに立ち上がろうとした。尼僧を追いかけようと、あぐらの体勢から足をつき、力を込める。


 だが、ただ立つという単純な動作が、なぜかうまくいかない。つま先から膝、腰に至るまでがなぜか酷くふわふわとした感覚に包まれ、思ったように力を込めることができない。


 はじめは妙な体勢で座っていたせいか、足が痺れてしまったのかと思った。しかし、どれだけ待っても一向に足の感覚が戻ってくることはない。それどころか、時間が経てば経つほどに虚無感は足から腰、胴体から腕へと登ってくる。


(――何事だ?)


 自身の肉体に起こった異変に、優人は思わず目を見開いてしまう。こけそうになって咄嗟に手を出したが、それすらも力なく空を切り、目の前のちゃぶ台へと体が倒れ込んだ。


 激しい音を立てて湯呑が倒れ、残っていた茶がばらまかれる。だが、指先に触れたそれから、熱さすら感じ取ることができない。肉体全体に痺れが巡り、完全に優人の自由を奪ってしまう。


 優人が畳の上に倒れ込み、必死に起き上がろうともがき続けるなか、真横に傾いた視界のなかに法衣の裾が映り込んだ。


 いつの間にか目の前に、尼僧・柳念が戻ってきていた。優人は必死に顔を持ち上げ、彼女に助けを求める。しかし手を伸ばそうにも、もはや腕一つ満足に持ち上げることができない。


 なんとか視線のみを動かし、表情のみで必死に訴える。一方で、倒れてもがき苦しむ優人を見下ろしたまま、なおも柳念は変わらぬ笑みを浮かべていた。


「おやおやぁ、ようやく効いてまいりましたかぁ」


 にこやかに語る彼女の言葉に、一瞬、なんのことか分からず呆けてしまう。だが、優人はすぐにその意図をくみ取り、今度は自身が倒した湯呑へと視線を向けた。


(なにか、盛られたのか――!?)


 優人には、理由は何一つ分からない。なぜ、偶然訪れた自分がこんな目にあっているのかも、目の前の彼女がこんなことをするのかも。


 それでも、この謎の痺れは間違いなく、あの奇妙な茶によるものだ。あの中に、薬品かなにかが仕込まれていたのだろう。


 どれだけ優人がもがこうとも、柳念はそれ以上、手を出しはしなかった。彼女はただただ背筋を伸ばして立ったまま、苦しむ優人を見下ろし、笑っている。


 柔らかで物静かなその笑みに、慈悲などない。いまさらになって、彼女が浮かべるそれがただの仮面のようなものなのだと、優人は悟ってしまった。


 必死に歯を食いしばり、優人は喪失感に耐え続ける。しかし抵抗もむなしく、その意識までもが混濁していってしまった。


 気を絶し、微かに体を痙攣する優人の姿を、なおも見下ろし続ける尼僧。優人がどれだけ苦しもうとも、どれほどにあがこうとも、その仮初の笑みが消えることは決してなかった。

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