第15話

 強い風が集落を駆け抜けると、その度に山がざざざとうめき声をあげて揺れる。草木が傾いたことをきっかけに、小さな虫たちが驚いて飛び出した。


 不意に自身の腕にバッタが止まったことで彼は少し驚いてしまったが、すぐに「しっしっ」と手で払いのけてしまう。突然の珍事にため息をつき、それでもなお川嶋は茂みの中に腰を落としたまま、周囲をうかがった。


 彼の目の前には村唯一の寺がある。石段や鳥居、その奥に鎮座する社や物置が、夕暮れの光で一面、茜色に染まっていた。なんとも幻想的な風景だが、あいにく川嶋は田舎の情緒あふれる風景を楽しむため、こうして高台で息をひそめているわけではない。


 彼が観察していると、寺から一人の僧侶が出てきた。頭を丸めた尼僧で、先程、川嶋の相手をしていた人物である。確か名を柳念といったはずだ。


 尼僧はどうやら外出の用事があるようで、そのまま石段を下り、村のほうへと歩いて行ってしまう。遠ざかっていく彼女の背中をしばらく見送ったのち、川嶋は直ちに行動に出た。


 彼は足早に茂みを抜け出し、寺の裏手へとまわる。社の脇を抜け、砂利の上で音を立てないように慎重に移動した。


 寺の裏側には木製の門があり、かんぬきの代わりに大きな紙の札が張り付けられている。旧字体ゆえに読み解くことはできなかったが、筆で堂々と書かれたそれは無言の威圧感を放ち、門に近付く者を拒んでいるようだった。


 事実、門はこの先――東側に位置する山に立ち入ることを、防いでいるのだ。


 川嶋が調べ上げたところ、周囲の野山に村人が入ることもあるようだが、それはあくまで山の麓のみの話だ。ある一定以上の高度に達すると、そこから先は〝禁足地〟として立ち入ることを許されない。


 そのなかでも特に顕著なのが、この東側の山だ。山の入り口前には寺が立っており、参道への入り口も門によって厳重に守られている。すなわち、東の山に至っては麓すら立ち入ることができず、山そのものが〝禁足地〟と化しているのだ。


 先程、川嶋はこの寺の住職である尼僧・柳念への取材を終えたばかりだった。最初こそ世間話に花を咲かせていたのだが、核心に触れようとするたび、尼僧はあの手この手で川嶋の追撃をかわしてしまう。


 特にこの東の山――その奥の禁足地のことを問うても、まともな回答は何一つ得ることができなかった。それどころか「近付かない方がいい」だの「この時期はイノシシも出ますので」などといった、当たり障りない言葉で打ち返されてしまう。


 気が付いた時には川嶋は木製の門に手を伸ばし、わずかな取っ掛かりを利用して登り始めていた。なんら躊躇することなく、彼は一気に四肢に力を込める。


(随分と馬鹿にしてくれるな)


 川嶋は肉体に力を漲らせながらも、先程の尼僧の顔を思い浮かべ、歯噛みしてしまう。知らぬ、存ぜぬを貫き通せば、川嶋が諦めるだろうと踏んでいたのだろうが、あいにく川嶋はこのまましぶしぶ帰るという選択肢などはなから持ち合わせていなかった。


 それどころか、彼は優人や女探偵・荒木双葉と合流するという選択肢も、勝手に捨て去っていたのだ。また一つ、出っ張りに足を引っかけ、跳びあがる。


(いまさら、なにを躊躇する必要があるんだ……)


 優人の言葉を聞く限り、間違いなく〝鐘〟が眠っているのはこの東の山なのだ。これだけ厳重に警備が敷かれているのも、その証拠なのである。


 ならば、やるべきことは一つしかない。村人が禁足地と言おうが、そこに求めてきた〝鐘〟があるならば、堂々と踏み込み探しに行くしかない。


 かつて優人に一度釘を刺されたこともあったが、それで治まるほど川嶋が抱いた探求心は浅いものではなかった。彼はついに木製の門を乗り越え、なんとか向こう側に着地する。


 慣れないことをしたせいか両手足がひどく痛んだが、そんなことよりも川嶋は周囲を包む空気に思わずたじろいでしまった。


 門を一つくぐっただけだというのに、なぜかひどく気温が下がったように感じてしまう。目の前には石段が続いていたが、すぐ先は朽ち果てた山道となっており、伸び放題になった草木が出迎えてくれる。


 どうやらもう随分と長い間、手入れをしていないらしい。禁足地であるがゆえ、ここを訪れる人間自体、ほぼいなくなってしまったのだろう。


 頭上を樹木の葉が覆っているせいで、夕日がほとんど地面に届いていない。川嶋は持ってきた小型の懐中電灯を取り出し、慎重に前へと進んでいく。


 獣道に足を踏み入れると、独特の青臭い香りがそこら中から押し寄せた。最初こそ音を立てないようにと気を配っていたのだが、そんなものはすぐにどうでもよくなってしまう。


 なにせ、どれだけ気を付けようが伸び放題の雑草に体が触れ、がさりごそりと音が鳴ってしまうのだ。川嶋は気にするのをやめ、堂々と、強引に肉体を自然の中へと押し込んでいった。


 まともに整備されておらず、そのうえで傾斜になっている野山を登るのはかなりこたえる。みるみるうちに体力が削り取られ、川嶋の呼吸は大きく乱れ始めてしまった。山の中の空気はやはりひんやりと冷たかったが、それでも消耗した肉体の奥底から水分が搾りあげられ、汗となって沸き上がった。


(こんな所、二度と来るもんか……)


 心の中で悪態をつきながら、川嶋は汗をぬぐい、眼鏡をなおす。


 彼はこれまでも幾度となく奇妙な土地に足を運び、そこに根差した歴史を紐解いてきたが、この『幸人村』はあまりにも異質だ。古くからの風習がいくつも根付き、〝鐘〟によって人が死ぬという異常事態にもかかわらず、それすら村人は受け入れてしまっている。


 優人に話を聞いた時は、それこそ「まさか」と笑ったものだ。だが実際に村に足を踏み入れ、調査を数日続けただけでもその異様さが十分に伝わってくる。


 恐怖や不安はあったが、一方で川嶋はこれまでにない強烈な興味をそそられた。誰が止めようとも、どんな迷惑をこうむろうとも、ここまで来たらこの目で〝鐘〟を一目見なければ気が済まない。


 川嶋の本質は彼――かつて呼びつけた動画配信者・戸倉清二と、そう違いはなかった。戸倉が配信者としての自分を最優先するのと同じで、川嶋もまた常に自身の中でくすぶる好奇心のみを優先し、動いてきた。


 それ故に、彼は〝禁足地〟に堂々と踏み入っておきながら、罪悪感などこれっぽっちも抱いてはいない。


 だいたい、ただ調査を行うだけなのだ。最悪、禁足地に入ったことがばれたとしても、平謝りしてそのまま村から帰ってしまえばいいこと。


 優人はなんだかんだと村人への配慮の姿勢を見せていたが、川嶋からすればそれも酷く無意味で、どうでもいいことにしか思えない。あくまでこの村は、川嶋にとっては調査対象に過ぎないのだから。


 呼吸が乱れ、手が、足が痛む。だがそれでもなお、どこか朦朧とした意識のなかで、川嶋は目的地を目指して登り続けた。


 しばらく山の中を歩いているはずなのに、一向にそれらしき建物や物体は見えてこない。あれだけの大きな音色なのだから、さぞ巨大な〝鐘〟なのだと予測していたが、それを置いているような施設にまるで辿り着く気配がなかった。


 なぜか山を歩いているだけで、川嶋の意識はいたずらにかき乱されていく。体力を消耗しているせいだと思っていたのだが、妙に精神がふわつき、思うように思考を巡らせることができない。


 今自分は、どのあたりにいるのか。


 どれくらい登り、どこを捜索しているのか。


 禁足地と呼ばれる野山を駆け回りながら、川嶋はただひたすらにお目当ての存在を探し続ける。彼は好奇心のみを頼りに、眼鏡の下の眼をかっと見開き、視線を右へ左へと走らせた。


 そんな川嶋の足が、ようやく止まる。突如、足元から響いた「ガチン」という音と共に、左足が動かなくなってしまった。


 最初こそのん気に首をかしげていた川嶋だったが、徐々に事の重大さに気付く。


 希薄になっていた意識が覚醒し、左足首に伝わる強烈な〝痛み〟を全身に走らせた。あまりの激痛に、彼は思わず悲鳴を上げそうになってしまう。


 川嶋は背の高い雑草をかき分け、なんとか足元を確認する。自身の足首に食らいついている〝それ〟の姿を捉え、彼は絶句する他なかった。


 いつの間にかその左足首に、鉄製の〝罠〟が食らいついていた。刺々しい牙のような突起が左右から川嶋の足を挟み込み、深々と食い込んでる。


 〝トラバサミ〟と呼ばれる、古来から日本で使われてきた野獣用の罠だ。野獣の足を止めるために仕立てられたせいか、刃が食らいつく力はことさら強く、こうしている間にもめきめきと川嶋の細い足首へと食い込んでいる。


「ぬ――がぁああ!?」


 たまらず、普段は発することのないような獣じみた咆哮が喉から湧き出た。あがけばあがくほどに足首の傷が広がり、燃えるような痛みが全身を駆け巡る。


 幾度も血が吹きあがり、衣服や周囲の雑草を赤に染め上げた。川嶋は渾身の力を込めて鉄の牙を外そうと試みるも、まるでびくともしない。それどころか、手をかけた指先までも鋭利な刃で斬り裂かれ、鮮血に染まる。


(なぜ、こんな場所に、こんなものが――!)


 彼は歯を食いしばり、涙まで浮かばせながら必死に力を込める。なおも奥へ奥へと食い込んでいく刃の感触が、ただただおぞましく、不快でならない。


 薄暗い森のなかに、奮闘する川嶋の「フゥー」という吐息の音が響いた。血と泥、汗にまみれながら、彼は一人孤独に足元の罠と格闘する。


 しかし、川嶋は次第にある違和感を抱き、ほんのわずかに冷静になってしまった。足首から走る激痛と呼吸音のせいで気付かなかったが、妙な気配がこちらへと近付いてくる。


 一瞬、誰かが助けに来てくれたのかと思い、妙な期待を抱いてしまう。だが、その気配が距離を詰めれば詰めるほどに、どうにも異質な空気を感じざるをえない。


 どすどすと重く不規則な足音を立て、〝それ〟が川嶋へと近付いてくる。生い茂る雑草を押しのけながら、まるでひるむことなく巨大な気配がこちらへと一直線に向かってきていた。


 随分と健脚なのだろうが、どうにも歩行音がおかしい。大地を踏みしめるそれはどこか不規則なリズムで、重々しく響き渡る。


 鉄の刃は肉のその奥にある堅牢な骨にまで到達していたが、それでも川嶋は声を上げず、本能的に息をひそめてしまった。滝のような汗を流したまま、茂みの奥へと目を凝らす。


 薄暗い森の奥から、「フゥー」というもう一つの呼吸音が近付いてきた。しばらくしてようやく、川嶋は自分へと近付いてきていたものの正体を目の当たりにする。


 〝それ〟は川嶋のすぐそばにたどり着き、こちらをじぃっと睨みつけていた。黒々とした毛並みが、木々の隙間から差し込むわずかな茜色を受け、ぎらぎらと輝いている。口元からわずかに迫り出した短くも太い牙は、汚れてこそいるものの、〝それ〟の持つ攻撃性をそのまま体現するかのような鋭さを秘めていた。


 川嶋にはそれが一瞬、大きな〝豚〟かなにかに見えてしまった。だが、しばらく全体像を眺め、その正体を悟る。


 巨大な〝イノシシ〟がそこにはいた。


 川嶋も何度か実物を見たことはあるが、過去に見たそれよりも遥かに大きい。地面に片膝をついた川嶋を、イノシシは悠々と見下ろしている。


 すぐそばで、獣の熱く重い吐息が滾っていた。野獣はよだれを口の端から垂らしながら、大きく見開いた両の目でしっかりと川嶋を睨みつけている。片目はなにかで傷付けたのか白濁してしまっていたが、圧を持った視線が川嶋の肉体を容赦なく貫いた。


 生まれて初めて真正面から対峙する野生そのものに、川嶋の細胞が鳴動する。言葉も介さず、意思疎通すら取れない目の前の怪物に対し、本能が危険信号を発していた。


 逃げろ――理由すら分からない警告が、体内で乱反射する。思わず一歩、後ずさろうとした川嶋だったが、左足首に食らいついたトラバサミがそれを許さない。体重をかけたことで肉が「みちり」と嫌な音を立て千切れた。


 川嶋はついに、痛みに悲鳴を上げそうになる。だがそれよりも、目の前でこちらを睨みつけるイノシシが彼の咄嗟の動きに、素早く反応してしまう。


 巨体が大地を蹴り、唸り声を上げながらこちらに突進してきた。野獣は川嶋を敵と認識し、それを全力で排除すべく己が肉体を砲弾と化す。


 目の前の圧が増し、大気に染み出した〝殺気〟そのものがいち早く肉体を叩いた。川嶋は唖然としたまま、なすすべなく真正面から猪突猛進を受け止めてしまう。


 ずがん――と視界が弾けた。横殴りの凄まじい衝撃が男の肉体を弾き、吹き飛ばす。肺が一気に押しつぶされ、体内の呼気が力任せに奪い取られてしまった。


 イノシシの一撃に、ついに川嶋の足首が破損してしまう。トラバサミでズタズタになった足首が骨ごと千切れ、ようやく肉体が自由になった。切断面から鮮血をまき散らしながら、川嶋の体は大きな放物線を描いて飛ぶ。


 高速で野山の視界が走った。悲鳴を上げようにも、一撃によって肺の中の空気は残っておらず、「かひゅう」という情けない音色が喉の奥から絞り出される。川嶋の華奢な肉体が数度、地面を跳ね、斜面を転がり落ちたところでようやく、止まった。


 視界がぐにゃりと歪み、体中、至る箇所でおぞましい痛みが暴れ狂っている。熱いような、痺れるような、まるで特性の異なる痛みの束が好き勝手に、無遠慮に肉体を弄んでいく。


 かすれるような呼吸を繰り返し、それでも川嶋は意識を失わずに目を見開く。うつぶせになり、泥にまみれながらもなんとか地面に手をついて起き上がろうとした。


 激痛のせいで、うまく力を込めることすらできない。10分以上の長い時間をかけ、彼はなんとか残った一本の足で立つことができた。周囲に生えた樹木に寄りかかるように、跳ねるような形で弱々しく移動していく。


 川嶋はまだ、生きている。だがそれでも、その肉体は満身創痍という他ない。左腕は折れ、体が跳ねるのに合わせてぶらぶらと力なく揺れた。切断された足首からはなおも血が溢れだし、どろどろと垂れ落ちていく。


 眼鏡が割れてしまったせいで視界すらおぼろげだが、それでも川嶋は生存本能のみを頼りに進み続ける。


(誰か……助けてくれ――)


 もはや、〝鐘〟のことなどどうでもよかった。とにかく今はこの忌まわしき山を下り、誰かに見つけてもらうことが先決である。


 死にたくない、という一心で川嶋はボロボロの肉体に鞭を打ち続ける。どれだけ痛みが襲い掛かろうが、吐き気が湧き上がって来ようが、暗くなる前に何としてもこの山から脱出しなければならなかった。


 右へ、左へ、もはや方角も分からないまま飛び跳ね続けると、急に獣道が開けた。突然、足裏に伝わった固い感触に、ボロボロだった意識が思わず覚醒してしまう。


 一瞬、寺まで戻ることができたのかと、川嶋は錯覚してしまった。しかし、周囲を見渡すとそこはまだ山の中腹のようで、木々の隙間からわずかに夜が迫る幸人村の全景を眺めることができた。


 視界に村が見えたことで道を下ろうとした川嶋だが、自分が今立っている場所がただの斜面でないことに気付き、思わず目を見開いてしまう。


 彼の足元に広がっているのは、組み上げられた石段である。平らに整えた階段がいくつも連なり、上へ上へと伸びている。所々には灯篭のようなものも置かれており、蠟燭を配置する皿も見えた。


 明らかな人工物の登場に、川嶋の混濁していた意識が研ぎ澄まされていく。彼は灯篭にもたれかかったまま、遥か上まで伸びるその石段の先を見つめてしまった。


 禁足地とされている野山の中に、突如として現れた石段。その先に待つものを予感してしまった時、川嶋の中でなにかとてつもなく大きな感情が弾けてしまう。


 先程まではずっと、この山を下りることばかりを考えていた。しかし、まるで吸い寄せられるように、気が付けば川嶋は石段を上っていく。


 体が跳ねる度、壮絶な痛みが肉体を貫き続けた。まるでなにかが「行くな」と警告しているかのように、一歩を踏み出す川嶋を責め立てる。傷口から溢れ出た血が石段へと落ち、微かな音を立てて弾けた。


 しかし、生きたいという生存本能を、もう一つの強烈な感情が抑え込んでしまう。川嶋の体内に眠っていた〝好奇心〟が、朦朧とする意識の中で膨れ上がり、彼の精神を狂わせていた。


 石段を上れば上るほどに、周囲に生い茂っていた木々が姿を消していく。気が付いた時にはすらりと伸びた石段と、ごつごつとした野山の岩肌が目の前に広がっていた。


 石段はその先――岩肌の裂け目にできた洞穴へと続いている。ぽっかりと開いたその空洞の闇を見つめながら、一歩、また一歩と川嶋は前へ進んだ。


 誰が一体、こんなところに石段を作ったのか。この山頂付近の洞窟に、なにがあるというのか。


 至極当然の疑問だったが、その答えを川嶋は理屈ではなく、感覚で理解してしまうこととなる。


 一歩、石段を登ったところで、岩の割れ目の奥になにかが覗いた。ふらふらしながら、遠くに見えたその正体を突き止めるべく、彼は必死に目を凝らす。


 眼鏡を失ったため、川嶋の視界はひどくぼやけていた。にも関わらず、なぜか不思議と離れた位置にある洞穴の風景だけが浮き上がり、克明に意識のなかに入り込んでくる。


 そこには、〝誰か〟がいた。暗い洞穴の奥に何者かが鎮座し、黙したままこちらを見下ろしている。


 一体、誰なのか。こんなところで、なにをしているのか。


 疑問を抱きながらまた一歩、川嶋は洞穴に近付くように前へと跳ねる。


 足裏が石段を踏みしめた瞬間、また一つ、ぼやけた視界の中に〝あるもの〟が浮かび上がった。


 洞穴に座る何者かの、目の前に〝それ〟はある。独特の丸みを帯びた〝それ〟は、岩の割れ目から差し込むわずかな夕日を受け、一瞬、ギラリと輝いたように見えた。


 あれは――〝鐘〟だ。


 瞬間、川嶋は自然と笑みを浮かべてしまっていた。肉が腫れ上がり、歯が数本砕け落ちた口元が、ぐにゃりと歪む。満身創痍でなお、肉体の中心を痛みではなく、激しい喜びが貫いた。


 〝鐘〟はたしかに、あったのだ。


 自分はついに、その〝鐘〟にたどり着いたのだ。


 理性の鎖が、音を立てて引きちぎられる。川嶋の奥底で好奇心が暴れだし、肉体そのものを支配してしまった。


 脳内に快楽物質が放出され、痛みが遠のく。どくどくと全身が脈打つのを感じながら、川嶋はついに叫び声をあげてしまった。


「やった……やったんだ……ついに――見つけたぞ!!」


 彼は手を広げ、遠くに鎮座するそれを受け入れるかのように、天を仰ぐ。


 しかし、残っていた一本の足から突如として力が抜け、川嶋の体は後方へと大きく傾いてしまった。


 残された左足が限界を迎え、骨が砕け折れる。制御を失った男の肉体は、先程まで上ってきた石段を転がり落ちていった。


 何度も、何度も、石段が肉体を叩いていく。肉が潰れ、骨が砕け、それでもなお川嶋はゴロゴロと転がりながら、狂ったような笑顔を浮かべていた。


 嘘なんかじゃなかったのだ。


 確かにこの場所に、〝鐘〟はあったんだ。


 そんな歓喜に打ちひしがれながら、川嶋は壊れた人形のように手足をばたつかせ、破壊されながら下へ下へと落ちていく。


 大きく肉体が跳ね、放物線を描いた。そのさなか、川嶋の耳にも確かに、〝それ〟が聞こえてしまう。


 ごぅぅん――鳴り響いた音色に、なおも川嶋は確信した。あの場所にあったあれこそ、本物なのだ、と。


 笑顔のまま、目の前に広がる夕焼け空を眺め、落ちていく川嶋。田舎の空を染め上げる茜色はただただ爽快で、幻想的な美しさに満ち溢れていた。


 凄まじい幸福感を抱いたまま、肉体は転がっていく。その落下位置に偶然落ちていた岩が、ごしゃりという音を立てて頭蓋の奥へとめり込んだ。


 体がようやく止まる。後頭部に大きな違和感を抱きながら、それでも川嶋は遠くの空へと手を伸ばし続けた。


 あの場所に、〝鐘〟はあったんだ。


 全身を貫いていた痛みが消え、ただただ心地良い睡魔にも似た感覚が体を包み込んでいた。


 流れ出た鮮血が放射状に広がっていく。その赤い海の中心で川嶋は呼吸を止め、まばたきすらせずに空を見上げる。


 事切れるその瞬間まで、彼が抱いた幸せそうな笑みが消えることはなかった。

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