第14話

 名前を告げたことで佐久間曜子はすんなりと玄関を開けてくれたが、優人ともう一人、すぐ脇に立っていた見慣れない女性の姿に彼女はわずかにたじろいでいた。


 昼下がりの太陽に照らされた荒木双葉の姿は、その髪色とスーツの色合いのせいで、闇そのものが形を成して立っているような奇妙な錯覚を受けてしまう。


 唖然としてしまう曜子に、優人は頭を下げた。


「どうも。突然、押しかけてしまってすみません」

「ああ、いえ……あの、何のご用ですか?」


 以前、夫のことを取材したときに比べ、また少し曜子は瘦せたように見える。やはりまともに睡眠もとれていないのか、大きな眼の下には相変わらずくまが現れていた。


 夫を失った傷が、この短い間で癒えるわけもないのだろう。少しいたたまれなくはなってしまったが、あいにく優人たちは、世間話をするために彼女の元を訪れたわけではない。


 優人は同行者である荒木双葉の素性を含め、手早く事情を説明した。曜子は終始、「はあ」と気のない返事と共に頷いていたが、とりあえず二人の思惑は理解してくれたらしい。


「主人の部屋――ですか?」

「ええ。一茂さんのお部屋や遺品を、良ければ確認させてほしいんです。なにか、〝鐘〟についての手掛かりがあるのでは、と思っていまして」

「はぁ……それは別に構いませんが」


 手掛かりなどあるものだろうか――きっと曜子はそう否定したかったのだろうが、二人を跳ね返すほどの気力すら彼女には沸いてこない。曜子に案内されるまま、二人は佐久間邸へと足を踏み入れ、1階奥の一室へと足を踏み入れた。


 襖を開けると、目の前には六畳ほどの和室が広がっていた。机や箪笥と一般的な家具が一通り揃っているのだが、うっすらと積もった埃から、曜子がこの部屋に踏み入っていないのが見て取れる。彼女にとってこの部屋は、亡き夫を思い出してしまう悲しい場所なのだろう。


 それゆえか、曜子は最後尾に立ったまま、あまり部屋の中を覗き込もうとはしなかった。それどころかどこか投げやりに、「どうぞ」と二人をあっさり夫の部屋へと送り込んでしまう。


 結局、優人と双葉のみが部屋に取り残された。曜子が居間に戻ったのを確認し、二人は早速作業に取り掛かる。


「しかし、だ。〝鐘〟の手掛かりっていったって、こんな所に都合良く見つかるものかな?」

「佐久間夫妻は別の土地からこの幸人村に移り住んだのだから、あまり核心的なことは知らないままだったんじゃあないかしら。そういった意味では、〝鐘〟の正体に迫るような、決定的な物証は望めないでしょうね」


 優人が「じゃあ」と反論しかけたが、双葉はすかさず続ける。


「けれど、佐久間一茂という人間についてもっと深く知れれば、なにか手掛かりは見つかるかもしれない。彼がなぜ、〝鐘〟に選ばれたのか。その死の経緯を読み取れるものを見つけたいのよ」


 すでに双葉の視線は鋭く研ぎ澄まされ、狭い室内を注意深く観察し始めていた。彼女が探偵としてスイッチを切り替えたことで、部屋の淀んだ空気にぴりりとした緊張が走る。


 双葉に合わせるように、優人も手分けしながら室内の捜索を始めた。あまり乱暴に取り扱わないよう、机の上の品々や本棚の書籍などを慎重に確認していく。


 しかし、容易に目ぼしい手掛かりにありつけるわけもない。机の上には一茂が仕事で使っていたであろう製図関連の道具が並んでいるだけで、優人からすれば用途すら分からないものも多かった。本棚はというと、それこそ設計関連の資格書や娯楽小説、いくらかの漫画雑誌が並んでいるのみと、なんとも淡白なラインナップとなっている。


 ものの10分もすれば、六畳一間の捜索などあらかた終わってしまう。優人がベッドに腰かけてため息をつくなか、双葉は念入りに本棚の資料を一つ一つ、丹念に調べ上げていた。


「どうにも佐久間一茂って男は無趣味だったんだな。仕事に賭けていたのかもしれないが、なんだかこっちまで息が詰まりそうだぜ」

「真面目な人間だったんでしょうね。それでいて几帳面でもある。本はどれも折り目一つなく読んでるし、帯まで保存しているわ。本の背表紙や高さごとにきっちりと並べているあたり、自分なりのルールを徹底する性格みたいね」


 たかが小さな本棚一つで、そこまで主の人となりを読み取ってしまう双葉に、優人は目を丸くしてしまった。また一つ、彼女が探偵なのであるという事実を痛感せざるをえない。


 以前、曜子から聞いたかぎりでは、佐久間一茂は大手製薬会社・『佐久間製薬』の跡取り息子の一人として生まれ育った。だが一方で、彼は親に敷かれたレールを良しとできず、親族との縁を絶ってまで駆け落ちし、曜子と共にこの『幸人村』で第二の人生を歩み始めていたはずだ。


 優人は先程、自分が調べていた机の上を見つめる。彼は製薬業ではなく、己のやりたいこと――恐らく設計のようなものなのだろうが――その道で生きていくことを決めたのだろう。


 自分のやりたいことをして生きていくということは、時にひどく困難で厳しい。佐久間一茂という男性の生き方からは、そんな人生の無情な理を感じざるをえない。


 真剣に資料を調べる双葉を眺めながら、優人はベッドに腰かけたまま背筋を伸ばす。佐久間家を訪問すること自体が一種の賭けではあったのだが、なかなか手厳しい現実に辟易してしまいつつあった。


 だが、不意に伸ばした彼の指先が、なにか固いものに触れる。何気なく視線を走らせた優人は、ベッドの端――マットレスと木枠のわずかな隙間に、一冊のノートが落ちているのを発見した。


 なんの気なしに引き抜いたところ、小さな大学ノートである。タイトルすら記されていない表紙はそれでも随分と使い古しているのか、所々が色褪せ、擦り切れていた。


 優人はリラックスしたまま、まるで警戒することなくページをめくる。しばし、そこに記されていた小さな文字の群れを眺めていたが、その正体に気付き息をのんだ。


「おい。これって――」


 優人の異変を察したのか、双葉も手を止めて近寄ってくる。彼女も立ったまま、優人が手にした一冊を覗き込んだ。


 そこには小さな文字でびっしりと、1日ごとの出来事が記されていた。紙面の罫線に沿うよう丁寧に書き込まれた文字の数々が、持ち主の几帳面な人柄を物語っている。


 それは明らかに、この部屋の主――佐久間一茂が記した日記であった。


「なるほどな。仕事一筋の一茂がコツコツ続けていた、ささやかな趣味ってところか」

「ええ。凄いわね、これ。日付を見るに、かなり前から続けていたみたい」


 文章の長さは日ごとにまちまちであったが、その日にあった出来事が一茂の心境を交えながら丁寧につづられている。とはいえ、やはりその内容は平々凡々としたものばかりで、特段、目を引くようなものは見受けられない。


 近隣の農家からかぼちゃを分けてもらっただの、妻・曜子と共に桜を見に行っただの、どこにでもありそうないたって普通の日記に思えた。ページをめくりながらも、優人はどこか肩透かしを食ったようにため息をつく。


「こんな田舎で暮らすってのは、そう大きな出来事も起こらないんだろうな。ご近所付き合いとか、家庭内でのあれこれくらいしか書かれてなさそうだ」


 さしたる進展もないことに飽き飽きしてしまい、優人は思い切ってページを大きくめくる。双葉が「ふむ」と口元に手を当てるなか、最近の記述へと視線を落とした。


 しかし、そこに記されていた一文に、優人の意識が覚醒してしまう。


『もうおしまいだ。家族に居場所がばれてしまった』


 全文を読まずとも、その内容がこれまでの雑多な日記とは一線を画すものなのだと理解できてしまう。やはり隣にいる双葉が異変にいち早く気付くなか、優人は一気に文章を読み進めていく。


『これまで隠し続けてきたというのに、とうとうかぎつけられたらしい。親父のやつ、家の電話番号まで探り当てて、直接電話をかけてきやがった。まずい――このままだとあいつらはいずれ、この場所までやってくるだろう』


 双葉が横から「どうしたの」と問いかけてくる。優人は紙面を見せつけながら、手早く読み取った内容を説明した。


「二人の居場所が、ばれていたですって?」

「ああ。今までさんざん逃げ回ってきたようだが、どうやら限界はあったらしいな。なにせ、こいつの親は大企業の社長。あの手この手を駆使して、この場所を探し当てたんだろうさ」


 佐久間一茂は曜子と過ごす安住の地をこの『幸人村』に選んだのだが、どうやら平和な時間は長くは続かなかったらしい。彼の父は二人の居場所を突き止め、秘かに一茂に連絡を取っていたのである。


 優人と双葉はこの先に書かれているであろう事実に、ただただ悪い予感がした。二人は身を引き締め、意識を研ぎ澄まし、さらに日記を読み進めていく。


『親父のやつ、何度もしつこく連絡してきやがる。今回ばかりは逃がすつもりがないらしい。まだ曜子には伝えていないが、いずればれるのも時間の問題だろう。どうすればいいのだろうか』


 日付が進行すればするほどに、如実に佐久間一茂が置かれた状況は悪くなっていく。彼は妻・曜子にもその悩みを打ち明けられず、一人であれやこれやと抱え込んでいったようだ。


 焦りからか、それとも親族に対して抱いた憎悪故か。はじめは美しく整っていたはずの文字の羅列が、後半になればなるほどに荒々しく、醜いものに移り変わる。書き手である佐久間一茂の肉体に宿った憤りが、ペンを通じてインクのなかに染み出しているかのようだ。


『なぜ、ここまでして俺にこだわるんだ。企業になんて興味がないとあれほど言っているのに、まるで聞く耳を持ってくれない。本当に奴らは頭のいい人種なんだろうか。ただ良い身分に生まれただけの、運が良かっただけの生き物なんじゃあないのか』


 当初こそ冷静に対処しようとしていた一茂だったが、追い詰められるほどに彼のなかに渦巻いていた負の感情があらわになっていく。彼が親族に対して抱いた憎しみの深さに、思わず日記を手に取った優人も生唾を飲み込んでしまった。


「どうやら相当、思い悩んでいたみたいだな。そのうえで、徹底的に自分の血族が気に入らないらしい」

「御曹司特有の苦悩ってことかしら。しかしこの文体――彼、かなり精神的に参っていたのね」


 後半の日記には所々、消しゴムすら使わずにペンそのもので黒く塗りつぶした記述すら登場する。筆圧も強くなっているようで、佐久間一茂がいかに摩耗し、擦り切れていたのかが見て取れた。


 薄いノートのなかに、一茂が生前に残した濃厚な〝思念〟が確かに宿っている。


 意を決し、優人はノートに残された最後の手記に目を通した。


『もう決めたのだ。やつらはいずれ、ここにやってくる。その時が来たら、やつらとの縁を断たなければいけない。話し合いなど無用だ。賢いと思い込んでいる馬鹿には、言葉なんて高尚なものは必要ない。奴らがここに来たら必ず――この手で殺してやる』


 その手記を最後に、以降は延々と白紙に罫線のみがうっすら浮かぶページが続いた。正真正銘、これが佐久間一茂が生前に書き残した、最後の日記である。


 ページを見つめたまま、しばし優人と双葉は絶句する他なかった。ただの文字の羅列だというのに、どうしようもない寒気が全身を包んでしまっている。


 言葉を発することすらはばかられた。しかし、体にまとわりついてくる重々しい空気を振り払い、あえぐように必死で優人は声を絞り出す。


「なんだよ、これ……一茂は肉親を――殺したがっていた?」


 さしもの双葉も言葉を詰まらせる。彼女は背筋を伸ばし立ち上がると、しばし冷静に呼吸を繰り返していた。混乱する思考を無理矢理に制し、探偵はなんとか前を向きなおす。


「あくまで、ここに記されたのは言葉の羅列でしかない。けれど、どれもこれも佐久間一茂という男性の奥底に眠っていた、心からの思いなのでしょうね。だとすれば彼は確実に――自分たちを追いつめる肉親を殺そうとしていた」

「そんなことが、ありえるのか……どれだけ憎かったとしても、自分の親だろう?」


 うろたえる優人に、双葉はふぅとため息をつく。彼女はあくまで冷静な、鋭い眼差しをこちらに向けた。


「どれだけ血を分けた親だったとしても、一茂さんにとってはそれはまったくの別物だったんでしょうね。血縁も、育ての親も関係ない。彼にとって肉親とは、自分と愛する人の生活を壊そうとする、ただの怨敵でしかなかったんじゃあないかしら」


 あくまで、ストレスを発散するために書きなぐった、一茂の戯れにすぎない――そう考えようとしたが、なんだか見れば見るほどに、その記述が嘘などではないのだと実感してしまう。


 佐久間一茂は生前、明確な〝殺意〟を抱いていた。もしかしたら彼は本当に、この幸人村までやってきた肉親を殺してしまうつもりだったのではないだろうか。


 六畳一間の中で、優人はノートを畳みながら考える。今となっては、この部屋の住人の人間像は当初とまるで異なったおぞましいものに変化していた。


 それを踏まえて、優人はある一つの仮説を立てていく。双葉が何事かと顔を覗き込み、問いかけた。


「どうかしたの。なにか、この日記に気になる点が?」

「いや、そういうわけじゃあ。ただなんか――繋がってる気がして」


 双葉がなおも首をかしげるが、優人はベッドに腰かけたまま、視線を床に向け集中する。


「この村では、〝鐘〟が鳴るごとに誰かが亡くなっている。俺の彼女だった真名、この部屋の住人である佐久間一茂、この間村に来た動画配信者・戸倉。もっと過去にさかのぼれば、あんたの姉の旦那さんも」


 優人は言葉に出すことで、知り得る限りの〝鐘〟の被害者をリストアップする。そして、そこに並んだ面々に感じた漠然とした感覚を、まずはありのまま伝えた。


「うまく言えないんだけど、こう――なんとなく皆、似てるような気がするんだよ」


 双葉が思わず「似てる?」と眉をひそめる。さらなる言葉を待ち構える彼女に応えるかのように、優人は必死に思考をまとめ上げ、それを具現化していった。


「例えば、俺の彼女――真名は美しくて仕事ができる女性だと思いきや、実は狡猾な一面を隠し持っていた。佐久間一茂は真面目に生きる男性だったが、実は肉親を殺したいほどに憎んでいた。動画配信者である戸倉はネット上では好感度の高い有名人だが、実際は村の人たちの迷惑を顧みない奴だった。〝鐘〟で亡くなった人間はどこか、強烈な〝表と裏〟を持っているような気がするんだ」

「なるほど。言われてみれば確かに、誰も彼も二面性を持った人間ばかり。私の姉の夫も、表面上はにこやかで物腰が柔らかだったのに、実際はDVに手を染めていた」

「そういえば……俺たちが泊まっている民泊の管理人さんも、過去に奥さんを〝鐘〟の音の直後に亡くしている。確か彼女は、〝鐘〟を調べるために〝禁足地〟に踏み込んで、亡くなったとか。皆、やったことはバラバラだけど、ある程度のパターンができてるんじゃあないか?」


 優人のその言葉は、多分に勢い任せの予測を含んでいたが、双葉にその想いは十分伝わっていた。彼女も腕を組み、部屋の中央に立って推理を加速させていく。


「亡くなった人は皆、普段の立ち振る舞いとは異なった〝影〟の部分を持っていた。しかもそれは、なにかルールを破ったり、他人を侵害したり、傷付けたり……いわゆる〝道徳〟的に間違った行いに手を染めた人ばかりね」


 道徳――この世界で生きる人間ならば、誰しもが成長の過程でおのずと身に着ける概念だ。他人を利用し成り上がろうとすることも、自身に付きまとう親族に殺意を抱くことも、村人たちの生活に無遠慮に立ち入ることも、どれも道徳的な行いとは言い難い。


 ましてや、禁止されている土地に足を踏み入れることも、妻に対し暴力を振るって黙らせることも。


 往々にして人間は、道徳的な生き方を徹底する存在を〝善〟として認識するものだ。そして言わずもがな、その逆の存在は――。


 優人はあくまで、自身の直感を信じた。ここまで進んできた自分が掴み取り、記憶の中にしっかりとしまい込んでいた事実の数々を手探りで繋げていく。


「亡くなった人間は……〝鐘〟が鳴るきっかけになった人物は皆――世間一般から見れば、〝悪〟の側に立つ人間だ」


 そこまで呟いた時、電流のような刺激が脳を貫いた。記憶の奥底で眠っていた、ある一人の人物の名前が急浮上してくる。


 かつてこの地は災厄にまみれていた。だが一人の僧侶がやってきたことで集落には平穏が戻り、人々は幸福になった。


 浄優という名を持つ僧――〝幸人〟として讃えられた彼は、この土地に根付いていた邪気を祓い、人々を救った。


 〝幸人〟は〝鐘〟を持っていた。そして彼は、その〝鐘〟を鳴らし――災厄を取り除いた。


 優人の体が、かぁっと熱くなる。目を見開いたまま、気が付いた時にはその肉体をおびただしい量の汗が伝っていた。


 彼はかすれるような呼吸のなかで、それでも必死に言葉を作り上げ、紡ぎだす。自分が辿り着いたその推測――否、限りなく事実に近いそれを、力を振り絞って双葉に伝えた。


 〝不幸〟を祓い、村に〝幸福〟を運んだ僧侶。


 姿形も分からない彼の存在を抱いたまま、優人はゆっくりと口を開く。


「そうか、だからか。だから、〝鐘〟が鳴るんだ。真名も、佐久間一茂も、戸倉清二も。死んだ人間は皆、誰かにとって〝不幸〟をもたらす存在だったんだ。だから――〝幸人の鐘〟が鳴るんだよ」


 自分自身、それが実に不完全極まりない推測なのだと分かってはいた。そもそも〝鐘〟がどこにあり、どんなもので、誰が鳴らしているのかまだ解明できていない。そんななか、〝鐘〟と人々の死を結び付けようというのは、いささか時期尚早なのではと思ってしまう。


 それでも優人は力強い眼差しを浮かべ、顔を持ち上げた。視線の先で女探偵・荒木双葉はどこかうろたえ、唖然としたまなざしでこちらを見ている。


「悪い行いに手を染め、他の誰かに〝不幸〟をもたらす――それが、この村に鳴っている〝鐘〟の条件だっていうの?」

「確証はない。けれど、そう考えるとなにか、納得できる部分があるんじゃあないか?」


 優人の言葉を受け、双葉は「ふむ」と顎に手を当てる。感情に流されることはせず、彼女はあくまで理論的に物事を捉えていく。


「たしかに、それであれば一応の所、亡くなった人間たちに一つの法則は見いだせるわね。けれど、もしそうならちょっと条件が厳しすぎないかしら? 例えばこの部屋の主――佐久間一茂さんは、肉親への敵意こそ抱いていたけど、別に何か行動に移しているわけじゃないわ。その程度で人が死ぬって言うなら、村中、そこかしこで人が死んでいくんじゃあない?」

「それはその通りだ。だから、単純に〝悪いことをした〟だとか、〝悪い考えを持っていた〟だとかじゃあないんだと思う。俺が語ったのはたぶん、〝鐘〟が鳴る条件としてのおおざっぱな概要にすぎない。きっとそこには、もっと厳密なルールがあるはずなんだよ」


 核心をえぐったわけではない。だが一方で、これまでの歩みのなかで明確に、優人は〝鐘〟という存在の輪郭を捉えることができた気がする。


 人は〝善〟でありたいと思う一方で、どこかで〝悪〟の心を抱いてしまう。その悪意に対しなにか条件が整った時、〝鐘〟が村に鳴り響くのだろう。


 そして、悪意を持つ人間――周囲から〝悪〟と認定されたそれは、命を落とす。


 荒唐無稽、極まりない話だと思う。だがそれでいて、優人は自身が抱いたその推測を馬鹿馬鹿しいと笑うことができない。


 この家にただ一人取り残された彼女は言っていた。この裏に夫婦で移り住んでからずっと、伝え及んでいたある一つの概念について。


 〝汚い心〟を抱いた人は皆、〝幸人様〟に連れていかれる。佐久間一茂の死に打ちひしがれた妻・曜子の言葉が蘇り、脳内に重々しく響き渡る。


 気が付いた時には、優人は手元のノート――佐久間一茂の日記を強く握りしめてしまっていた。


 ふるふると震える大学ノートのなかには、佐久間一茂が記した日々が確かに記されている。そしてその日記は最後に、彼が抱いた特大の敵意――否、〝殺意〟をあらわにしたことで途切れていた。


(だからこそ彼は――逝ってしまったのだろうか)


 六畳一間のなかで、今は亡きこの部屋の主に思いを馳せてしまう。思わず優人は、自身が初めに散策した机を見つめてしまった。


 きっとあそこで、彼はこの日記を書いたのだろう。痛いほどにペンを握り、歯を食いしばって、どこか遠くにいる怨敵を恨みながら。


 姿形はもはやない。だがそれでも、この部屋の空気自体に佐久間一茂の熱が染み出し、焼き付いているかのように錯覚してしまう。


 人が人を殺したいと思う時の心境は、どういうものなのか。


 彼は本当に肉親を、手にかけるつもりだったのか。


 そして、そんな彼をもしかつての僧侶が――〝幸人〟が見たら、どう思うのか。


 村の過去と今が、急激に繋がっていく。その感覚がとにかく奇妙で、優人は軽いめまいを覚えてしまった。

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