第13話

 早めの朝食を取りながらも、すでに川嶋は随分と興奮しっぱなしであった。優人から伝えられた数々の事実が寝ぼけていた彼の頭を叩き起こし、その奥底に居座っている〝探求心〟を刺激したのだろう。


 川嶋は味噌汁で喉を潤し、熱い吐息と共に笑った。


「その話が本当なら、〝鐘〟は間違いなくあの山の中だよ! それこそ、君が最初に〝鐘〟の音を聞いた時と、状況が一致するね。村人たちはきっと、〝鐘〟が山の上にあるということを知っていたんだ」


 興奮気味に語る川嶋だが、優人は白飯を片手にどこか冷めた目で彼を見つめてしまう。口に放り込んだきゅうりの浅漬けが、ぱりぱりと実に小気味良い音を立てた。


「ああ。連中も長いこと、この村にいるんだ。さすがに知っていないってわけじゃあなかったな」

「くぅ、ちょっと悔しいなぁ。連日、フィールドワークで村を練り歩いたけど、そんな痕跡は見つけることができずにいたよ。まぁ、それはそれで色々と興味深いものが見れたから、御の字ではあったんだけどさぁ」


 川嶋は麦茶で喉を潤し、なおも嬉しそうに語り続ける。こういった歴史にまつわる事実を前にすると、途端に口数が多くなるのも彼の特徴だった。


「しかし、そうと決まれば話は早いね。〝鐘〟は確実にあの山にあるんだ。ならば直接、登って見てみるしかないよ」

「けれど、あの山は〝禁足地〟なんだぜ? そんなにすんなりと、足を踏み入れられるもんだろうか」

「まぁ、そこは何とでもなると思うよ。必要ならばまた、なにか〝波〟を起こして、その隙に踏み込めばいいわけだし」


 川嶋はなんともあっさりと言ってのけたが、対する優人は少したじろいでしまう。味噌汁を口に運びながらも、どこか警戒した眼差しで嬉しそうに笑う彼を見つめた。


「おい、まさかまたこの前のあいつ――戸倉だっけか――あんなのを呼びつけるつもりじゃあないだろうな? やめろよ、無駄ないざこざが生まれるだけだ」

「まぁ、さすがにそこまでは。けど、そうは言うけど〝鐘〟の在り処が分かっていながら、今更、手をこまねいている理由もないだろう? 善は急げ、だよ」


 どこか強引に事を進めようとする川嶋のその態度が、やはり優人には少し気掛かりでならない。彼が以前のように、目的のために暴走してしまうのではと、不安になってしまった。


 二人は朝食を終え、手早く支度を終えて出発する。川嶋の言う通り、〝鐘〟の在り処についてはかなりのあたりがついたことが、二人の体にこれまで以上の活力を漲らせていた。


 足早に玄関へと向かう二人だったが、やはり1階のロビーを横切ろうとして足を止めてしまう。先日同様、椅子に姿勢よく腰かけている女性の姿を見つけてしまったのだ。


「あら、二人共。おはよう」

「あ……あんた――」


 動揺する優人を前に、彼女はすくと優雅に立ち上がった。川嶋も「あっ」と声を上げるなか、彼女――荒木双葉は目の前で立ち止まり、流れるようにお辞儀をした。


「そちらは川嶋さんね。お会いできて光栄です。荒木探偵事務所の荒木双葉です。改めてよろしくお願いします」

「あ……ああ、どうも! はじめまして、川嶋です。優人からお話は聞いてましたが、こんなところでお会いするなんて」


 突然の美人を目の前に、川嶋は分かりやすく動揺していた。元来、女性に慣れていないことも相まって、彼は情けないほどに狼狽している。


 川嶋のことはさておき、なぜ彼女が二人を待ち構えるかのように登場したのかが優人にとっては疑問だった。眉をひそめる優人の気持ちを察したのか、双葉自らがその種明かしを始めてくれる。


「お二人は、これからどこか出掛ける予定かしら? もしよければ、ちょっと私の用事に付き合ってほしいんだけど」

「え……ああ、まぁ、構わないけど。用事って、いったいなにを?」

「この間、二人が話を聞いた女性――夫を亡くした佐久間曜子に、直接話を聞いてみたいの」


 思いがけない切り口に、優人と川嶋は互いの顔を見合わせてしまう。〝鐘〟によって亡くなった佐久間一茂のことはリモート通話ですでに共有していたが、まさか彼女が直接、遺された妻・曜子と話したいと言い出すとは思いもしなかった。


「それはつまり、俺らも佐久間家まで同行してほしい、ってことかい? けれど、あの奥さんからはこの間、随分とじっくり話を聞いたばかりなんだ。これ以上、なにか発展があるだろうか」

「その点は問題ないわ。奥さんから話を聞くのもそうだけど、それ以上にやりたいことがあるのよ」


 いまいち全貌が見えてこないが、それでもなぜか双葉の眼差しは揺らぐことがない。優人はあくまで自信満々な彼女の姿に首をかしげてしまったが、隣に立っていた川嶋が眼鏡を直し、不敵に続いた。


「なるほど。それじゃあ、ここからは分担作業といかないかい? 僕は山の中の〝禁足地〟について重点的に当たってみる。優人は荒木さんと一緒に、佐久間曜子さんの所へ行ってくれないか」


 意外な提案に優人もたじろいでしまったが、やはり川嶋は誰かに聞き込みを行うというより、より具体的なフィールドワークがやりたいらしい。まさに適材適所という采配に別段、異議を唱える気もなかった。


 結果、川嶋の提案通りに事は動き始める。優人は川嶋と宿で別れ、双葉と共に佐久間家へと向かった。道中、どのような会話を交わすべきか迷っていた優人だったが、双葉のほうから今回の一件について、ぐいぐいと話を進めてくれた。


「私なりに考えてみたんだけど、やっぱり今回の一件にはなにか、明確な法則のようなものがある気がするの」

「法則――つまりそれは、〝鐘〟が鳴った時に死ぬ人間には、一定の共通点のようなものがあるってことかよ?」

「ええ。もし、〝鐘〟が鳴って無差別に人が死ぬとしたら、この村の人たちはいつ何時、自分が急死するか分からない危険な場所で生活をしていることになる。そんな地雷原みたいな場所で暮らしていきたい人間なんて、いるわけないと思うのよ」


 優人は「たしかにな」と呟きながら、自然と思考を巡らせていく。双葉の言葉の数々が、一気に優人の思考を〝推理〟へと走らせていった。


「そんな、人生そのものを賭けたロシアンルーレットみたいなことを、するわけはないものな。いくら昔からの風習だって言っても、誰だって死にたいわけではないだろうし」

「だから、ここに生きる人たちは、確実に〝鐘〟による死の法則を知っている。あなたの彼女さんをはじめ、これまでに亡くなった方々にはなにか、私たちが見落としている共通項があるはずなのよ」


 言われて、優人はこれまで亡くなった人間を順に思い浮かべていた。


 優人の彼女・篠崎真名に始まり、駆け落ちを経てこの村で暮らしていた佐久間一茂。そして迷惑を顧みず、強引な取材で村をかき回した動画配信者・戸倉清二。


 もっとさかのぼるなら、民泊の管理人である老人・湯本の妻も〝鐘〟で過去に亡くなっているはずだ。それらの面々を思い浮かべたところで、優人は混乱してしまう。


 どうにも、まるで共通点を思い浮かべることができない。年齢も、性別も、職業も経歴も、なにもかもが異なる人物たちが〝鐘〟によって亡くなっている。


 後ろ頭をがりがりとかく優人の少し前を行きながら、双葉は自身の推理を伝えた。


「さらに気になるのは、はたして〝鐘〟は〝合図〟なのか、それとも〝報せ〟なのかという点よ」

「合図か、報せか……す、すまん。なんだかさっぱりなんだが」

「つまり、〝鐘〟が鳴ったことがきっかけとなって、誰かが死んでいるのか。それとも、誰かが死んだことがきっかけで〝鐘〟が鳴っているのか、ということ」


 まるで謎かけをしているような奇妙な言葉の羅列に、優人は完全に置いてけぼりを食ってしまう。双葉は微かに振り返り、情けなく視線を泳がす優人に微笑んだ。


「もし、〝鐘〟が鳴った後に誰かが死んでいるとしたら、それはこれから村の中で人が亡くなることを告げる〝合図〟になる。けれどもし、誰かが亡くなってから〝鐘〟が鳴っているのなら、誰かが死んだことを告げる〝報せ〟になる」

「それは、なにか大きな違いなのか? 事が前後しているだけで、似たようなものに思えるけども」

「仮に前者ならば、あらかじめ亡くなる人――〝ターゲット〟とでも言おうかしら――その人物を定めておいて、〝鐘〟が鳴った後に殺していることになる。そして後者であった場合、先にターゲットに手をかけ、殺害した後にわざわざ〝鐘〟を鳴らしている」


 思わぬ内容にぎょっとしてしまう優人だったが、なおも双葉は冷静に歩みを進める。これまで優人は、そんな観点で〝鐘〟について考えたことがなかっただけに、どうにも思考が追いついていかない。


「〝鐘〟はただのきっかけで、誰かが村のなかで殺人を犯していると?」

「一つの仮定の話よ。もちろん、〝鐘〟そのものに効力があるケースも考えてみたわ。亡くなる人の体には何かしらの条件――例えば、一定量の〝毒〟のようなものを蓄積させておいて、それが〝鐘〟の音を受けて体内で炸裂する。かなり無理矢理な推理かもしれないけど、それなら今回の死者たちのケースを実現することはできるんじゃあない?」

「確かに……けど、動画配信者――あの戸倉ってやつは? あいつは草刈り機に巻き込まれて死んだ、いわば事故だったんだぜ」

「それだって、酩酊して草むらに倒れていたことがきっかけでしょう? もしかしたら彼は、あらかじめ〝鐘〟の力を受けて身動きが取れなくなっていたのかもしれない。どちらにせよ死ぬ運命だったところに、偶然、草刈り機による事故が起こってしまったのかも」


 双葉の推測を聞けば聞くほどに、優人は感嘆のため息をつくほかない。これまで川嶋と共に現地であれこれと調査を続けてきたはずが、二人では双葉が考えたようないくつもの筋道を導き出すことは困難だった。


 若く、どこか未熟にすら見えてしまう荒木双葉が、確かな探偵としての頭脳と思考回路を持っていることに、今更ながらに優人は圧倒されてしまった。


「そしてやっぱり気になるのが、誰が〝鐘〟を鳴らしているのか、ということ。どうやって人々の死と紐づけているかは分からないけれども、もし例の山に〝鐘〟が隠されているというなら、そこにその操作者もいるんだと思うの」

「例の〝禁足地〟ってところにか。一体全体、何者なんだろうか。それも風習なのかもしれないが、人の死と紐づく〝鐘〟を鳴らしているってのも、なんだか薄気味悪い感じだ」

「そのあたりは、川嶋さんが有力な情報を持ち帰ってくれることに期待しましょう」


 これだけ議論を交わしながらも、あくまで事の核心にたどり着けないのはなんとももどかしくてならない。


 歩き続けたことで、遠くに見覚えのある家屋の屋根が見えてくる。かつて訪れた佐久間家の姿に、優人はこれから対面するであろう佐久間曜子の疲弊しきった顔を思い浮かべてしまった。


 しかし、隣を歩いていた双葉が不意に足を止める。なぜか彼女は遠くに見える佐久間家ではなく、左へと入り込んだ細い道を見つめていた。


 なにごとかと優人も振り返るが、彼女は唐突に提案してくる。


「ごめんなさい。目的地に向かう前に、ちょっとだけ寄り道をしてもいいかしら?」

「ああ、構わないけれど。どうした、なにか気になることでも?」


 双葉は「ちょっとね」と、どこか不敵な笑みを浮かべた。意図を汲み切れない優人だったが、考えたところで仕方がない。今はおとなしく、双葉の背中を追いかけることにした。


 細道を進むといくつかの古い日本家屋が立ち並んでいたのだが、そのうちの一つに向けて双葉は戸惑うことなく進んでいく。やがて二人は、広大な庭を持つ一軒の平屋へと辿り着いた。


 双葉は少し離れた位置に立ち、その家屋をじっと見つめている。周囲に並ぶ民家よりもかなり歴史のある建物のようで、雨戸が閉め切っていることから誰も住んではいないらしい。広大な庭も雑草が伸びきっており、唯一、大きな幹のイチョウの木だけが青々とした葉をたわわに実らせていた。


 しばし、気を遣い黙っていた優人だったが、耐え切れなくなり彼女に問いかけてしまう。


「なあ、ここになにかあるのか? 見たところ、誰も住んでいない廃屋みたいだけど――」


 双葉はすぐに答えはしなかった。黙したままのその表情に、ほんのわずかの物悲しさが浮かんでいる。


 これまで推理を続けていた颯爽とした姿から一変、急に押し黙ってしまった彼女に優人はなんと声をかけるべきかが分からない。


 双葉は腕を組んだまま、しばし家屋を見つめ続けていた。しかし、やがて唐突に隣に立つ優人に向けて告げる。


「ここは昔、私の姉が――荒木一葉が夫と共に暮らしていた場所なの」


 予想だにしなかった一言に、優人はたまらず振り向き、「えっ」と声を上げてしまう。一方、双葉はあくまで視線を目の前の廃屋に向けたままであった。


「姉って……あんた、この村に知り合いがいたのかよ?」

「ずっと黙っていて、ごめんなさい。あなたからこの村の依頼が来た時に、言うべきかどうか迷っていたのよ」


 彼女の言葉が確かならば、優人が荒木探偵事務所にこの土地――『幸人村』の名を出した時から、双葉はこの村の存在を知り得ていたということになる。彼女はあえてその過去をひた隠しにしたまま、まるで初耳のように優人の依頼をこなしていた、ということになってしまうのだ。


 なぜ、そんな不自然なことをする必要があったのか。優人が事の本質を問う前に、彼女は家屋を見つめたまま、ゆっくりと語っていく。


「私は元々、京都で生まれ育ったの。家は昔から続く織物業の老舗で、いずれは私たち姉妹のいずれかが家業を継ぐことになっていた。といっても、幼い頃から姉は私と違って出来が良かったから、誰しもがそれは姉の役目なのだと信じて疑わなかったわ」

「あんたに、そんな過去が……俺から見ればあんただって随分とできる人間だけど、そのあんたが言うんだからよっぽどなんだろうな。そのお姉さんってのは」

「私なんて、必死こいて勉強しただけよ。姉は昔から要領が良くて、それでいて人柄も良い。私からしたら姉は、なんでもできるまさにヒーローみたいなものだったわ。だから、私だって両親の期待に応えられるのは姉しかいない――そう、幼い頃から思っていたの」


 姉・一葉の事を語る彼女はどこか嬉しそうではあったが、一方で表情に張り付いた仄暗い影はなおも消えない。輝かしいはずの思い出話に潜む〝なにか〟の気配を察しながらも、優人は彼女の言葉に耳を傾けた。


「私にとって姉は憧れであり続けた。けれど、それがただの勘違いであったことに、後々になって気付いたのよ。私だけでなく、周りの人間たちは皆、姉の本心に気付いていなかった」

「お姉さんの本心、か。なにか、彼女には思うところがあったんだな」

「ええ。姉はずっと、家業を継ぐということを嫌がっていたの。彼女は少しでも早く生まれ故郷を飛び出して、より多くの世界を見てみたいと願っていた。親に縛られることなく、ただただ自由を求めて」


 それはきっと、どこの家庭にも起こりえる〝すれ違い〟だったのだろう。周囲の人間は一方的に誰かに期待を寄せ、一方で本人はまるで望まない羨望の念を疎ましく思い続ける。人生とは個人個人のものだと分かっていながら、ときに人は他人の生き方を身勝手な希望の押し付けで縛ろうとしてしまうものだ。


「私は、出来が悪いなりに姉を救ってあげたかった。だから二十歳になったとき、自ら家業を継ぐことを決めたのよ。姉が堂々と家を出ていけるように――それが私にできる、精一杯の恩返しだった」

「それはまた、すごい決断をしたんだな。それで、お姉さんは――」

「ええ。両親ともめにもめたけど、私の決意も固かったからね。私の思惑通り、姉は家を出て別の地で自身の人生を歩み始めた。まったく別の仕事に就いて、そこで恋愛をして――やがて彼女はとある男と入籍して、この村へと移り住んだわ」

「そのお姉さんが住んでいたのが、ここなのか。けれど、今はすっかりと朽ち果ててしまってるが、肝心のお姉さんはどこに?」


 何気ないトーンで問いかけてしまったことを、優人はすぐに恥じてしまった。隣に立つ双葉が纏う気配の重さに、彼も一拍遅れて気付いてしまう。


 呆然としてしまう優人の前で、双葉はそれでも毅然と前に進み続けた。


「姉はこの家で、しばらく夫と共に二人で幸せに暮らしていたわ。数ヶ月に一度のペースだったけど、私も姉とは連絡を取り合っていたし、彼女が安住の地を手に入れられたことを素直に喜んでいた。だからこそ、驚くほかなかったの。ある日突然――姉夫婦の〝訃報〟が舞い込んだときには」


 告げられた事実に、優人の肉体をかすかな痺れが駆け抜けた。緩んでいた意識がみるみるうちに研ぎ澄まされ、自然とその目は隣に立つ双葉の横顔を凝視してしまう。


 なぜ姉は、この家に住んでいないのか。なぜ双葉が、この村との関係性を隠し続けていたのか。


 無数にちりばめられた不可思議な点が、双葉の独白によって一気に解明されてしまった。


「姉の夫は、〝鐘〟の音を聞いて死亡したの。私たちは知らなかったけれど、彼は日常的に姉に暴力を振るっていたそうよ。〝鐘〟が鳴った直後、彼は心臓麻痺を起こして、風呂場に倒れていたらしいわ」

「暴力――つまりそれは、最近で言う〝DV〟ってやつか」

「ええ。私はそれを見破ることができなかった。姉から報告を受ける度、てっきり彼女は幸せな新婚生活を送っているのだとばかり思いこんでいたの。でもきっと、それは姉が私を心配させまいと立ち振る舞っていただけで、彼女はずっと夫の理不尽な振舞いに耐え続けてきたんだと思う」


 その先を、優人は心して待った。夫が〝鐘〟で亡くなったという事実もさることながら、どうしても彼女の姉の顛末を想像し、拳に力を込めてしまう。


(――まさか)


 双葉はやはり躊躇などすることなく、自身が抱き続けてきた過去へと足を踏み入れた。


「きっと姉はその時、限界だったのでしょうね。夫が亡くなったことで、張り詰めていた彼女の精神はぷつんと切れてしまった。すべてから解き放たれた彼女もまた、後を追うように急性心不全で亡くなってしまったの」

「そんな……そんなことが、この家で――」


 もはや今となっては、目の前に鎮座する廃屋への印象がまるで異なってくる。先程まではただただ打ち捨てられた平屋であったそれが、いつのまにか重く、どす黒い〝過去〟が焼き付いた忌むべき箱に見えてしまった。


 双葉は仕切り直すかのように、ふぅと静かなため息をつく。彼女は視線を持ち上げ、庭に生えている大きなイチョウの木を見上げた。


「私は何一つ、気付くことができなかった。姉の〝幸せ〟を誰よりも望んでいたはずなのに、彼女の体と心に刻まれた痛みの一切に目を向けることなく、彼女の人生が綺麗なものだと思い込もうとしていただけなのよ」

「それは……こう言うのもなんだが、あんただけがどうこう背負い込むことじゃあないだろう? こんなこと、気付けっていう方が無理だよ。あんたはあんたなりに、自分の生き方まで変えて、心からお姉さんの幸せを考えてやったんじゃないか」

「ありがとう。改めてだけど、篠崎真名さんがあなたを選んだ理由が分かる気がするわ。あなたのそのぶっきらぼうな〝優しさ〟が、きっと彼女にとっては心地良かったのかもしれないわね」


 唐突に真名の話題を出されたことで、優人はどうにも調子がくるってしまう。だが、双葉は悲し気なまなざしこそ浮かべてはいるものの、先程よりもいささか、その瞳のなかに力強い輝きが戻ってきているようだ。


「一時期は、そのあまりにも悲惨な事実に打ちひしがれたわ。けれど、姉の死を――もっと言えば、夫婦に起こった悲劇をすんなりと受け入れられるわけもなかった。気が付いた時には私は家業そっちのけで、姉の死を探るために猛勉強を始めていたわ。結果、受け継いだはずの家業すら捨てて、より手掛かりの得やすい都心にまで移り住んでいた」

「ってことはまさか、あんたはそのために探偵業を生業にするようになったってことか?」


 双葉は「ご明察」とでも言いたげに、クスリと笑った。彼女は横目で優人を見つめたまま、こくりと頷く。


「私もあなたと同じなのよ。この村で大切な〝誰か〟を失った。そしてその過去を――心にぽっかりと開いた穴を埋めるため、がむしゃらにここまで進んできただけなの」

「そうだったんだな……あんたはあんたなりに、お姉さんに起こったことに〝決着〟をつけるために、俺を経由してこの村に辿り着いたのか」

「ええ。本当に悪かったと思っているわ。結果的に私は、依頼主であるあなたを利用していたんだからね」


 双葉はちらりとこちらに視線を投げたが、優人は肩の力を抜き、ため息交じりに打ち返した。これまでうろたえっぱなしだった優人だが、弱気になる女探偵に呼応するかのように、いつもの調子が戻ってくる。


「いいさ、そんなことは。なんだかんだで俺も、あんたがいなけりゃあ見えてこなかったことだらけなんだ。結局、俺たちは似た者同士だった――それだけのことだよ」


 奇妙な偶然の連鎖は、時を経て二人を結び付け、そしてこの村へと呼び戻した。一人はかつての恋人を、そして一人は最愛の姉を。それぞれが己にとって大事な誰かを失い、その過去への決着をつけるため、この場所に立っている。


 二人は共に、〝鐘〟の因果によって引き合わされたのかもしれない。そんな奇妙な〝縁〟を感じながら、優人は改めて目の前に鎮座する廃屋を見つめた。


 ここには確かに、二人の夫婦が暮らしていたのだ。誰の目にも幸せに見える彼らは、その実、仄暗い影を纏い、耐えがたい苦痛と寄り添いながらこの場所で生き続けていたのだろう。


 消え去ってしまった二人のことを想いながら、優人は自然と隣に立つ探偵に語りかけていた。


「ありがとうな。そんな辛いことを、わざわざ話してくれて」

「いいのよ。私もこれ以上、あなたを欺き続けるのは〝スジ〟が通らないって思っただけだからね。なにより私の姉のケースも、〝鐘〟を調べる上では重要なケースになると考えたの」


 悲痛な思い出から決して目を反らすことなく、あくまで謎を解き明かすための武器として活かそうとする双葉の姿に、思わず優人は苦笑してしまった。多くを悩み、打ちひしがれ、摩耗した彼女だからこそ、その凛とした瞳を浮かべることができるのかもしれない。


 双葉はイチョウの大木を見上げ、どこか積年の思いを吐き出すかのように、遠くにめがけて言葉を放った。


「めそめそと泣きじゃくるために、ここに戻ってきたわけじゃあない。姉のことを、終わった〝過去〟になんてできないからこそ、私もここへ来ようと決めたのよ」


 かつてのこの家でも、やはり〝鐘〟は鳴ったのだ。


 二人は並んで立ったまま、しばらく無人となった平屋の姿を見つめ続ける。痛々しい過去から目を背けるのではなく、そこで起こったことすら〝今〟へと引き連れ、思考を巡らせていく。


 優人がそうであったように、双葉も過去を懐かしむために、この家に舞い戻ったわけではないのだ。


 すべては、〝鐘〟の謎を解き明かすために――空虚にえぐられた自身の心を、〝納得〟によって埋めるために。


 風が吹き抜け、伸び放題になった草木を波打たせる。庭に唯一残るイチョウの木から、青々とした葉っぱが数枚抜け落ち、こちらへと舞い落ちてきた。


 季節によって色を変えるその大木を、かつての姉・一葉も同様に眺めていたのか。いなくなってしまった彼女に思いを馳せ、二人は無言のまま、しばらく物言わぬ廃屋の姿を目に焼き付けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る