第12話
優人がバスタオルで髪をふきながら浴場の時計を確認すると、早いものでもう夜中の10時を過ぎていた。いつもならばやることもなくだらだらと布団にもぐるのだが、今日ばかりは体のなかに異様な力が漲っているのを実感してしまう。
彼は自販機で購入したコーヒー牛乳を一気に飲み干し、大きなため息をついた。誰一人宿泊客のいない閑散とした脱衣所のなかで、しばし古い扇風機が放つ冷風に身をゆだねる。
熱湯で汗を流し終えたから、というだけではない。先程、女探偵・荒木双葉から伝えられた数々の事実が、緩み切っていた優人の性根を叩きなおしてくれたのだろう。衝撃的な事実ばかりだったが、それゆえに優人は真剣に考え、悩み、わずかばかりでも答えを出すことができた。
真名と向き合い、その奥に見える自分自身に目を向けると、見えてくることがある。これまでとは違う意気揚々とした足取りで、優人は再び自室へと戻っていく。
部屋に戻ってみたが、やはり相棒・川嶋は帰ってきていない。相も変わらず熱心に村のなかを探索しているようで、ここ最近では深夜近くに戻ってくるということもざらだ。
(厄介ごとに巻き込まれていなければいいが……)
優人は窓際の椅子に腰かけ、なおも火照った体を夜風で潤した。窓の向こうの夜闇からは、微かに湿っぽい田舎独特の香りがふわりと漂ってくる。
目を閉じ、気持ちを落ち着かせていた優人だったが、唐突なノックの音に息をのんでしまった。反射的に中腰になり、入り口の引き戸を見つめる。
川嶋ならば、わざわざノックなどしない。ならば先程の探偵・荒木双葉かと思ったのだが、なにか伝え忘れたことでもあるのかと少し首をかしげてしまう。
その正体が分からないまま、優人はひとまず「はい」とだけ答える。引き戸がすぅっと開くと、そこには民泊の管理人である老人・湯本が立っていた。
「失礼します。もう、眠られるところでしたでしょうか?」
「あ――ああ、いえ。もうしばらくは、だらだらしようかと思っていたところです」
湯本は相変わらず、しわだらけの顔をくしゃりと歪め、笑顔のまま「そうですかぁ」と頷く。
「実は知り合いから、良いスイカをいただきまして。小ぶりではあるのですが、もしよろしければいかがかな、と思いまして」
思いがけない展開に、優人は目を丸くしてしまう。どう返すべきか、笑顔を浮かべる老人を前にして、どうしても一瞬考えてしまった。
優人らが民泊で過ごす間、管理人である湯本は実に懇切丁寧に対応してくれた。彼はいつも些細な気配りを欠かすことなく、優人らが快適に日々を過ごせるように世話を焼いてくれている。
それがありがたいと思う一方で、やはり優人は彼のことを信用しきることがどうしてもできない。それはやはり、彼もまたこの『幸人村』という場所に根を張る住人の一人であり、真名の死に間接的にかかわった人間なのだと捉えてしまうからだ。
しかし一方で、優人はそれがどこか極端過ぎる思考なのではと思えるようにもなった。双葉との邂逅を経て、優人も今まで以上に達観した視点で、自分たちが置かれている状況を見ることができるようになったのだろう。
〝鐘〟が鳴る村にいるからといって、誰も彼もが真名の死と関係を持っているとは考え難い。事実、あの日――かつて初めて優人が〝鐘〟の音を聞いた時、湯本はすぐそばにいたのだ。彼があのタイミングで、真名になにかを仕掛けたとは思えない。
短い時間のなか、実に多くの思考を巡らせ、その末に優人はようやく首を縦に振った。
「ありがとうございます。是非、いただきたいです」
優人の回答にまた一つ、湯本は嬉しそうに顔を歪ませた。彼は「では」と退室し、そそくさと準備に取り掛かる。
湯本が持ってきたスイカは確かに小ぶりであったが、それでいて甘さがギュッと凝縮されており、これまで優人が食べたものとは別格のように感じた。スイカという果物がここまでジューシーだったのかと、優人は口の中で弾ける夏の味に素直に感動してしまう。
スイカをあっという間に平らげたタイミングで、湯本はさらに冷えた麦茶まで差し出してくれた。なにからなにまで読み切った彼の配慮に、優人もようやく素直に「ありがとうございます」と礼を告げる。
麦茶によって喉を潤す優人を前に、湯本は畳の上に腰を下ろしながらなぜか頭を下げた。
「すみませんね。ここ最近、村がどうにも慌ただしいことばかりで。本来ならばもっと穏やかで、静かな場所なんですが――」
一瞬、優人は彼が何を語っているのか理解できず、呆けてしまった。しかし、緩み切っていた意識を立て直し、なんとか応対する。
きっとそれはここ最近、村で起こっている事故の数々のことを指しているのだろう。優人らが泊まりに来てもう、二度ほど〝鐘〟が鳴っている。それによって、佐久間曜子は夫の一茂を失い、つい最近では動画配信者・戸倉清二が亡き人となった。
ここに停滞しておおよそ一週間ほどが経つが、その間に集落で二人も命を落としたというのだから、本来ならばまるで穏やかではない状況である。
だが、それを目の前に座る老人が謝るいわれなど、どこにもない。村で起こっている凶事まで、この民泊を管理する老人が背負う必要はないのだ。
どこか湯本を救いたいという気持ちから、優人は首を横に振る。
「とんでもないですよ。もちろん、驚いてしまったというのは事実ですけど、あくまでそれぞれが不幸な事故なんですから。湯本さんが謝ることなんて、なにも」
優人は少しでも彼の気を紛らわせようと笑顔を浮かべたのだが、ここ最近笑っていなかったせいで、どうにもその表情は堅苦しい。
ぎこちない笑みを浮かべる優人に一瞬、湯本は笑みを取り戻してくれたのだが、やはりその瞳にはわずかばかりの寂しさが混じっている。
彼は微かにため息を漏らし、視線を落としながら告げた。
「それに、あなたにとってもこの場所は〝辛い記憶〟の眠る土地です。今更、なにを言ったところで、それが変わることもないでしょう」
唐突に彼が放った一言が、緩んでいた優人の体を真正面から貫く。優人は微かに呼吸を止め、すぐそばに座る老人の憂いだ顔を見つめる。
「まさか……気付いていたんですか?」
優人は明確にうろたえたまま、老人に問いかける。湯本はどこか悲しげな眼差しのまま、それでも精一杯の笑みを作り「ええ」と頷いた。
「随分と雰囲気は変わられましたが、それでもその眼差しと声はあの時と同じでしたので。戻られたのか――と」
「そう……だったんですね」
彼にばれないよう取り繕ってきたつもりが、その実、この民泊を川嶋と訪れたあの日から湯本は気付いていたのだ。その風貌が変わったとしても、彼はしっかりと数年前に村にやってきた優人のことを覚えていたのである。
意外な展開ではあったが、一方で優人のなかに焦りといった感情はなかった。それよりも、必死にばれまいと立ち振る舞っていた自分がひどく滑稽で、恥ずかしくなってしまう。
困ったように後ろ頭をかく優人に、湯本はなおも正座したまま、静かに告げた。
「私もね……あの〝鐘〟によって――妻を亡くしたんです」
また一つ、ずがんとなにかが意識を真横から殴りつけた。優人は眉間にしわを寄せ、食い入るように老人の顔を覗き込む。
「どういうことですか? あなたの――奥さんが?」
「ええ。もう、十年程前のことですがね」
湯本は視線を持ち上げた。しかしその眼差しは目の前の優人ではなく、もっとはるかに遠くを見つめている。
彼だけが知り得る〝過去〟を覗き込みながら、老人は優人にすべてを打ち明け始めた。
「私と妻は共に、この『幸人村』で育ちました。彼女と出会ったのは30代の頃――それぞれが山登りが趣味だったので、それが幸いして親密な仲になったのです。それこそ、この村を飛び出してあちらこちらと、色々な場所に行っては山を登り、写真を撮ったものです」
その一言でようやく、優人は気付く。この民泊の至るところに飾られていた古い写真――野山の風景や頂きからの絶景を映したそれは、どれも湯本たちが自ら足を運び、撮影したものだったのだ。
「妻はそれこそ、体を動かすこと全般が好きな女性でしてね。私なんかは早くに山登りを断念してしまいましたが、彼女は70になっても暇さえあれば自分の足で歩き、手頃な山を見つけては登りに行っていたのです」
「それは凄いな。随分とお元気な方だったんですね」
「ええ、それはもう。なにかと行動的な女性でした。この民泊だって、妻の案をもとに始めたんですよ。幸人村にやってきた人々が、もっと過ごしやすくなるために、と」
紐解かれていく老人の過去は、優人からすればとにかく意外なものばかりだった。これまで優人は湯本のことを、この幸人村の一部――過去に起こった忌まわしい事件に関わった一人としか認識していなかった。
だが今では、この老人にもしっかりとした〝過去〟があり、これまで歩んできた人生があったのだと痛感する。当たり前の事実ではあるが、彼もまた幸人村という集落で過ごす、一人の人間なのだ。
(それが、一体なぜ……)
踏み込めずにいる優人に代わり、湯本はようやく本題に入った。
「ある日、村に〝鐘〟が鳴り響き、人が亡くなりました。若い夫婦のうち、旦那さんが交通事故で帰らぬ人となったのです。うちの妻とその夫婦は親交が深く、妻は二人とまるで我が子のように接していました。我々二人はこれまでも〝鐘〟の音を聞きながら暮らしてきたのですが、妻は若夫婦の不幸をきっかけに兼ねてからの疑問を解決しようと、ひそかに動き出してしまったのです」
「奥さんが抱いていた疑問……それは、一体――?」
「村に当たり前に伝わる〝鐘〟とは、なんなのか。なぜ〝鐘〟が鳴ることで人が亡くなるのか。彼女はそれを、解き明かそうとしてしまったんですよ」
自身の子供のように可愛がっていた夫婦が、〝鐘〟の音によってその平穏を壊された。そしてそれを受けて、これまで村で過ごしてきた一人の女性が、〝鐘〟の正体を突き止めようと動き出す。
それはまるで今の優人と同じだ。大切な人の死はそこに関わっていた誰かの人生にまで伝搬し、平穏だった日々を変えてしまったのだ。
奇妙な共通点の連鎖に優人は言葉を失う。そんな彼の前で、湯本は笑みを浮かべずため息をついてみせた。
「私は何度も止めようとしました。けれど、一度決めたら彼女は決して止まらないということも知っていました。妻は誰の言葉にも耳を傾けず、〝禁忌〟を犯してしまったのです」
「禁忌、ですって? なにか、村で禁じられている決まりのようなことがあるのですか」
数年前、そして今回も優人らには、そんな禁則事項があるということは伝えられていない。初めて耳にする事実に、自然と優人も身を乗り出していく。
湯本はどこか次の一言を躊躇していた。だがやがて、決心したように大きく頷く。
「この村を取り囲む山――彼女はそこに分け入ってしまったのです。山の麓は村人が山菜を採るために立ち入ることもありますが、その先――山頂への道は〝禁足地〟となっているんです」
優人は「ええ」と驚きの声を上げた。だが同時に、これまで起こった出来事を思い返し、納得してしまう。
初めてこの地で、〝鐘〟の音を聞いたあの日――優人が眺めた景色のなかで、村人たちは皆、ある一方向を見つめていたのを覚えている。
隣に立っていた湯本も同様だった。彼らは皆、村を囲む山へと視線を持ち上げていたのである。
(まさか、そこに――)
優人が気付くなか、それでも湯本は痛々しい過去を語り続けた。
「彼女は――妻は山の中腹で、事切れていました。当時の検視結果では、山の斜面を滑落したことで頭部を強打し、そのまま帰らぬ人となってしまったようです」
「そうだったんですね。それじゃあ、その……奥さんも、あの墓地に埋葬されたのですか?」
「ええ。かつては私も、妻の遺体を運びながら村を練り歩く、その列のなかに加わっていました」
おそらく遥か昔から、この村で暮らす人々はああやって死者を鎮魂し、埋葬してきたのだろう。湯本もまた、幼い頃から慣れ親しんだその教えに従い、愛する人を土の下へと弔ったのだ。
初めて明かされた老人の過去に驚いてしまう一方で、優人はなぜ彼が唐突に、そんな事実を告げたのか疑問を抱いてしまう。だが、続けて投げかけられた湯本の言葉に、彼の真の思惑を悟ってしまった。
「あなたが恋人を失い、やりきれない気持ちを抱いているのは重々理解できます。けれど、悪いことは言いません。これ以上、この村の風習に首を突っ込まないほうがいい。人間、生きているからこそ笑い、悩み、苦しむことができる。どれだけ日々が痛ましかったとしても――それは、生きているからこそ、やってくるものなんですよ」
きっと彼は、優人に思いとどまって欲しかったのだろう。太古からこの村に宿った風習のその先を覗き、優人までもが〝不幸〟に絡み取られてしまうことを、防ごうとしてくれたのだ。
過去に大切な人を亡くした彼だからこそ、そんなことを強く思うのだろう。彼は失ってしまった妻の思い出を抱きながら、それでも生まれ故郷を捨てず、生き続けるという未来を選んだ人間なのだ。
そんな彼の不器用な優しさが、今の優人には良く分かる。かつて、夫――佐久間一茂を失った女性・曜子の気持ちが理解できたように、目の前に座る老人が抱いた感情のすべてが、優人にはたしかに理解できた。
互いに大切な〝誰か〟を失ってしまったものだからこそ、通じ合えたのだろう。
せめて、あなただけでも生きてほしい――そんな老人の願いを抱いたまま、しばし、優人は考える。
きっと以前の優人ならば、その言葉になびいたかもしれない。だが今となっては、優人は己の中に抱いた強い感情を曲げる気には、とてもなれなかった。
かつての湯本同様、愛する人の死を前に打ちのめされ、屈折し、摩耗し――それでもなお、優人は老人とは異なった〝今〟を選び取ろうと決めたのだ。
「ありがとうございます。わざわざ、俺のことまで気にしてくださって。けれど、それでも――俺は黙ってこの地を去る気にはなれません。起こったことを〝過去〟だと割り切って生きていくことが、できそうにないんです」
老人は微かに息をのんだ。だがそれでも、どこか優人の返答を分かっていたかのように、湯本は反論すらせずに押し黙ってしまう。
「あなた方の迷惑にはなりたくない。ただそれでも、俺だって大切な人を失ってる。ただ一人の愛する人を失ったまま、諦めきれるほど俺は良い大人じゃあない」
ありのままの、等身大の言葉であった。ゆえにその一言はまっすぐ、飾り気のない純度で老人の胸を打つ。
しばし、湯本は正座したまま視線を落とし、黙り続ける。蛍光灯の無機質な光が、老人のしわにより色濃い影を落とし、悲しみと共に顔全体に張り付けていた。
きっとここから先は、倉橋優人という男が抱いた〝わがまま〟でしかないのだ。非効率で、非現実的で、非生産的で――しかし、彼が未来へと進むために必要な、〝納得〟を掴むための選択なのである。
ついに観念したかのように、湯本は大きなため息をついた。彼は「そうですか」と物悲し気な表情のまま、すくと立ち上がる。
「あなたのそのお気持ち、よく理解しました。すみません、とんだお節介を焼いてしまいましたね」
「いえ。こちらこそ、すみません。なにからなにまで、お世話になりっぱなしで」
「良いのです。どんな理由があれども、あなたは私にとっての大切なお客様です。どのような過去や目的を持っていようとも、それは関係のないこと。ここを去るその日まで、誠心誠意、尽くさせていただきますので」
湯本は食べ終えたスイカの皿を携え、また部屋の入り口で一礼した。彼はやはりどこか困ったように、それでも優人に笑顔を作ってくれる。
「どうか、くれぐれもお気をつけて。ご武運をお祈りしております」
なんとも優しい一言だった。結局、最後の最後まで彼のお節介に優人は背中を押されっぱなしになってしまう。
予想だにしない展開に狼狽はしたが、それでもそれ以上、優人は悩みなどしない。湯本が伝えてくれた過去や事実が、新たな原動力となって優人の思考を巡らせていく。
この場所に、確かに〝鐘〟はある。きっと、〝禁足地〟とされているあの山の奥底に。
一刻も早くこの事実を伝えたく、なんだか体がうずいてならない。優人は相棒である川嶋が戻ってこないかと、布団に腰かけながら時計を見つめてしまった。
優人が新たなる予感に胸を躍らせる一方で、管理人である老人は一階へと戻り、台所に皿を戻していた。簡単に後片付けを済ませ、彼は事務室に戻り、おもむろに備え付けられた電話を手に取る。
数回のコール音の後、〝男〟が応対した。湯本は挨拶すら交わすことなく、単刀直入に要件を告げる。
「どうやら、駄目みたいです。えぇ……やはり彼は、この先に進むつもりのようですね」
老人の短い一言に、電話越しの声は別段、うろたえたりなどしなかった。ただ〝彼〟は動じることなく、淡々と指示を下してくる。
湯本は受話器を耳に当てたまま、淀んだ眼差しで何度も頷く。すべての要件を聞き終え、いつも通りに電話の向こう側にいる〝太い声の男〟に答えた。
「ええ、分かっております。仰せのままにいたします――村長」
湯本は受話器を置き、椅子の背もたれに体重を預け、脱力してしまった。きぃという乾いた音と共に、その目が机の上の小さな写真を見つめる。
色褪せた写真の中で、いまもなお〝彼女〟は笑っていた。生前と変わらぬはずのその表情が、なぜか日に日に輝きを失っていくように感じるのが、湯本には恐ろしくてならない。
湯本は自分が、正しい行いをしているという実感がなかった。だがそれでも、彼は自身が置かれている大きな流れに抗うほどの若さも、力も持ち合わせていない。
(私を……許しておくれ)
不確かな神という存在ではなく、ましてやこの村を守護している〝幸人〟でもない。
老人はただただ、写真の中で笑う亡き妻に許しを請う。
ありったけの〝幸せ〟を切り取ったその一枚から、記憶の中にある彼女の笑い声が聞こえることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます