第11話

 相変わらず風呂の温度はかなり高めで、体を沈めた途端、全身の肉が本能的に強張ってしまう。一瞬の苦痛を乗り越えると、急加速した血流が内側から体を解きほぐし、老廃物が急速に排出されていく。


 優人は湯船に身を預けたまま顔を持ち上げ、壁一面に描かれた富士山の絵を眺める。葛飾北斎のような有名な画家のものではないようだが、それでも富士山の鮮やかな青と、江戸時代と思われる当時の風景が緻密に描かれていた。


 貸切状態の湯船に浸かり、荘厳な壁画を眺めたところで、それらは肉体の奥底――心に焼きついた、もやを取り除いてはくれない。優人は熱い湯で顔を何度も洗い、目を閉じたまま大きなため息をつく。


 彼はどうしても、先日のあの壮絶な光景を忘れることができない。草刈り機の刃によってバラバラに切断された男――動画配信者・戸倉清二の死に顔が、まぶたを閉じるだけでありありと蘇ってくる。


 当時、現場は騒然となり、すぐに駐在や村医者、そして騒ぎを聞きつけた野次馬たちが現場に駆けつけた。さしもの優人と川嶋も自分たちが置かれた状況を理解しきれず、脂汗を浮かべたまましばらくその場に立ち尽くすほかなかった。


 駐在から事情を聞かれはしたが、あくまで偶然居合わせた二人に答えられることなどたかが知れている。草刈り機を操縦していた農夫は完全に錯乱状態で、男たち数名がなだめ、押さえつけていたのが見えた。


 なんでも、戸倉は酩酊した状態で雑草の中に倒れており、それに気付かなかった農夫が草刈り機に巻き込んでしまったらしい。恐らく優人らと別れた後、村をふらついていた戸倉はあの場所にたどり着いていたのだ。


 深酒のせいで眠りこけていたのか、なにか不調により倒れていたのか、その詳細までは分からない。草刈り機の刃は雑草ごと戸倉の肉体をずたずたに断裁し、肉と骨を粉塵としてばら撒いてしまったのである。


 まさに地獄絵図のような光景だった。追々、外部から応援が駆けつけて、より詳しい現場検証を行うらしいのだが、粉微塵にばら撒かれた死体を捜査するというのは、たまったものではないだろう。


 おぞましい事故の様子もさることながら、優人にはもう一つ、気がかりなことがある。


 あの事故の直後、村人たちは壮絶な状況に怯みこそしていたが、それでいてどこか冷静に――いや、もはや冷徹と言っていい――あまりにも場違いな議論をその場で始めてしまったのだ。


 〝鐘〟が鳴って死んだのだから、この地に埋めるべきだ。しかし、死んだのは余所者なのだから、追い返せばいい。


 人一人がバラバラになって間もない現場で、未だなお鮮血と生暖かさの残る肉片や脂が土手にぶちまけられている情景を横目に、そんな素っ頓狂な内容を淡々と話し合っていたのである。


 誰一人笑うことなく、言葉を交わす彼らの姿がただただ異様だった。結局、戸倉の遺体――もはや肉塊に過ぎないそれは、後日、都内から派遣された警察部隊が回収するのだという。


 きっと今もあの肉の塊は、共同墓地横の小屋に乱雑に格納されているに違いない。それを考えただけで優人の胃は反射的に脈動し、内容物を戻そうとしてしまう。もっとも、あの出来事以来、食事などまともに喉を通ってはいないのだが。


 思い返せばかつて、真名のときも同様だった。この民泊で彼女が亡くなってから、住人たちはその遺体の処遇をあれこれと話し合っていたように思う。一歩間違えれば、真名もあの墓地の土の中に埋葬されていたのかと思うと、肝が冷えてしまった。


 熱湯にたっぷりと浸かったはずの優人だったが、どこか身体の芯は冷え切ったままだ。溶解しない氷を直接埋め込まれたかのように不快で、無慈悲な感覚がいつまでも心臓のすぐそばに居座っている。


 結局、優人はだらだらと浴衣に着替え、自販機で買ったコーヒー牛乳を片手に自室へと戻っていく。ぺたん、ぺたんと情けないスリッパの音を立てながら、中途半端に火照った体を力無く揺らした。


 しかし、途中立ち寄った一階ロビーに、奇妙な人影を確認して立ち止まる。何者かが備え付けられたソファーに腰掛けているのだが、その後ろ姿は明らかに川嶋のものではない。


 この民泊には優人たち以外、宿泊客はいないはずだ。


 どこか慎重に回り込み顔を覗き込もうとしたが、向こうが一手早くこちらに気づく。聞き慣れた女性の声に、緩んでいた優人の意識が一気に覚醒してしまった。


「こんばんは。温泉の湯加減はいかがだったかしら?」

「あんた、なんでここに――」


 女性は黒いショートヘアを揺らし、クスリと笑った。しかし、あいにく突然の事態に優人はわけが分からず、対処することができない。


 直接会うのは、恐らく二度目になるだろう。最初に出会ったのは、彼女の運営する事務所に足を運んだ時であった。こうして改めて見ると、実に若々しい女性である。物静かでありながら、凛としたまなざしの奥に相手を射すくめるしたたかな輝きを内包していた。


 『荒木探偵事務所』の所長、荒木双葉がなぜかそこにはいた。


 今回の一件について、優人と共に事に当たってくれている数少ない協力者の一人である。つい数日前、ノートパソコン越しにリモートで打ち合わせをしたのだが、その彼女がなぜここにいるのか優人は理解が追い付かない。


 優人はうろたえながらも、徐々に意識を研ぎ澄ませていく。彼女のことだから、まさか観光で訪れたということもあるまい。なにか事情あってのことと察し、とにかく落ち着いて話のできる場所へと移動することにした。


 ひとまず優人は、自分たちが宿泊している二階の和室へと彼女を連れていく。入り口を開けると、そこには放り投げたままの荷物の群れや、敷きっぱなしになっている二人分の布団が鎮座しており、なんともばつが悪くなってしまった。


「ええと。なんていうか、すまん。随分と男臭い部屋になっちまって」


 訪れた直後の優雅な和室とはいかなかったが、それでも双葉は嫌悪することなく、どこか意地悪に笑ってみせた。


「とんでもない。こういう作戦室って感じの空間、嫌いじゃあないわ。相方の川嶋さんはどちらに?」

「ああ。あいつなら、風呂に入る前の〝フィールドワーク〟に出かけてるよ。暗闇のなか、懐中電灯片手に村中、あちこち散策してるんだ。街灯すらまともにないこんな場所で、よくやるぜ」


 思い返せば、川嶋は先日のあの凶事――戸倉の事故死を目の当たりにしておきながら、今ではすっかりと普段の調子に戻ってしまっている。当初は知識ばかりを詰め込んだひ弱な男かと見くびっていたのだが、案外、優人よりも精神的にタフなのかもしれない。


 いくつか他愛のない会話を繰り広げながら、自然と二人は机を挟んで対峙する。座布団の上に座り、手元に資料を取り出して並べる双葉の姿を、優人は思いがけずまじまじと観察してしまった。


 優人や川嶋よりも遥かに若いはずなのに、双葉のなかには年相応の未熟さや奔放さといったものを感じ取ることができない。物静かでありながらどこか研ぎ澄まされ、洗練された刃のような鋭さが伝わってくる。


 不意に彼女の眼差しがこちらを向き、優人のほうが気圧されてしまった。優人は情けないほどに視線を泳がせながら、なんとか言葉を絞り出す。


「改めてだけど、なんでわざわざ直接ここに? 調査報告なら、いつも通りパソコン越しでよかっただろうに」

「私も最初はそう考えたの。けれど、どうしてもこれだけは直接あなたに伝えたいと思って」


 少しだけ含んだ彼女の言い方に、見事に優人は惹きつけられてしまった。自然と、なんの躊躇もなく次の一言を投げ返してしまう。


「これだけは……それって、まさか――」

「ええ。兼ねてから依頼されていた、彼女――篠崎真名さんの身辺調査結果がまとまったのよ」


 問いかけつつも、優人はどこかその返答を予測できていた。にも関わらず、いざはっきりと双葉の口から告げられたことで、明確にうろたえてしまう。


 探偵・荒木双葉に依頼していた、真名の身辺調査――優人はかつての恋人の過去や身の回りについて、改めて一度、探偵の力を使って徹底的に調べ上げてもらっていたのだ。


 なぜ、そう思い立ったのか、そのきっかけは今となって定かではない。だが恐らく、優人はほんのわずかでも、どんなことでもいいから、真名が〝死ななくて良い理由〟を見つけたかったのだろう。


 だからこそ、早い段階で真名が持病もない健康体だったということを知り、随分と安堵したのを覚えている。その際も調査結果を告げてくれたのは目の前にいる双葉だったが、当時、優人は心の中で「ほら、見てみろ」と、彼女ではない何者かに悪態をついてしまった。


 それはきっと、真名を非情にも連れていってしまった、超常的な〝なにか〟に対しての怒りだったのだ。


 神という概念か。あるいは、この村に数々の教えを授け、根付かせた僧侶・浄優――〝幸人〟と呼ばれた存在に対してか。


 優人がうろたえたのを双葉もしっかりと見抜いていたが、特に触れることなく彼女は本題へと入っていく。手元に並べた資料に目を通しながら、女探偵は静かに告げた。


「あなたに依頼された通り、篠崎真名さんの過去や友人関係、仕事環境なんかを洗い出したわ。あらかじめ聞いていた通り、彼女は当時、新宿区にある大手デザイン会社の社員として働いていたようなの。成績は至って優秀。彼女のアイデアが幾度となく採用されて、それがきっかけで仕事の受注が増えた経歴もあったみたい」


 探偵の口から語られたそれは、まさに数年前、優人が真名から聞き及んでいたことと一致していた。真名は東京に来てからすぐ、そのデザイン会社に入社し、めきめきと頭角を現していったと聞いている。


 久々にかつての彼女の名を耳にしただけでなく、彼女が記憶通りの立派な経歴を持った女性だったことに優人は嬉しくなってしまう。


 微かに口元に笑みを浮かべた優人だったが、一方で双葉は資料を眺めたまま、表情一つ変えずに続ける。


 一枚、ぱらりと用紙をめくると、彼女の纏う気配がほんのわずかに鋭さを増した。


「そのうえで、まずは彼女の過去の経歴をあたってみたんだけど――彼女、思った以上に複雑な人生を歩んできたみたいね」

「――なんだって?」


 思わず優人が身を乗り出すが、やはり双葉が揺らぐことなどない。


 真名の過去――思い返せば付き合っていた時分、一度たりと真名は自身の生い立ちや生まれ故郷、幼少期の思い出を語ったことはない。二人の仲がより親密になることで自然と打ち解けてくれると信じていたのだが、それを知る前に彼女はこの世を去ってしまったのだ。


 目の前に並べられた資料に一体、どのような過去が記されているのか。優人は殊更、強く興味をそそられてしまう。


 一瞬、双葉はちらりと優人の表情を眺めた。だがすぐに視線を戻し、淡々と調査内容を告げていく。


「篠崎さんは新潟県の限界集落にて、町工場を経営する夫婦の一人娘として生を受けているわ。両親は彼女が幼い頃に離婚。以来、母親が女手一つで彼女を育て上げてきたの。お世辞にもその暮らしは、裕福とは言い難かったみたい」


 つらつらと、あまりにもすんなりと双葉は事実を告げる。だが一方で、彼女の口から飛び出す言葉の数々を、早くも優人は受け止めきれない。


 優人は分かりやすく狼狽しながら、思わず目の前に座る女探偵に〝待った〟をかけてしまう。


「なんていうか、こう……意外、としか言いようがないな。てっきりもっと、どこぞのお嬢様みたいな経歴を持っているのかと思っていたんだ。驚いたよ。それじゃあ彼女、相当な成り上がりの人生を送ったんだな」


 一瞬、思いがけない過去にたじろいでしまったが、優人はすぐに気持ちを切り替える。過去がどうであれ、彼女は事実、大手企業で働くデザイナーとして大成しているのだ。そう考えればむしろ、人一倍努力を重ねた結果に思えてならない。


 あくまで肯定的に事実を捉える優人だったが、そのふわついた気持ちを双葉の言葉が現実に引き戻す。彼女はなおも目の前に並ぶ事実のみを伝えていくが、それがかえって優人のなかにある篠崎真名という〝像〟を揺らし、崩していってしまう。


「そうね。大人になった彼女とは、かなりのギャップがあるように思うわ。それに彼女の過去は貧乏なんてものだけではない、もっと重く、暗い事実に縛られている」

「おいおい、なんだよその意味深な言い回しは。一体これ以上、なにがあるっていうんだ?」


 優人は少しでも空気を和ませようと意図的に表情を崩してみせたが、それがまるで通用しなかったことに唖然としてしまう。机を挟んで座る彼女がこちらを見つめるその瞳のなかに、一切の〝慈悲〟の光がないことを悟ってしまった。


「彼女は――篠崎真名は、母親から酷い〝虐待〟を受けて育っている」

「なんだと……虐待――だって?」


 部屋の空気が色を変えた。広い和室には優人と双葉の二人しかいないが、なにか重苦しい気配が入り込み、二人の周囲に這い寄ってくるように錯覚してしまう。


 網戸の向こうから吹き込んでいた風が、止まってしまった。室温がじわりと上がり、浴衣の下の肉体にうっすらと汗を沸き上がらせる。


 ようやく、優人にも理解でき始めていた。


 なぜわざわざ、荒木双葉がここまでやってきたのか。たかが身辺調査の報告をするのに、自ら車を飛ばし、限界集落に宿泊している優人の元に姿を現したのか。


 彼女が手にした事実――その重みは、言伝で済むような軽々しいものではなかったのだ。


 冷や汗を浮かべたまま、優人は身構えてしまう。もはや、気軽な雑談まがいの報告会をする気など毛頭ない。


 優人が〝覚悟〟を固めたことを察したのか、ようやく双葉はその先を語り始めた。


「彼女の母親は元々、かなりヒステリックな性格で、これが離婚のきっかけにもなっていたみたい。母親は真名の親権を決して譲らず、その後も事あるごとに彼女に〝躾〟と称して罵声や体罰を加えていた。何度も教育委員会が彼女の家を訪れているけど、少ししたらまた虐待が繰り返される日々だったそうよ」


 もはや安易な言葉など返せない。優人はあぐらをかいたまま、口元を押さえ前を向く。


「そんな経歴からか、彼女は友達もいない孤独な幼少期を過ごしていたの。けれど、母から責め立てられる毎日のなかで、彼女はある特殊な〝能力〟を身に着けてしまう」

「能力……そ、それが……デザイナーに繋がる技術ってことか?」


 双葉は即座に首を横に振った。優人が呆然とするなか、なおも彼女は進み続ける。


「幼い頃から、篠崎さんは他人の〝気持ち〟を読み取ることに長けていたみたい。相手がなにをしたら、どう反応するのか――なにに喜び、なにを嫌うのか。きっとそれは、母親から少しでも虐待を受けないための、彼女なりの防衛本能のなせる業だったのかもしれないわね」

「防衛本能……子供ながらに真名は、いかに他人の機嫌をうまくとるか……それを学んでいた、と?」

「ええ。そのせいか彼女は、高校生になってから一気に頭角を現すようになっていくの。社会に出てからは、その〝能力〟はさらに強く効果を発揮していったのでしょうね。彼女は他人に対し、どのようにすれば好かれるか、あるいは嫌われるかを熟知していた。だからこそ、常に組織を俯瞰で見つめ、ことごとく味方をつけて、うまく立ち回っていったのよ」


 優人にとって篠崎真名という女性は、どこかミステリアスな一面と無邪気な素顔を合わせ持った魅力的な女性でしかなかった。彼女が秘めた謎もその魅力の一端で、きっと奥底には優人が知り得ないような、どこか奇想天外とした数々の要素が待ち構えているのだと、勝手に想像してしまっていたのだ。


 だが、いざ覗き込んだ彼女の奥底は、思っていたそれよりもはるかに暗く、淀んだ色をしている。優人がわずかな時間で作り上げていた篠崎真名という理想像は、双葉が持ち合わせてきた現実によって形を変えていく。


「いついかなる時も、篠崎さんは達観した視点で世界を動かし続けてきた。それゆえに、時に彼女はなりふり構わず、己が〝勝つ〟ために行動してきたの。利用できるものは、すべて利用する――たとえそれが、他人からどんな目で見られることになってもね」

「他人……真名はいったい、なにを?」

「功績は自分のものに、そして失敗は他人のせいに。学生から社会人になるまで、彼女のその〝したたかさ〟は変わることがなかった。正直なところ、周囲で彼女に対して肯定的な印象を持っている人間は、ほとんどいなかった」

「そんな……そんなはずないだろ、だって――!」


 優人はなぜそこまで、自身がうろたえているのかが理解できない。ただ、双葉が語れば語るほどに、自分のなかで信じていた〝なにか〟が崩れ、壊れていくのが分かった。


 どれだけ落ち着こうと努めても、優人の呼吸がいたずらに乱れていく。汚れを洗い流したはずの全身は、すでに嫌な汗でべっとりと濡れていた。


(なにを言っているのだ――さっきから彼女は、なにを)


 優人の頭がずきずきと痛んでいく。事実を受け止めると決めたはずなのに、今となっては情けないほどに目をそらし、耳をふさごうとする自分がいた。


 双葉はやはり、変わることのない眼差しでこちらを見つめる。彼女はまた一つ、ぱらりと手元の資料をめくった。バインダーに留められた最後の一枚に目を落とし、ようやく双葉は微かなため息をつく。


「あなたたちがこの村に来る前――彼女は会社で企画された大手企業とのコラボに、自分のデザインが起用された。そう、言っていたのでしょう?」

「ああ……ああ、そうだよ。凄いことじゃあないか? それの、なにが悪いんだよ!?」

「彼女のそのデザインは、〝盗作〟疑惑が出ているのよ」


 明確に優人が「えっ」と声を上げた。双葉は視線を資料ではなく、目の前の優人に向ける。


「盗作――だと?」

「彼女、社内では新卒社員の育成担当も買って出てたみたいなの。今回、彼女が企画に提出したデザインは、その新卒社員たちが作り上げたものを盗用し、組み合わせた疑惑が上がっているのよ」


 心臓をなにかに鷲掴みにされたような、おぞましい感覚が優人の肉体を貫いた。あぐらをかいて座っているだけだというのに、呼吸一つ、指一本動かすのもひどく困難になってしまう。


 優人の目はもはや、目の前に座る双葉の顔など見てはいなかった。


 彼はその遥か先、己の心象風景のなかに立つ〝彼女〟の笑顔を、わなわなと震える眼で見つめる。


 美しく、大人びていて、それでいてどこか無邪気な彼女。クリエイティブな職場で活躍し、優人がかすむほどの〝光〟を帯びているはずの、愛しい恋人。


 そんな彼女の背後に、黒く蠢く〝影〟が見える。彼女の笑顔が放つ無垢な輝きに、無数の〝不純物〟が混じり、汚らしく濁っていく。


 優人は机の下で拳を握り締め、ぜえぜえと肩で息をする。激しく疲弊した彼の姿を、双葉は資料を机に戻し、しばし眺めていた。


 聡明な彼女にとっては、こうなることも予測はできていた。だがそれでもなお、双葉は今日、持参したこの数々の現実を、包み隠すことなく目の前の倉橋優人という男性に手渡すことを決めたのだ。


 事実を曲げることも、隠すことも容易い。だがきっとそれでは、彼は――目の前で打ちひしがれ、泣き出しそうなほどに震える男は、ここから前に進むことはできない。


 彼は夢を見るために、こんな田舎にやってきたのではない。己を〝納得〟させるに値する、確固たる現実を見極めるため、この場にいるのである。


「狡猾――それが、篠崎真名という女性の本質だったんでしょうね。利用できるものをすべて利用し、なにかを勝ち取る。きっと彼女は、幼少期に母から〝愛〟を与えられなかったからこそ、そういう人間に育ってしまったのだと思う」

「――やめてくれ!!」


 ついに優人の精神が臨界点を迎えた。自分自身でも驚くほどに激しく、声を張り上げてしまう。


 頭が割れそうに痛い。優人は汗でぐっしょりと濡れた坊主頭を両手で掴み、その奥に鎮座する脳みそそのものを押しつぶそうと力を込めた。


 机の上に突っ伏す優人の目には、耐え難い涙が溢れていた。かつての彼女の真なる姿に、どうしようもなく恐怖が湧き上がってくる。


 優人は何一つ、見えてなどいなかったのだろう。


 光があれば、影がある。


 優人は篠崎真名という女性が身にまとった極上の輝きのみに目を向け、彼女がひた隠そうとする暗き影に気付こうとすらしていなかった。


 彼はかつて亡くなってしまった恋人の真実を見つけるため、この場所に舞い戻ってきた。幸人村にあるであろう、彼女の死の真相を探り、暴くために。


 だが、今となってはそれ自体がひどく傲慢で、的外れで、滑稽な行いに思えてしかたがない。真実を見つけようとしていた優人自身が、はなから真実を見ようとすらしていなかったのだから。


「俺は……俺はなにも――知らなかったんだな。あの子のなに一つを――見えていなかったんだな?」


 かつての彼女が抱えていた闇は、肉体が朽ちてもなお思い出のなかに残り、時を経てたしかに優人へと受け継がれてしまう。机を挟んで座る女探偵が、優人にとってあまりにも残酷な過去と今を繋げてしまった。


 だからといって、優人は探偵を責めることはしない。彼女はあくまで優人の頼みを聞き、代わりにその闇の数々を引きずり出したに過ぎないのだ。


 泣きじゃくり、顔を真っ赤にしてうつむく優人に、ようやく双葉は声をかける。


「私の仕事は、あくまで伝えること。あなたが調べてほしいと言ったことを調べ、その結果を伝える――だからこれ以上、あなたが望まないならば、篠崎真名という人間を覗き込むことはしないわ」


 なんとも淡々としていて、そして的確な一言であった。自身の領分をわきまえ、立ち位置をしっかりと把握した人間の言葉は、疲弊した優人の肉体にこれでもかと深く突き刺さる。


 元より、慰めなど飛んでくるわけもないと、優人も理解はしていた。これはすべて、倉橋優人という人間が望み、招いたことなのである。始めたのは優人であり、その結果を受け止めるのもまた、彼に他ならない。


 優人は目元を涙で濡らし、それをぬぐうこともなく諦めたようにうなだれている。このまま黙って、目の前の彼女がこの部屋を出ていってくれるのを、ただただ待つつもりだった。


 どれだけ滑稽だと思われても構わない。篠崎真名という人間の真実は、かつての恋人であった優人を打ちのめし、その体に蓄えていた気力を根こそぎ消し去ってしまった。


 もはや、どこへも進めない――優人は廃人のようにただただ何も考えず、時が過ぎ去るのを待つ。


 そんな彼を、荒木双葉はしばらく眺めていた。だがやがて、彼女は黙って目の前に展開した資料をまとめ始める。


 それらをバインダーに束ね直したのち、探偵は乾いたため息をついてみせた。


「ただ、これだけは言わせてほしいの。きっと彼女は――篠崎真名はたしかに、あなたのことを愛していた」


 一瞬、優人は何を言われたのか理解すらできなかった。だが一拍遅れてようやく、彼は顔を持ち上げる。


 相も変わらず、その顔は涙で濡れていた。赤く染めあがった目と頬は、まるでこっぴどく叱られ喚き散らした少年のようにあどけない。


 そんなみすぼらしい姿を晒してもなお、優人は驚いたように前を向く。ずぶ濡れの目を丸くする彼に、双葉は真っ向からしっかりと対峙してくれた。


「篠崎真名の〝笑顔〟は、あなたにとってどう見えていたかしら?」

「笑顔……なんで今更、そんなこと――」

「お願い。答えて頂戴」


 強く、突き刺すような一言に、もはや優人は腐りきることすらできない。彼女の真意は汲み取れないが、優人はうろたえながらも思い返していく。


「笑顔、か……真名の笑顔……なんていうか、こう――無邪気だったよ。少し意地悪な、けどそれでいて純粋で。綺麗な顔立ちなんだけど、笑う時だけは彼女、子供っぽい部分が見えるんだ」


 その笑顔こそが、優人が望んでいたものだった。彼女が不意に見せるあの笑い顔をすぐそばで見ていることが、優人の誇りでもあったのだ。


 小さな軽自動車の狭い空間だからこそ、優人は隣に座る彼女の笑顔を楽しめるただ一人の人間になれたのである。


 優人の回答を聞き、双葉はようやく微かな笑みを浮かべた。「そう」と頷き、彼女は混乱したままの優人に語りかける。


「篠崎真名の評判は、お世辞にも良いものではなかった。けれど、彼女はあなたが言うように、他人に無邪気な笑みを見せる人間ではなかったそうよ」

「えっと……それは、どういう……?」


 得意げに語る双葉に対し、いまいち優人は意図をくみ取れない。そんなうろたえる優人の姿に、双葉はまた一つ悟ってしまう。


(だから彼女は――この人を選んだのね)


 推測が確信に変わったことで、彼女はより力強く言葉を放った。


「あの笑顔は――彼女はその純粋な心からの笑みを、あなたの前だけで見せていたのよ。それは正真正銘、篠崎真名という女性にとってあなたが〝特別〟だったからに他ならない。探偵としてではなく、一人の〝女性〟としてそう思うの」


 これまでとは違う大きな衝撃が、優人の芯を殴りつける。打ちのめされ、ボロボロに摩耗していた心が、無理矢理に蹴飛ばされたことで再起し、図らずも動き始めた。


「彼女はあなたを信頼していたのよ。他の人間たちとは違い、不器用で、女心が分からない、あなたを。出来が悪い男であっても、肩の力を抜いて、ありのままを見せることができる、あなたを」


 褒められているのか、けなされているのか、なんとも不思議な言葉の羅列であった。だが、双葉の放ったそれは優人の肉体に染み込み、鼓動を加速させていく。


「俺が……真名にとっての、特別……」

「結果的に、あなたにとって彼女は、思い描いていたような理想の女性ではなかったかもしれない。けれど少なくとも、彼女にとってあなたは、この敵だらけの世界で唯一心を許せる、大切な人だったんじゃあないかしら」

「そんな……そんな、都合のいいことがあるのかよ……」

「分からないわ。これはあくまで私の推測よ。だから、ここから先はあなたに委ねるわ。これからもまだこの村で、彼女のことを追い求めるかどうか」


 それ以上、双葉は多くを語りはしなかった。優人は彼女の顔をしばし見つめていたが、やがて自身の手のひらに視線を落とし、考える。


 優人は改めて、篠崎真名という女性について多くを知ってしまった。双葉が言う通り、もはや心のなかにいる彼女は随分と異なった姿をしている。


 ときには人を利用し、誰かの功績を使って勝利を得ようとする、狡猾で貪欲な一面を持ったしたたかな女性。きっと生きていたとしたら、彼女はずっとそうやって世渡りをしていくつもりだったのだろう。


 それらを受け止めたうえで、優人はなおも考える。心に負った傷をなぞりながら、その心の中心に立つ〝彼女〟の姿を思い浮かべ、自身に問う。


 今もしっかり、記憶のなかに〝彼女〟がいる。どれだけ年月が経とうとも、痛ましい瞬間を忘れようと努めても、まるで色褪せることのない〝彼女〟が。


 完璧な存在ではない。彼女は女神でもなければ、天使でもなく、ましてや聖人君主のような崇高な存在でもない。


 どこにでもいる、欲深く、暗い過去を引きずった一人の人間だった。


 その人間を前にして、優人は問う。彼女ではなく、他ならぬ自分自身に。


 無数の記憶と想いが弾け、交差する。気が付いた時には優人は見つめていた手を握り、固く拳を作っていた。


 彼の体の奥底を支配していた震えが、確かに止まる。熱と痛みはなおも体を不快に満たしているが、それ以上の強い感情が渦巻き、熱波となって背筋を駆け上った。


 思い出の中の彼女は――真名はまだ、笑ってくれている。冗談を言い合い、意地悪に引っかかった優人の情けない姿を見て、痛みを知らない子供のように笑ってくれたのだ。


 それが答えだったのだろう。あの日からずっと、優人の中にはしっかりとした揺るがない答えがあったのだろう。


 双葉がほんのわずかに息をのむ。目の前に座る男性の顔つきが、なぜか先程よりも妙に雄々しく見えてしまった。


「正直なところ、凄く辛いよ。真名には俺の知らない一面がたくさんあった。それはあんたが言ったように、揺らぐことのない事実なんだろう」


 双葉は何も返さず、ただ黙って優人の独白を聞く。優人はようやく顔の涙をぬぐい、かっと目を見開いて前を向いた。


「それが彼女なら――篠崎真名という女性というなら、それでいいんだ。俺はあの子を、理想の彼女として思い出のなかに押し込めておきたいわけじゃあない。俺はただ、〝納得〟したい。彼女が――俺にとって間違いなく、大切な人であり続けている彼女が死ななければいけなかった理由を」


 失ったものは戻ってはこない。だがはなから優人は、後ろを向きながら生きていくつもりなど毛頭ない。


 彼はいつでも、前を向いていきたいのだ。彼女を失ったという〝過去〟を受け入れられた時、初めて〝今〟を歩き始めることができるのである。


 かつて、雨に降られる村を前に、川嶋と並んで交わした言葉の数々が優人の中に蘇っていた。己が進む理由を――自身が選び取った“今”の形を思い描きながら、優人は力強い眼差しを浮かべる。


「俺は絶対にこの村の――あの時に鳴った〝鐘〟の正体を突き止める。なぜ、真名は死ななければいけなかったのか。なぜ、あれからも多くの人が死んでいくのか。それを知らなければ、俺の心はずっとこの部屋に取り残されたままなんだよ」


 まっすぐで、不器用で、熱い言葉だった。双葉は受け止めたその重みをしばし堪能していたようだが、すぐにため息をつく。彼女は微笑んだまま、そそくさと自分の荷物を片付け始めてしまった。


「あなたならきっと、そう言うと思ったわ。ならもう少し、私の仕事は続きそうね」


 優人が「えっ?」と首をかしげるなか、彼女はすくと背筋を伸ばして立ち上がる。黒いレディーススーツを身にまとったその肉体は、か細さのなかに確かなしなやかさを内包していた。


「〝鐘〟についての調査はまだ終わっていないでしょう。だから、ここから先は私も捜査に加わるわ」

「あんた、まさか……このまま、この村に滞在するつもりかよ?」

「ええ。この民泊の部屋も、しっかりと押さえているの。もう、リモート通話は必要なさそうね」


 呆気に取られてしまう優人だったが、なんだか双葉の表情は初めよりも随分と弾んでいるように見える。あぐらをかいたまま目を丸くしている優人に、双葉はどこか不敵に微笑んでみせた。


 結局、終始ペースを握られたまま、二人の報告会はお開きとなってしまう。呆けている優人を前に、双葉は悠然とその場を立ち去ってしまった。


 あとには優人だけが残されたが、やはりすぐに立ち上がることはできない。なんだか感情を右へ左へと激しく殴打されたようで、気が付けばひどく疲弊してしまっていた。


 優人は改めて目元を押さえ、残っていた涙を振り払う。双葉から聞き及んだ数々の事実を反芻してみるが、やはり彼のなかの意志が揺らぐことはなかった。


 今でも確かに、心の奥底には〝彼女〟がいる。ならばもうこれ以上、あれやこれやと揺らぐ必要などない。


 かつて固めた岩のような意志は、より研ぎ澄まされ、打ち付けられたことで鋼へと変化していた。粗削りだった部分が削ぎ落とされ、鋭敏になったそれは、優人の鼓動の奥底で確かに脈動し続けている。


 夜はかなり遅かったが、優人は妙に肉体が火照ってならない。なにより双葉とのやり取りのおかげで、精神のほうが覚醒しっぱなしである。


(仕切り直すとするか)


 優人はようやく立ち上がり、バスタオルを片手に再び部屋を出る。改めて風呂に入り、熱湯で肉体を引き締め直すことにした。


 先程とは違い、彼のその足取りはどこか軽い。進むべき道標を得た足音が、軽快に風呂場へと弾んでいく。


 その音色をただ一人、耳をそばだてて聞いている者がいた。


 優人が意気揚々と大浴場の暖簾をくぐるその背中を、〝男〟はじいっと見つめ、重々しいため息を漏らす。

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