第10話

 目の前には久々に見る〝彼女〟の横顔があったが、その向かい側に並ぶ自分の顔を見て、これが〝夢〟なのだと悟ってしまう。真名と自分はコーヒーカップに乗り込み、どこかそわそわした表情のままその時を待っている。


 アナウンスと共に機械が駆動し、カップが回り始めた。〝彼〟が手元の取っ手を力強く回すと、思った以上にカップが加速し、遠心力が肉体に襲い掛かってくる。


 バランスを崩した〝彼〟が「うわあ」と声を上げてよろめくと、それを見た真名はくすくすと子供のように無邪気な笑い声をあげる。よほど面白かったのか、今度は彼女がハンドルを握り、か細い腕に力を込めて精一杯、回し始めた。


 ぐるん、ぐるんと、カップは幾度となく勢いをつけて回る。そのたびに〝彼〟は右へ左へともてあそばれ、ついにはカップの縁で後頭部を痛打し、なんとも間抜けな悲鳴を上げてしまったのだ。


 高速で流れる景色のなかで、真名は笑った。嬉しそうに、楽しそうに、とにかく大きな声で笑った。


 遊園地についてまだ数分しか経っていないというのに、〝彼〟もその笑顔を見て、ただただ笑みが浮かんでしまう。


 今日は間違いなく、幸せな一日になる――この時は確かに、そう思えたのだ。


 この日だけではない。


 次の日も、その次の日も――真名と共に過ごした日々は、それがなんであろうとも、かならず幸せな日々になると分かっていた。


 いつだって、彼女は笑ってくれたのだ。


 ときに優しく、ときに意地悪に。これまで〝彼〟が見てきた誰のものよりも、明るい笑顔で。


 夢はそこで、ふっと途切れてしまう。目を覚ました時には優人は薄暗い天井を見つめ、頬を流れ落ちる熱い感覚を確かめていた。


 普段、どれだけ思い出そうとしても、ここまで明確にかつての情景は蘇ってこない。なのになぜか、夢のなかでは殊更鮮明に過去の思い出が蘇り、幸せだった頃の日々を焼き付け直す。


 自身の記憶を明確にコントロールできないことが、ただただ歯がゆい。不意打ちのように現れる思い出の数々は、今の優人にとってはただ優しく、そして同時に鋭く心をえぐり、止めることのできない涙を溢れださせる。


 過去が幸せであればあるほどに、今がそうでないと自覚せざるをえない。


 どれだけ思い描こうが、どれだけ鮮明な映像だろうが。あの日いたはずの〝彼女〟がここにいない限り、それらはただの悲痛な記憶の束でしかない。


 優人は浴衣の袖で顔をぬぐいながら、たまらず体を起こす。早朝の薄明かりが室内を照らしていたが、隣に眠っていた川嶋の姿はすでに消えていた。


 いつも通り、おおかたフィールドワークと称して、村の隅々を調べているのだろう。昨日の一件があって以降、優人は彼にどこか不信感を抱かざるをえない状態だった。


 夢の内容もさることながら、相棒への感情の揺らめきが、なんとも不快に胸を締め付ける。優人は沈み込もうとする自身を叱咤するため、足早に洗面所へと向かう。冷水で顔を洗い、歯を磨くことで無理矢理に気持ちを切り替えた。


 優人が部屋に戻り、私服へと着替え終えたところで、階下から慌ただしい足音が響く。大方の予想通り、どこか慌て顔の川嶋が部屋へと飛び込んできた。


「優人、おはよう! 大変なんだ。さっそく、問題発生だよ」

「問題だって? それってつまり――あいつがやらかしたのか?」


 交わした言葉は少なかったが、その中で優人は察してしまう。川嶋は大きくうなずくも、反対にどこか優人は辟易してしまった。


「ほらみろ、言わんこっちゃない。おおかたまた、無理矢理に取材しようとしたんだろう。あんなことしてりゃあ、村人に怒られて当然だよ」


 言わずもがなそれは、昨日、村へやってきた動画配信者の青年・戸倉清二のことであった。恐らくあれからも、彼は変わることないスタイルで取材を続けていったのだろう。あんな強引な手法を取れば、いずれ誰かの逆鱗に触れてしまうのは目に見えていることだった。


 優人は肩の力を抜いたまま「どっこいせ」と立ち上がったが、川嶋はなおもどこか慌てた様子で伝えてくる。


「そ、それはそうなんだけどさ。ただ、ちょっとばかし、状況がまずいんだ」

「どういうことだよ? そんな緊急事態だっていうのか」

「とにかく、急いで来てくれ! 早く!」


 焦る川嶋を見て、それでも優人は「やれやれ」とけだるそうな眼差しを浮かべた。とにもかくにも、川嶋が狙った通りの動きがあったらしい。その隙間を利用するのはいささか気が引けたが、それでもここで引きこもり続けるのも得策ではないと理解はしていた。


 優人は川嶋に連れられる形で宿を出る。早朝だというにもかかわらず、やはり農家の人々は早起きしてすでに作業を始めていた。遠くでは大型の草刈り機が音を立て、生え放題になった雑草をばっさばっさと剪定している。そんな田舎の風景にため息をつきながらも、今はとにかく目的地へと急いだ。


 朝の冷たい空気を切り裂くように歩いていくと、すぐにその現場へとたどり着くことができた。


 最初こそ事態を甘く見ていた優人だったのだが、近付いてくる場所がどこなのかに気付き、ようやく川嶋が慌てていた理由を察してしまう。すでに広場には人だかりができていたが、まずは目の前に広がる異様な光景に、分かっていても息をのんでしまった。


 円形の広場に立ち並んだ、丸太――あれが土の下に眠っている者の〝墓標〟なのだと、今ではしっかりと理解できる。丸太に張られていた札は確か、かつてこの地を訪れた僧侶・浄優が教え伝えた、鎮魂の札だったはずだ。


 そこはかつて優人と川嶋が足を踏み入れ、そして村人にけん制された共同墓地である。その墓地のど真ん中に、あの目も覚めるような金髪の青年が立っていた。


「どぉですか、皆さん! これ全部、お墓なんですよ、お・は・か! 火葬が当たり前となっているこの日本に、まだこういう土葬文化が残っていたんですねぇ~!」


 相も変わらず、その身振り手振りは実にわざとらしく、演者的だ。動画配信者・戸倉清二のどこか浮世離れした立ち振る舞いに、周囲の村人たちは距離を取り、ただただ唖然としている。


 優人らも後方から彼をうかがっていたが、明らかに様子がおかしい。優人はサングラスを少し持ち上げ、裸眼で直接、戸倉の〝顔色〟を確認した。


「おい。なんだ、あいつのあの顔。真っ赤じゃあねえか」

「う、うん。それにあの酩酊した感じ――あれ、間違いなく酔っぱらってるんだよ」

「酔ってるだと? あの野郎、まだ朝の7時だってのに飲んでるのか?」


 川嶋もさすがに「みたいだねぇ」とたじろぐしかない。どういうわけなのか、戸倉は早朝から酒を煽り、酩酊した状態で動画配信を行っているらしい。


 だが、その理由はおのずと、墓地の真ん中で立ち振る舞う戸倉自身の言葉から読み取れた。


「村自慢の銘酒を堪能したかと思いきや、とんでもない場所に迷い込んでしまったようですよ! いやぁ、恐ろしい。この下には今もなお、人々が眠っているっていうんですからねぇ~!」


 おそらく、自身の動画配信を盛り上げる名目で、事前に村の酒屋にでも足を運んだのだろう。酒に酔ってろれつが回っていないあの姿も、彼からしたらおいしい撮れ高なのかもしれない。


 これだけならば、ただの酔っぱらいが暴れているだけだったのだが、今回はそうもいかない。スマートフォンに向かって配信をする彼に、近くにいた男が大声を上げた。


「お前、いい加減にしねえか! ここは、大勢が眠ってる神聖な場所だぞ。酔っ払いが来ていい場所じゃあねえ!」


 男の怒声が大気を揺らし、村人たちが委縮してしまう。優人らも少し身を引いてしまったが、戸倉を怒鳴りつける彼の姿には見覚えがあった。


 それはかつて、優人らが墓地に足を踏み入れた際、二人に警告をしたあの農作業着の男だ。相も変わらず汚れ切った服装をしていたが、彼は優人らのときよりも激しい口調で、戸倉を責め立てる。


 まさに一触即発の状況だった。男がどれだけ大声を張り上げようとも、戸倉はまるで意に介していない。へらへらとなめた態度で怒鳴る男をかわし、ときには画角に収めようとすらしていた。


 そんな痛々しいやり取りがしばらく続いたのだが、徐々に優人は妙なことに気付いてしまう。他の村人や川嶋は騒然としているが、明らかにこの状況はおかしい。


 なおも戸倉は好き放題に立ち振る舞い、墓地のど真ん中で配信を続けている。そんな許されざる愚行を前に、農作業着の男――恐らく、この墓地の管理人なのだろう――彼はただ声を荒げ、全身を強張らせて憤りをあらわにしていた。


 そんなやり取りが、もう数分は繰り広げられている。恐らく、川嶋が優人を呼びに来た時からすれば、もっと長い間こうして、二人は言い合いをしているのだろう。


 墓守の男の顔は凶暴で、彼は今にも戸倉に飛び掛かりそうだった。がたいもよく、がっしりとした肉付きの男からすれば、戸倉を組み伏せることなど容易いのだろう。


 だが、怒りこそあらわにすれど、男はまるで手を出すことはしない。なにも暴力が適した解決手段だとは思っていないが、墓地という神聖な場を乱す外敵がすぐ目の前にいるのである。にもかかわらず、墓守はなおも言葉は荒げるが、まるで強硬手段に出ようとしない。


(なにかが変だ)


 優人が独特の不自然さを察するなか、別の方向から唐突に、なんとも重々しい声が響く。


「お静かに願えますか。彼が言うように、ここは神聖な場――興味本位で立ち入られないよう、お願いしたいのです」


 優人らはもちろん、周囲にいた村人たちも一斉に、声の方向へ視線を向ける。戸倉が「はい~?」と間の抜けた声を上げるが、墓守の男も目を丸くし、どこか唖然としていた。


 そこには中年の男が立っていた。角ばった顔にがっしりとした体形から、全体的にどこか〝太い〟という印象を受ける。しかし、太っているということではなく、したたかかつ丁寧に歳を重ねた者特有の野太さが、その全身から伝わってきた。


 男は数歩、戸倉に向かって近寄り、やはり野太い声で堂々と告げる。


「お客人。失礼ですが、こういった行為は慎んだ方がよろしいかと」

「おおっと~、思わぬ乱入者の登場ですねぇ! なんですかぁ? 騒ぎ立てると、足元から死者が蘇ってきたりするんでしょうかねぇ~?」


 なおも舐めた態度をとる戸倉の姿が、優人にとっては素直に不快だった。しかし、対峙する男はまるで動じることなく、まっすぐに言い返す。


 口の端にほんのわずかな笑みを浮かべたまま、変わることのない野太い声で。


「いいえ、さすがにそのようなことは。ただ、あまりにも悪い行いを続けますと――〝幸人様〟に連れていかれるやもしれませんのでね」


 優人は思わず「えっ」と微かな声を上げてしまう。優人や川嶋同様、周囲の数名が彼の一言でうろたえるのが分かった。


 しかし、当の戸倉はというと、なおも酒の勢いを借りて立ち振る舞い続ける。


「おおっと、出ました、〝幸人〟! その人が確か、この村に〝鐘〟を持ってきた人なんですよねぇ~? なんでしょう、まさかその人がすべての元凶だったりするんでしょうかぁ?」


 あまりにも無遠慮な一言に、空気が熱を帯びるのが分かった。ついに耐え切れなくなったのか、戸倉の背後に立っていた墓守の男が拳を握りしめ、重々しい一歩を踏み出す。


 ついに、臨界点か――そう誰もが予測したのだが、先程の太い男が言葉で制する。


「よしなさい、我孫子。暴力は良くない」


 短い一言だったが、それが墓守の男・我孫子の動きを制してしまう。「しかし」と悔しそうに足を止めた彼に、戸倉はここぞとばかりに追撃していった。


「おお、いいこと言いますねぇ! そのとぉ~り! 暴力なんて、野蛮人のすることですからねぇ。それに、もし配信中に殴りでもしたら、その映像はばぁ~っちり、ネットに流れてしまいますから!」


 その一言から、優人には戸倉という男の本質が見えた気がした。彼は動画配信を自身の保身に利用しているのだ。不特定多数が見ている前で暴力など振るえば、それはたちまち拡散されてしまう。


(つくづく、嫌な性格してやがる)


 優人が歯噛みするなか、それでもなお太い男は笑みを絶やさない。彼は踵を返し、あまりにもあっけなく退散してしまう。


「それに――恐らくその様子だと、時間の問題でしょうしね」


 どこか含みのある言い方を最後に、男は広場から立ち去ってしまった。彼が去ったことで一人、また一人と村人たちも姿を消していく。


 結局、戸倉はそれからもしばらく、好き勝手に墓地のなかで暴れまわった。物こそ壊しはしなかったが、それでも墓守の男の前で散々と無礼を働き、ただただ彼を不快にして身勝手にその場を後にしてしまう。


 優人と川嶋も遠巻きにそれを見ていたが、たまらず立ち去った戸倉の後をつけた。彼は小さな雑貨店の前に置かれたベンチに腰掛け、酔いを醒ますために休憩している。


 その姿が、優人には耐えられなかった。川嶋が制止する間もなく、優人はずずいと距離を詰めてしまう。


「おい、いい加減にしろよ。人に迷惑をかけるのが、お前の言う取材ってやつなのかよ」


 優人の言葉を受け、戸倉が「はぁ?」と視線を持ち上げる。真っ赤な顔でこちらを見上げる彼に、優人はサングラスを外して真正面から対峙した。


「まぁ~た、おたくかよ? なになに、今度は何の用?」

「有名配信者か何か知らねえけど、やって良いことと、悪いことの区別もつかねえようなクソガキなのか?」


 明らかな挑発の一言に、戸倉にも火が付いた。彼は立ち上がり、また一つ「はぁ?」と甲高い声を上げた。


「ったく、どいつもこいつも説教くせえなぁ。いいじゃねえの、別に。むしろ、ああいう大声上げる奴がいてくれた方が、絵としては面白くなるわけよ。そういう尖った動画のほうが、視聴者ってのは食いついてくれるって寸法なのさ」

「お前……動画の視聴者が増えれば、何やってもいいって思ってるのかよ」

「じゃあ、お利口にしてたらお金がもらえるわけ? これでも、そんじょそこらの平凡なサラリーマンなんかより、よっぽど稼いでるわけよ。当然、きちんと高い税金だって納めてる。社会的に、どっちが貢献してると思うわけよ、あぁ!?」


 なんともお粗末な持論を盾に、それでも戸倉は声を張り上げながら顔を近づけてくる。墓地での騒動が終息した矢先、今度は優人自身がその火種となってしまった。


 川嶋が慌てるなか、しばし二人は至近距離でにらみ合っていた。だがやがて、戸倉が「はっ」と乾いた笑い声をあげ、ふらふらと背を向けてしまう。


「大体、昨日も言ったけどあんたらだって同類でしょお? わざわざこんな辺鄙な村までやってきて、あれやこれやと嗅ぎまわってさぁ。やり方が違うだけで、目的は結局おんなじなんじゃあないのさ」


 戸倉の言葉に、優人はすぐさま「違う」と反論したかった。だが、なぜかその一言を放つことができない。心のどこかで事実、優人らもこの幸人村を敵視し、村人たちの隙を伺いながらあれこと嗅ぎまわっている存在なのだと、理解している部分があったからだ。


 言い返せない優人を前に、戸倉は道端に唾を吐き捨てる。彼はベンチ横にあった自販機に札をねじ込み、乱雑にボタンを押した。がたんと音を立てて転がり落ちたビール缶を見るに、まだまだ飲み足りないらしい。


「もぉさ、あんたらもおとなしく帰りなよ。〝鐘〟ってのについては、俺が見つけてやるから、おとなしく家で待ってなって。あっ、くれぐれもチャンネル登録よろしくね~。投げ銭してくれるなら、なお良し!」


 そんな身勝手な一言を最後に、彼は缶ビールを開けながらふらふらと歩きだす。優人と川嶋は苦々しい眼差しで、その背を睨み続ける他なかった。


 戸倉はゆらり、ふらりと左右に大きく傾きながら、あぜ道を進んでいく。あれではどこかで足を踏み外し、田んぼへと落ちてしまいそうだ。


 優人は大きなため息をつき、先程まで戸倉が座っていたベンチに腰掛ける。色褪せた青いプラスチック製のベンチは、優人の体重を受けてぎぃと情けなく声を上げた。


 苛立ちから頭を抱える優人を、川嶋はしばし物悲しそうに見下ろす。だがやがて彼もベンチに腰掛け、一息ついた。


 二人は無言のまま、並んで幸人村の風景を眺める。自然豊かな田舎の景色は変わらずそこにあったが、優人と川嶋の沈んだ心を癒してはくれない。


 長い沈黙の後、たまらず口火を切ったのは川嶋だった。


「ごめん。君が言った通り、安易に情報を漏らしすぎたのかもしれない。まさか、あそこまで破綻した人物だとは、思わなかったんだ」

「いや、いいさ。お前はお前なりに、事態を好転させたくてやったことなんだろ? 今更もう、責めやしないさ」


 川嶋は横目で優人を見つめる。優人は坊主頭にじっとりと滲んだ汗を手で拭いながら、「それに」と続けた。


「あながち、あいつが言う通りなのかもしれない。なんだかんだ言ってるけど、俺らも結局、この村に対して良い感情を抱いているわけじゃあないんだからな」

「そう、かもね……けれど、僕からすれば優人は偉いよ。本来ならば君が一番、この村を憎んでいるはずなんだ。なのに、村の人のことをできるだけ考えて行動しようとしているだろう?」

「そんなのは、ただの自己満足さ。実際、その中途半端さがあるから、核心にたどり着けていないのかもしれない」


 励ましたつもりが、優人の気持ちは一向に晴れはしない。川嶋はなおも「そうか」と、力なくつぶやくほかなかった。


 なんとも気まずい空気が流れていたが、しばらくして地面でぽつぽつと潤った音が弾けだす。二人が気付いた時には、通り雨がざああと音を立てて村に降り注ぎ始めた。


 暑すぎる夏特有のにわか雨である。だが幸い、ベンチのすぐ上に配置されたビニール製の屋根がずぶぬれになるのを防いでくれた。


 空気が降り注ぐ雫にかき回され、熱波がそこら中から沸き上がった。しかしすぐに大気が冷やされ、なんとも心地良く肌を湿らせてくれる。


 雨水のカーテン越しに村を眺めながら、少しだけ優人は肩の力を抜いた。


「すげえ雨だな。さっきのあいつ、もしかしたらどこかでずぶ濡れになってるかも」

「だね。そう考えれば、少しはいい気味だったかもしれないよ」


 困ったように笑う川嶋を眺め、ようやく優人もわずかに笑みを取り戻す。わだかまりがすべて消え去ったわけではないが、それでもこの村では彼が唯一、優人にとっての協力者なのだ。いつまでも、過去の過ちを引きずっている場合でもない。


 そんな川嶋に、優人はかねてから気になっていたとある思いを吐露する。


「なぁ、川嶋。もし例の〝鐘〟を見つけたとして――それから、どうする?」


 唐突な問いかけに、川嶋は少しだけ驚いたようだった。眼鏡の奥の眼差しが、分かりやすく揺れている。


「どうしたんだい、急に?」

「ああ、いや。以前、例の探偵――荒木に問いかけられたんだ。〝鐘〟のありかを――もっと言うなら『真相を知ったら、どうするか』って」


 真相――その一言に、川嶋もどこか真剣な表情を浮かべた。悩む彼の回答を、優人もじいっと待ち構える。


「真相、か。確かに、考えたこともなかったかもしれない。こう言っちゃあなんだが、僕は今回の件、歴史学者としての知見を深めるっていう部分で協力しているところもあるからね」

「そうか。まぁ確かに、お前にとってこの村はそれこそ、宝の山みたいなもんだもんな」

「そこまでは言い過ぎかもね。けれど、たしかに興味深いデータはたくさん取れているよ。だから僕にとっては、その〝鐘〟にあわよくば出会いたい――実は、それくらいの事しか、考えていないのかもしれないね」


 思った通り、川嶋の回答はどこかドライなものであった。一方で、優人はそれが実に妥当なものだとも理解している。彼が言う通り、川嶋はあくまで今回の件に巻き込まれた側だ。この村に因縁もなければ、誰かを奪われた人間でもないのである。


「そういう君は、どうするんだい? それこそ、真名さんの死の真相があるとして、それから?」

「そこがいまだに、俺にも分からないんだ。もちろん、真名の死について、その真相――〝鐘〟が関係してるのかどうかを、この目で確かめないことには気が済まないんだよ。ただ――」


 川嶋が「ただ」と繰り返すのを待ち、優人は続ける。


「それを解き明かしたところで、何も変わらないのかもしれないって最近思えてしまうんだ。〝鐘〟の正体が分かったとして、それで真名が生き返るわけではない。さっきの墓地に埋葬された人たちだって、あれはもうただの死体で、それがゾンビみたいに這い出てくることなんてありえないだろう?」


 川嶋は心情を吐露する優人をじっと見つめていた。友人の視線を頬に感じながら、優人はあくまで雨の降りしきる原風景に向かって言葉を放つ。


「そう思った時に、ふっと不安になるんだよ。結局、最後まで歩んだとしても、俺がやったことはあの野郎――戸倉って動画配信者がやろうとしていることと、大差ないんじゃあないかってな」


 きっとそれは、戸倉という人物と真っ向から向き合ったからこそ、見えてきた事実なのかもしれない。


 真名の死がきっかけで、確かに二人はここにやってきた。しかし、その先に待つものが二人にとってなにか大きな変化をもたらすのかといえば、その保証はない。


 そこまで聞いて、川嶋は少しだけ考え込んでいた。膝の上に両肘を置き、少しだけかがんだ体勢で彼もまた村の風景へと視線を走らせる。


 雨は少しずつ、止み始めていた。頭上を入道雲が通り過ぎ、豪雨をどこかへ運んでいこうとしているのだろう。


「僕は色々と歴史を見てきた。それはいわば、この国に残った〝過去〟を見てきたってことになる。どれもこれも興味深いものばかりだったけど、一方でそれらの過去は記録でしかない。〝今〟を生きる僕らが、終わってしまった〝過去〟を変えることはできないんだ」


 当たり前の事実ではあったが、一方で歴史学者という立場に身を置く彼が言うからこそ、どこか言葉に重みが乗せられていた。優人はこれまでとは少し違う川嶋の空気を、肌で察してしまう。


「じゃあ、歴史というものは無意味なのか――僕はそうは思わない。歴史……つまり〝過去〟っていうものは、それに触れた誰かの記憶となって、新しい時代に活きていく。過去は変えられないけど、それにどう向き合うかで、その人が生きる〝今〟は変わるんじゃあないかな」


 〝過去〟と〝今〟――その言葉の意味を、気が付いた時には優人も考え始めていた。


「君にとって、たしかに真名さんの死は変えようのない〝過去〟だ。けれど、それと向き合って、立ち向かおうと決めたから君は再起できたじゃあないか。計画を練って、僕みたいな人間にもコンタクトを取って――そうやって過去に向き合って、〝今〟を変えたんだと思うよ」


 川嶋のその一言は、優人のなかにこれまでとは違う価値観を芽生えさせつつあった。決して変わらぬはずの〝過去〟が、それでいてなおも優人が生きる〝今〟と繋がっているという事実を、確かに感じる。


 今朝、夢に見た光景も――優人が捨てきることのできない、〝今〟に張り付いた確かな〝過去〟なのだ。


「そうか……そうなのかもな。俺はきっと、真名の死を受け入れて――自分自身が進むために、ここにいるのかもな」


 優人は足元を見つめ、考える。わずかに降り注ぐ雨の残り香が、目の前にできた泥水の中でぱちゃぱちゃと不定期に跳ねた。


「ただただ、何もしなくても時間は進む。けれど、それじゃあきっと、俺はもう生きていくことなんてできないんだろう。過去に――真名の死に〝納得〟しなけりゃあ、俺はどこにも進めない。この村で起こったことを知って、あの日に〝納得〟できないと、〝今〟を生きることすらできないんだ」


 優人はまだ、過去に捕らわれた亡霊なのだ。肉体も意識もここに確かにあるが、彼の心はまだ3年前のあの日に置き去りにされている。


 それらを繋ぐのは〝鐘〟だ――あの日鳴り響いた、あの重々しい音色の〝鐘〟。


 今でも鮮明に思い出せる。あの日、この村で聞き、そして時を経てまた体感した、その音色を。


 ごぅぅん――雨が止んだ村の空気が、揺れた。


 目を閉じていた優人は一瞬、自身の肉体に走ったその感覚にひどく混乱してしまう。


 それは、心の奥底に眠る記憶などではない。


 それはたしかに――たった今、鳴った音色だ。


 優人が振り向くと、川嶋も唖然としたまま村を見渡していた。友人のその表情から、何が起こったかをすぐに悟る。


「おい、今のって――」

「ああ、間違いないよ。今のは――〝鐘〟の音だ!」


 二人は合図すらなしに、同時に立ち上がっていた。通り雨に濡れた村を、スニーカーが汚れることすらいとわずに駆け出す。


 やはり、外に出ていた村人たちは茫然としていた。あぜ道のど真ん中に立ったまま、二人は周囲を必死に見渡す。


(どこだ――?)


 反射的に、村のどこかに人だかりができていないかを探した。二人の予測が確かならば、先程の〝鐘〟によって、また誰かが亡くなったはずなのである。


 しばらく村の様子をうかがうも、特に目立った変化はない。激しく緊張していた二人だったが、あぜ道を歩けば歩くほどに徐々に肩の力が抜けていく。


「どういうことだ。騒ぎが起こっている感じじゃあないが」

「そうだね。もしかしたら、どこかの家屋のなかで人が亡くなったのかもしれない。まだ、発見されていないだけかも」


 優人は「なるほどな」と頷き、周囲を見渡す。田んぼでは農家の一家が作業を再開し、土手の麓では大型の草刈り機が音を立てて剪定を続けていく。


 一瞬、激しい緊張が走り抜けはしたが、雨上がりの村はやはり変わらぬペースを取り戻しつつあった。


(気のせいなのか……)


 これまで幾度となく体験してきた〝鐘〟の音だったが、大事が起こっていないということに拍子抜けしてしまう。無論、川嶋の言うようにどこかの家で死者が出たのかもしれない。あぜ道のど真ん中で足を止めたまま、優人はなおも思考を巡らせた。


「もしかしたら、民家のほうで死体が発見されるかもな。そっちの方を当たってみよう」

「ああ。けれど、もし亡くなった方の家を見つけたら、どうするんだい?」

「この前――佐久間一茂の時と同じさ。できればそこにいる家族なんかに、話を聞きたい。まぁ、一人暮らしだった場合は、その周辺での聞き込みだな」


 言いながらも、なんとも心許ない作戦に思えた。しかし、今の二人にとっては、どこかで起こった死に関連する周辺状況を捜査することくらいしかできないのである。


 決意を固め、民家が固まっている方角へと歩き出す。


 しかし、不意に背後から聞こえてきたけたたましい音に、思わず足を止めてしまった。


 背後で草刈りをしていた機械のなかに、ぎゃりりりりという固い感覚が混ざる。妙に粘着質な音色も混ざるなか、二人はなんの気なしに背後を振り返っていた。


 土手の麓で雑草の剪定をしていた、大型の草刈り機が停止している。操縦席に乗り込んでいる男は一瞬、何が起こったのかが理解できなかったようで、ぽかんと口を開けて呆けてしまっていた。


 土手一面が真っ赤に染まっている。飛び散った肉片が雑草の端々にこびりつき、いくつかは斜面にまで飛散してしまっていた。


 優人と川嶋の思考が停止してしまう。目の前に広がる規格外の光景に、理解が追い付いていかない。


 ゆるやかに、じんわりと脳が情報を読み取っていく。草刈り機の前方に並んだ〝刃〟の部分に、肌色と赤色がまだらになって並んでいた。湾曲した刃の一つには、植物とは明らかに異質な〝それ〟が突き刺さり、持ち上げられている。


 目を凝らし、その正体を探り――優人たちは呼吸を止めてしまった。


 刃に突き刺さっているのは、頭部だ。


 染め上げた短い金髪は雑草の緑のなかで映えていたが、べっとりと張り付いた赤によって所々が塗りつぶされてしまっている。刃は下顎を砕き割り、頬の上へと貫通していた。


 草刈り機の操縦者も、ようやくすべてを理解する。今、この場で何が起こったのかを悟ったことで、彼の呼吸が不規則に加速を始めた。


 生臭い香りが一帯を包んでいた。草刈り機の刃に巻き込まれ、ばらばらに分解された生物の肉体が、内に蓄えていた生暖かい香りを容赦なくばらまき、土手一帯を侵食する。雨上がりの湿っぽい空気を染め上げていた青草の香りが、そのおぞましい悪臭に瞬く間に上書きされていってしまう。


 切り刻まれ、飛び散った肉体の正体を、優人と川嶋は知っている。刃の先端に突き刺さり、こちらを無表情で見つめる〝彼〟の頭部に見覚えがあった。


 草刈り機に乗っていた村人の男が、絶叫した。


 血にまみれた惨状を前に、優人と川嶋も微動だにせず、おびただしい汗を浮かべて立ち尽くす。


 強い風が一度、吹き抜けた。刃の先端に刺さっていたそれ――戸倉清二の割れた頭がわずかに傾き、目玉が零れ落ちる。


 死してなお、彼は大きな口を目いっぱいに広げ、うろたえる優人らを見て笑っているかのようであった。

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