第7話

 民泊での生活は実に快適だったが、やはりそれは優人にとって忌まわしき〝あの日〟を思い出すきっかけになってしまう。


 素朴で旨い料理、静かで落ち着く空間、混じりっ気のない熱さが心地良い風呂、そしてなにより管理人・湯本の懇切丁寧な接客。どれもこれも宿としては一級品ではあるのだが、それらの要素は優人のなかにかつて失った恋人の影を想起させ、縛り付けようとする。


 朝食を終え、部屋に帰って一服している間も、どこか室内の空気が淀んでいるように錯覚した。優人は窓際に腰かけたまま、また活動を開始しようとしている村の様子を、どこか敵意を孕んだ眼差しで観察する。


 川嶋は時折、優人に他愛のない言葉を投げかけはしたが、会話が弾むことはない。彼もどこか諦めたように持ってきたノートパソコンを操作し、色々と作業をして時間を潰した。


 しばらくして、不意に優人が立ち上がる。川嶋が「行くかい?」と短く問うと、優人はサングラスをかけながら無言でうなずいた。


 理解はしていたが、どこまでいってものんびりとした田舎観光という空気にはなりそうもない。二人は言葉数少ないまま予定通りに作戦室を後にし、目的地へと向かう。


 昨日、一騒動があった民家はちょうど民泊の裏手に位置しており、徒歩でも5分足らずで辿り着くことができた。今となっては野次馬は一人もおらず、民家の周囲は閑散としている。


 玄関の前まで近付くが、どうにも人の気配がない。二人はしばし玄関の硝子戸を見つめたまま、立ち尽くしてしまう。


「それにしても、例の奥さん――本当に話してくれるだろうか?」

「さあな。けれど、あの〝鐘〟についての目ぼしい手がかりは、ここしかないんだ。なにがなんでも、聞き出してみせるさ」


 力強く、どこか凶暴さすら秘めた一言の後、優人は躊躇することなくチャイムを鳴らす。古めかしい電子音が何度か家の中にこだまするが、やはり誰かが動き出す様子はない。


 留守なのか、あるいは――諦めることなく二度、三度と優人はチャイムを鳴らしていく。四度目を鳴らそうかと手をかざしたところで、ようやく奥からどたどたという乱雑な足音が響いた。


 硝子戸がわずかに開き、そこから見覚えのある顔が覗く。優人と川嶋は思わず反射的に頭を下げたが、中から現れた女性は実に分かりやすい不信感をあらわにしながら、首を傾げた。


「どちらさまでしょうか?」


 端的な一言のなかに、重く、淀んだ感情が滲み出ている。あまり眠れていないのか、彼女の目の下には〝くま〟がはっきりと浮かんでいた。ただでさえ細身な体は、精魂が抜け出たせいかひどく華奢に映る。


 姿を現した彼女に、手はず通り川嶋はこれでもかと笑顔を浮かべた。


「どうも。我々、つい先日、この村にやってきたものなんです。色々と取材をしている最中でして――もしよろしければ、いくつかお話をお聞かせ願えないでしょうか?」

「取材……あなたたち、記者かなにか?」

「ええまぁ、そんなところです。売れない娯楽記事のライターでして」


 川嶋は少しでも場の空気を和らげるため自虐交じりの言葉を返すが、あいにく、あまり効果はなさそうだ。なおも彼女はいぶかし気なまなざしで、二人の顔を交互に確認している。


「すみません。今、手が離せないので」

「あ……いえ、お時間はとらせませんので! もしよければ、ここで質問させていただくだけでも――」

「結構です。それに私、なにもお話しできるようなことなんて、ありませんから」


 それは明らかな拒絶の一言だった。川嶋の奮闘むなしく彼女は視線をそらし、硝子戸を無理矢理に閉じようとしてしまう。


 川嶋が「ああっ」とうろたえるなか、すかさず切り込んだのは優人だった。


「旦那さんが亡くなったのは、あの〝鐘〟のせいですか?」


 あまりにも率直な一言に、川嶋は目を丸くして隣に立つ友を見つめてしまう。そして彼同様、硝子戸の向こうにいる女性も息をのみ、再び視線を持ち上げていた。


 先程以上に凶暴な敵意を乗せた眼差しが、真っ向から優人を叩く。しかし、優人は決して動じることなく、サングラスを外してみせた。


 彼女とは対照的に、優人の表情に険しさはない。それどころか、これまで川嶋にも見せなかったような、柔らかで、どこか哀愁すらただよう弱弱しい眼差しが浮かんでいる。


「俺もなんです。俺も昔――大事な人を、〝鐘〟で失いました」

「――え?」


 ようやく、女性の顔から険が消える。どこか唖然としてまま、彼女はこちらを見つめる優人の顔を真正面からとらえていた。


 優人にとっては賭けの一手であった。この集落にとって、二人はどこまでいっても部外者でしかなく、どんな口八丁を使いこなしたところで警戒されるのが関の山だろう。


 だからこそ、優人は自身が持ち合わせている唯一の共通点を武器にするしかなかったのだ。かつて、恋人を失ったという悲痛な記憶から目を背けることなく、その過去を持って、同じ境遇の彼女と向き合おうと思ったのである。


「お願いします。どうか、話を聞かせてくれませんか。俺は――俺にとって大切だった〝彼女〟が、死んだ理由を知りたいんです」


 目の前に立つ女性にとって、優人らはやはり素性の知れない余所者でしかない。だからこそ、その言葉を受けてもなお彼女はうろたえ、視線を泳がせながら迷っているようだった。


 優人はそれ以上何も言わず、川嶋も黙したまま彼女の答えを待つ。遠くから響く蝉の声が、なぜかひどく煩わしく感じてしまった。


 夏の日差しが、玄関先に立つ二人の体をじりじりと焼く。昼へ向かおうと昇りゆく太陽が、今日も変わらぬ顔で山間の集落を照らしていた。


 一分か、あるいは数分か。たっぷりと時間をかけた後、ようやく女性は決意を固める。硝子戸を開き切ったことで、ノースリーブシャツにジーンズを合わせた彼女の全身像がようやくあらわになった。


 少し驚いてしまう二人を前に、彼女はなおも力ない声色で「どうぞ」と告げる。まだどこかこちらを信用しきってはいないのだろうが、それでもわずかばかり心を開いてくれたようだ。


 このチャンスを逃すわけにはいかない。二人は会釈をした後、彼女に続いて玄関をくぐる。


 二階建ての家屋は部屋数は多かったが、そのほとんどが使っていないようで、畳の上にうっすらとほこりが積もっていた。空虚な室内を横目に確認しつつ、優人らは応接間へと案内される。


 家が広大であればあるほどに、そこから失われてしまったものの大きさが如実に伝わってくる。言葉にこそしなかったが、優人たちは仄暗い室内の空気に眉をひそめてしまう。


 突然の訪問であったにも関わらず、女性は人数分の熱い緑茶を淹れてくれた。年齢こそ優人らより若そうだが、ちょっとした所作から育ちの良さがうかがえる。


 座布団の上に腰を落ち着け、立ち上る湯気を前に、テーブルを挟んで三人は対峙した。茶を堪能するわけでもなく、かといってくだらない世間話で時間を浪費するわけでもない。


 素早く、迅速に優人は本題に入った。


「昨日、亡くなられたのは、あなたの旦那さんですよね? 失礼ながら、俺たちも野次馬のなかから様子をうかがっていたんです」


 彼女はうつむき、しばらくは黙っていた。しかし、数拍を置いた後にこくりと力なく頷く。


「ええ……私の夫です。昨日、あの〝鐘〟の音の後――2階の自室で倒れているのを、私が見つけました」


 分かってはいたが、改めて聞くとその事実に戦慄せざるをえない。優人と川嶋は一瞬、ちらりと互いの顔を見つめたが、再び視線を目の前の彼女に戻し、慎重に聞き込みを続けていった。


 どこかたどたどしい問答ではあったが、それでも彼女――佐久間曜子は優人らの言葉に、しっかりと、緩やかに応対してくれた。


 話を聞くと、曜子と彼の夫である佐久間一茂がこの村にやってきたのは、おおよそ5年前のことらしい。村のなかではかなりの若手である二人だが、ようやく村での暮らしも板につき始めてきた矢先の出来事だったそうだ。


「この村に住もうって提案してきたのは、夫だったんです。正直、私は不便じゃあないかって思ってたこともあったんですが、都会に住んでいた頃とは別の生き方を、なんとか二人で模索しながらやってきていたんです」

「都会とは違う――では、お二人は元々、もっと都心のほうに住んでいたんですか? それがまた、なんでこの村に?」


 そこで一度、曜子は言い澱んだ。だが、川嶋が眼鏡を直し「ふむ」と微かにうなずく。あぐらをかいて座る優人に対し、彼は正座し背筋を伸ばしていた。


「旦那さんのお名前、一茂さんとおっしゃいましたよね。佐久間一茂――もしかして、お二人は『佐久間製薬』の関係の方々では?」


 いまいち聞き慣れない名前だったが、その一言で明らかに曜子は動揺を見せた。彼女は目をかっと見開き、川嶋を睨みつけている。


 しかし、「慌てないで」と言わんばかりに川嶋は手を掲げ、彼女に待ったをかけた。


「落ち着いてください。なにも我々は、あなた方の足取りを探ってきた人間ではないんです。お二人の居場所をリークしたりなんてしませんよ」


 川嶋の言葉を受けてもなお、曜子はしばし困惑していた。だが、彼女以上に話の概要が見えてこない優人は、少し声のトーンを押さえて問いかけてしまう。


「なあ。なんだよその、『佐久間製薬』って」

「君、ニュースとか見なさそうだものなぁ。数年前、有名になったのを知らないのかい? 大手製薬会社の御曹司が、忽然と姿を消したっていう話」


 事態が呑み込めない優人に対し、川嶋は手早く説明してくれる。


 『佐久間製薬』といえば株式上場もしている大手製薬会社で、優人も無意識に会社の商品を使っていたこともある。数十年前から日本では有数の製薬会社として活躍してきた大企業だが、数年前、あまりにも意外な形でこの社名がメディアに取り上げられることとなった。


「『佐久間製薬』の現会長・佐久間勇一郎には三人のご子息がいたんだけど、その三男が数年前、行方不明になったのさ。その頃、企業の跡目を誰に継がせるかで揺れていた矢先、三男の失踪はかなり大きなニュースとして取り上げられたんだよ」

「へえ。ってことは、今回亡くなった佐久間一茂さんってのが、その三男――つまり、大企業の御曹司だっていうのか?」


 勝手に話を進めてしまった二人を前に、気が付いた時には対面に座る曜子が「ええ」と頷いていた。二人ははっとして視線を戻すが、彼女は目を細め、じいとこちらを見つめている。


「おっしゃる通りです。私の夫・一茂は、『佐久間製薬』の後継者候補として名が挙がっていた人物です。長男と次男が彼に跡目を譲ろうとしていたので、もしかしたら一茂が企業を継いでいた未来もあったのかもしれませんね」


 なんだか、話のスケールがとんでもないことになってきた。優人は思わずあぐらを組みなおし、気持ちを引き締める。


「まさか、そんな背景があったとは。けれど、大企業の跡取りとして成功を約束された彼が、なんでまたこんな村に――」


 言いながら、優人もその発言がどこかまずかったことを理解してしまう。曜子は激昂こそしなかったが、それでもどこかじっとりとした眼差しを優人に向けていた。


「成功――世間的にはそう見えるでしょうね。けれど彼はずっと、そんな未来を望んでなどいなかった。彼も私も、ただ人並みの生活ができれば、それでよかったんです。だから二人で決めて、そして――逃げたんですよ」


 覚悟を固めていたつもりが、彼女の口から語られる規格外の事実に、ただただ二人は打ちのめされてしまう。話をリードしたかったが、気が付けばつらつらと語られる曜子の言葉に、黙って耳を傾けるほかなかった。


 元々、曜子は都内の一般的な企業に勤めるOLだったのだが、偶然、夜の街で酔いつぶれ、倒れていた一茂を介抱したことが二人が親密になるきっかけとなったようだ。彼が大企業経営者の跡取り息子だという事実には曜子自身も驚いたのだが、一方で一茂はその経歴をどこか恨めしく、憎悪すら交えて語っていたという。


「夫にとって大手企業を経営する自身の親は、憎むべき敵のようなものでした。自分の生き方を決め、あらゆることを強制してきた忌むべき存在だったんです。一茂は普段、優しくおおらかな人間でしたが、こと一族の話になると怖いくらいに凶暴な顔を覗かせました」

「なるほど。なかなか俺たちみたいな、庶民とはかけ離れた悩みですね。世の中からすればその生まれが羨ましく見えますが、彼にとってはレールを敷かれる人生に嫌気がさしていた、と」

「ええ。そのうえで、兄たちが跡目を譲ろうとしていることが、ただただ夫にとっては苦痛だったようです。このままでは自身の未来が――死ぬまでの一生が、大嫌いな企業というもののために浪費されてしまう。そう、彼は常に悩み、追い詰められていました。私はそんな彼を、どうにか救ってあげたかった。支えになりたかったんです。だから――」


 二人は〝駆け落ち〟したのだ――すべてを捨て、世間からその行方をくらましたのである。


 親族という〝呪い〟を断ち切り、二人だけの人生を歩むため。一茂と曜子が、真に望む〝生〟を謳歌するために。


「本当にうまくいくのかという不安は常にありました。事実、最初の数年はあちらこちらへと住居を変え、足がつきそうになれば各地を転々として行方をくらましたんです。ひどく疲弊はしましたが、それでも私たちは互いを信頼し、愛しあっていました。その気持ちだけで、気が付けばここ――『幸人村』へとたどり着いていたんです」


 ようやく優人らにも、この若い夫婦がなぜこのような僻地に身を落ち着かせているのか、得心がいった。だがここで、曜子は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、歯を食いしばる。


「不便でしたけど、それでもここは私たちにとっての安住の地だったんです。だからきっと、静かに暮らしていれば幸せな日々が待っている。そう信じて、毎日を謳歌していました。なのに……なのに――!」


 昨晩の出来事が脳裏に蘇ってしまったのだろう。曜子の目尻にじわりと熱い雫があふれ出し、机の上に落ちて弾ける。彼女はうつむき、「ごめんなさい」と謝りながらしばらく、声を押し殺して泣いた。


 優人と川嶋は、泣き崩れた彼女を見つめるほかなかった。しかし、黙してこそいるが、二人はその脳裏で彼女から聞き取った様々な過去を繋げていく。


 誰かに押し付けられた〝幸せ〟を捨て、二人は自分たちだけの〝幸せ〟を作り上げるために、この村を選んだ。だが結果的に、その村のなかで夫は命を落とし、思い描いていた幸福な未来は霧散してしまったのである。


 優人はここでようやく、目の前の湯呑を手に取った。まだしっかりとした熱さの残る緑茶をすすり、肉体と精神を研ぎ澄ます。


(うろたえている場合などではない)


 目の前で打ちひしがれる彼女には気の毒ではあるが、思い出話を聞くためにこうしてやってきたわけではないのだ。


「昨日あなたは、駐在に向かって叫んでいましたよね。確かその中に、『話と違う』という言葉があったはずです。一体全体、その〝話〟というのはなんなんでしょう?」


 大きく、無遠慮に、そして明確に優人は一歩を切り込んだ。なおも曜子は泣きじゃくっていたが、優人は力強い眼差しを持って彼女の出方を待ち続ける。


 夫の死にうろたえるというのは、良く分かる。突然の不幸に取り乱し、泣き叫ぶのも人として当然の反応だ。


 だがそれでもなお、彼女が放ったあの叫びだけは異質極まりない。


 彼女は明らかに知っているのだ。この『幸人村』の住人でしか知り得ない、〝なにか〟を。


 川嶋も緊張した面持ちのまま、優人の横顔とうつむいたままの曜子を交互に見つめていた。だがやがて溢れ出た涙をぬぐい、再び曜子が語り始める。


「この村に来た時、住人たちは私たちを温かく迎えてくれました。皆、親切で、明るくて――けれどこの村に住む以上、昔からの風習には従ってもらう――それだけは、強く念を押さえていたんです」


 風習――その一言に二人が戦慄するなか、やっと曜子は顔を持ち上げる。赤く染まり、涙でぐしゃぐしゃに汚れてもなお、彼女はしっかりとこちらを見つめてくれた。


「この村で決して、〝清らかさ〟を失ってはいけない――〝汚い心〟を抱いた人は皆――〝幸人様〟に連れていかれる、って」


 彼女の一言で、明らかに部屋の空気が色を変えた。縁側からは変わらず昼下がりの光が差し込んでいたが、それが生み出す影の濃さがぐっと深く、重いものに変わった気がする。


 吹き込んだ風が、風鈴を「ちりん」と軽快に鳴らした。その甲高い音色すら優人と川嶋の心を妙にざわつかせ、翻弄してしまう。


 幸人――かつてこの村にやってきた一人の僧侶の名が、二人の意識を覚醒させていく。


「それは一体、どういう意味なんでしょう? つまり、あなたの夫が亡くなったのは――〝幸人〟が連れていってしまったから、ということですか」


 周囲の大気がひどく重い。たった一言を吐き出すのに、今まで以上に体力と気力を振り絞る必要があった。それは曜子も同様のようで、彼女もまたか細い体を震わせ、思考を巡らせながら事実を告げる。


「私は最初、迷信だと思っていたんです。そんなわけがないと。あくまでそれは、この村の人々が心を穏やかにするために守っていた、ただの言い伝えだと思っていたんです。けれど、この村に長らく住めば住むほどに、それが言い伝えなどではないと理解できました」

「ちょっと待ってください。じゃあ、本当にその〝幸人〟ってのが、誰かの命を奪っているっていうんですか?」

「私にもはっきりは分かりません。ただ、それでも必ず――人が亡くなる前には、あの〝鐘〟が鳴るんです」


 ついに辿り着いたその言葉に、優人らは互いの顔を見合わせてしまう。川嶋は明確にうろたえていたが、優人の鋭い眼差しに気を引き締め、前を向きなおした。


「つまり、こういうことですか? この村では、誰かが〝清らかさ〟を失うと、〝鐘〟が鳴る。そしてその人は、命を失ってしまう――と」


 川嶋自身、口にしながらも心のなかで「馬鹿げている」と失笑してしまった。これまで多くの歴史に触れてきた彼だが、曜子の語った事実はいわゆる古来から伝わる呪術のような、オカルトめいた内容に思える。


 どこか川嶋は乾いた笑みを浮かべてしまったが、なおも語る曜子のその圧に真顔に戻ってしまう。こちらを見つめる彼女のその表情から、冗談めいたものはまるで感じ取れない。


 彼女は間違いなく――真実を語っている。


「自分でも馬鹿げているって思っています。そもそも、夫が汚い心なんて持っているはずがない。あれから何度も、何度もそう自問自答し続けました。けれど――」


 一瞬、曜子は言葉に詰まる。か細い体を震わせながら、痛いほどに拳を握りしめ、思いを絞り出していく。


「あの日たしかに、〝鐘〟が鳴った。今までだってそうやって、何人もの人間が亡くなっているのを見ているんです。ならば夫は――なにか、それだけの〝理由〟を持っていたんじゃあないか。そんなことを考える自分自身が、ひどく恐ろしくてしかたないんです」


 彼女は耐えようとしたが、もはや溢れ出る悲しい雫を留めることはできなかった。流れ落ちた涙が、一つ、また一つと膝の上で弾け、濡らしていく。


「村の人たちが言うように――まっとうに生きていれば、夫は死なずに済んだんでしょうか? そんなにあの人は――〝悪い人間〟だったっていうんでしょうか?」


 曜子自身、それを目の前の二人に問うても、意味がないのだと分かってはいたのだろう。だが、すべてを失ってしまった彼女にとってはそうすることでしか、壊れそうになる自身の心を繋ぎとめることができなかったのかもしれない。


 泣き崩れる彼女の姿を見て、優人たちは確信してしまう。なぜ、彼女が優人らを招き入れてくれたのか。なぜ、見ず知らずの二人に、ここまですべてを明かしてくれたのか。


 それはやはり、彼女が夫を――佐久間一茂を心から、愛していたからだろう。誰かに恋い焦がれ、寄り添い、最後は〝鐘〟の音と共に失った人間だったからこそ、同じ境遇である優人を本能から信じようと決めたのかもしれない。


 そんな彼女の真意に、まるで自分たちが応えられないことが歯がゆい。彼女が失ってしまったものを埋められるほど、優人たちは分厚く、重みのある人生を歩んできたわけではない。


 そばにいたはずの誰かを失い打ちひしがれる彼女の姿に、かつての自分が重なった。優人は弱弱しく震える曜子を見つめたまま、どうしてもあの日の〝彼女〟を思い返してしまう。


 優人は真名のあの笑顔を、数年経った今でも確かに覚えている。きっと目の前の曜子もこれからずっと、夫の快活な笑顔や力強い言葉、そして死んだ瞬間のその情景を引きずりながら、歩んでいかなければならないのだろう。


 人生が安易に終わることなど、決してない。どれだけ堕ちたとしても、残されたものの生は変わることなく続いていく。


 それはときにして、ひどく残酷なことなのだと考えてしまう。優人も同じく、真名という欠けたものを心に抱え込んだまま、それでも今日まで歩き続ける他なかったのだ。


 それを知っているからこそ、目の前で打ちひしがれる彼女に安易な言葉を投げかけることができない。優人たちはただ押し黙ったまま、涙を流す彼女のか細い姿を見つめるしかなかった。


 風鈴がまた一つ、甲高い音色を弾ませる。夏の風物詩であるそれが、この時ばかりはことさら無慈悲で、残酷なさえずりに聞こえてならなかった。

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