第5話
「『幸人村』の由来――ですかぁ?」
恰幅の良い男性は相も変わらず、大げさな身振りと共に声を上げた。川嶋が「ええ」とうなずくと、彼は大きな体を揺らしながら「どこだったっけなぁ」とまた新たな書物を探しにいってしまう。
優人らは椅子に座ったまま、しばし本棚の間を行き来する男を観察していた。村唯一の公民館はわりと大きな建物ではあったが、今は訪問者である優人らと職員の男性しかいない。閑散とした館内は照明が弱いせいか薄暗く、外の日差しが殊更、まぶしく田舎の風景を照らし出している。
すでに机の上にはいくつかの資料が並べられていたのだが、男がまた一つ、分厚い背表紙の一冊を持ってきてそこに加えた。少しかび臭さが鼻を突いたが、職員はまるで躊躇することなくそれをめくっていく。
「ええと、たしか……そうそう、これこれ。ここですな。この村の名にまつわる出来事が、しっかりと記録されております」
男は太い指を、古びた紙面にとんとんと遠慮なく突き立てる。なんとも乱暴な取り扱いではあったが、優人と川嶋はとにかく彼が指し示した資料の内容に目を通した。
しばし、書かれていた内容を目で追っていたのだが、先に口を開いたのは川嶋であった。
「『村、飢饉ニ喘ギ、混迷極マリシ折、遠方ヨリ〝幸人〟来タレリ』――なかなか古い文章ですね。これは、いつ頃の出来事なんでしょうか?」
「私も歴史学者ではないので詳しいことはどうにも。ただ見る限りでは、この村が〝幸人〟の名を冠したのは、江戸時代末期の頃だったようです。ここに書かれている通り、飢饉が村を襲った矢先、とある一人の〝僧侶〟がこの地を訪れたんですな」
職員の男はようやく椅子にドカリと座り、ふうふう言いながらハンカチで汗をぬぐっている。カッターシャツは少しサイズが小さいのか、その下に格納された肉が今にもはちきれそうだ。
優人もサングラス越しに男を見つめ、その所作を観察しつつも問いかけていく。
「僧侶……つまり、お坊さんってことですか?」
「ええ。出自には色々と謎な部分があるようですが、どうやら自身が学んだ教えを広めるため、大陸から海を渡って日本にやってきたようですな」
「わざわざ海を渡って、か。当時のことを考えると、すごい執念ですね。けれどなぜ、その僧侶が〝幸人〟なんて呼ばれていたんでしょうか。わざわざ村の名前にまでしてしまうということは、よほどの事をしたんでしょうね」
優人の勢いにもひるむことなく、職員は「ええ、ええ」と頷きながら、額の汗をぬぐう。
「この資料にもあるように、当時はこの地も飢饉をはじめ、様々な不幸に見舞われていたんですな。元々、山に囲まれ切り離された土地でしたから、ときには野党や反幕府軍の残党なんかが逃げ込んでくることもあったとか。元々、ここに住んでいた人々からすれば、たまったもんじゃあないわけです」
「当時から、ここは隔絶された場所だったというわけですね」
「ええ。そこにやってきた一人の僧侶――なんでも名を浄優というらしいですが――彼がこの地にはびこっていた不幸を払い、幸をもたらしたことで人々は救われたんだとか」
資料に目を通していた川嶋は得心がいったように深く頷き、口の端に笑みを浮かべた。
「なるほど、だから〝幸人〟なんですね。僧侶・浄優によって救われた当時の人々が、その後発展した村に彼の名からあやかった名前を付けた――と」
「ご察しのとおりですな。浄優がこの地の邪気を祓ったことで、様々な災厄が消え去ったようです。飢餓、飢饉、略奪、疫病――彼はそれらを排除し、この地を救った、今風に言えば〝ヒーロー〟だったわけです」
優人は男の弾んだ声に耳を傾けながら、かつてこの地を訪れた僧侶・浄優という男について考える。
邪気を祓い、幸をもたらした――いささかスピリチュアルで胡散臭い話にも聞こえるが、こうして資料として記されている以上、それは事実なのだろう。
世間から隔絶され地からは様々な〝災厄〟が消え去り、今まで以上に人々がかの地に集まり始めた。僧侶は幸福をもたらした英雄――〝幸人〟として崇め奉られ、やがてそこに形成された社会共同体にまで名を冠することとなったわけだ。
「浄優は元々、各地を行脚し教えを説いてきたのですが、この村を救ったことがきっかけとなり、以降は〝幸人〟としてこの地に留まったようです。今でも彼が村人に授けた様々な教えは、この地に残っているのですよ」
川嶋はどこか意気揚々と語る職員を前に「ほお」と良いリアクションを返すが、一方で優人は目の前に広げられた資料を食い入るように見つめた。
旧字体で書かれている部分も多分にありすべてを解読することは困難だったが、とあるキーワードを探し、ひたすらに目を走らせる。
優人はページをいくつかめくった後、探し求めていたある短い単語を発見し、素早く指差した。
「この〝鐘〟っていうのは、なんなんでしょうか? 『〝幸人〟、ソノ手ニ〝鐘〟ヲ携エ、夜行ヲ敢行ス――』とありますけど」
鐘――その単語に川嶋が鋭く反応する。優人も言いながら素早く職員を観察したが、彼はあくまで朗らかに「ああ」と頷くのみだった。
「どうやら、浄優の流派に伝わる重要な道具だったようですなぁ。彼は杖に小さな〝鐘〟を括り付け、それを鳴らしながら夜中の村を回っていたようです。そうして土地に根付いた邪気を祓っていたんでしょう」
おおよその予想通り、村の由来となった人物――〝幸人〟こと僧侶・浄優と〝鐘〟というキーワードは密接に結びついていたようだ。彼は各地を行脚するその傍らに、いつも〝鐘〟を携えていたのだという。
明確な当たりに少しだけ浮足立った二人だったが、結果的にはそれ以上の目ぼしい収穫はなかった。優人と川嶋、二人共が巧みに連携しながらより明確な答えを探し切り込んでいくのだが、あいにく、資料に記載されているのは当たり障りのない過去の歴史のみで、核心的な部分にはたどり着くことができない。
先程も告げられた通り、職員の男性もあくまでこの公民館と資料を管理しているだけにすぎないため、それ以上の踏み込んだ内容についてはさっぱりのようだ。
何とか粘ってはみたものの、結果的に二人は1時間足らずで捜査を諦め、公民館を後にすることとなった。
二人は昼下がりの村を歩きながら、先程知り得た過去の出来事について思考を巡らせていく。あぜ道の脇を飛ぶモンシロチョウの群れを眺めながら、川嶋が「ふむ」とまたため息をついた。
「良い歴史の勉強にはなったけど、なんとも決定打に欠ける話だったね。〝鐘〟が登場したときは素直に『おっ』と思ったけど、なんだか思ったよりもインパクトに欠ける内容じゃあないか」
歩きながら一人の農夫とすれ違ったが、やはり二人の余所者を相手にも満面の笑みを浮かべ、痛快な挨拶を交わしてくれた。川嶋が「どうも」と笑い返すなか、あくまで優人はサングラス越しに村人を睨みつけてしまう。
農夫が立ち去ったのを確認し、ようやく優人も口を開いた。
「普段から歴史学者をやってるお前にとって、どう思う? この村の過去――〝幸人〟って呼ばれた坊さんの話は」
「どうもこうも、そういう歴史があるというなら、そうなんだろうさ。当時は海外の人間も日本になだれ込んでいたから、渡来品をはじめ、様々な宗教もこちらにやってきていたんだよ。だから、浄優ってお坊さんがいたというのも、特におかしなことではない気がするんだ」
「そうか……けれど、その浄優ってのは確かに〝鐘〟を持っていた。そいつはこの村に腰を据えて、色々な教えを残していたというじゃあないか。なら〝鐘〟ってのも、この村に受け継がれていたりするもんなんだろうか?」
「その可能性は高いと思うよ。ただ、もし〝鐘〟が後世に受け継がれていたとして、どうにもさっき聞いた話と今回の一件が、結びつかない気がするんだよね」
歩くペースを変えず、二人はなおも議論を交わしていく。周囲で誰かが聞き耳を立てていないか時折警戒はしていたが、そもそも外を出歩いている村人自体が希少なため、はっきりとしたトーンで喋ることができた。
「結びつかない……つまり、真名の死とその〝鐘〟は関係ないってことか?」
「もちろん、まだ推測の域を出ないんだけどね。けれどさっき聞いた話だと、浄優っていうのはこの村から不幸を祓った、いわば聖人みたいな存在なんだろう? その〝鐘〟だって、村から邪気を取り除くために、夜な夜な鳴らしていたものだったわけさ」
どうにもこういった歴史や宗教といった概念が絡むと、優人は思考が麻痺してしまう嫌いがある。ここは素直に、隣を歩く川嶋の言葉に耳を傾けた。
「つまりだ。浄優が持ってきた〝鐘〟っていうのは、悪いものを遠ざけて、人々を〝幸福〟にするアイテムとして後世に語り継がれてるんだよ。もし、君が聞いた〝鐘〟の音が同じものだったとして、それで真名さんが死ぬ意味が分からないだろう?」
「なるほどな……真名が死んだことで、むしろ俺は〝不幸〟になってしまったんだ。そもそも、浄優って坊さんがやろうとしていたことと、真逆になっているわけだ」
思考を整理する優人に、川嶋は「そうそう」と困ったような笑みを浮かべた。彼は視線をすぐ脇に流れる小川に向け、肩の力を抜く。ちょろちょろと音を立てて流れる水はただ穏やかで、川底がはっきりと見えるほどに澄み切っていた。
「それに、そもそも〝鐘〟が鳴っただけで人は死なないさ。その浄優ってお坊さんだって、あくまで一種の儀式として〝鐘〟を鳴らしていたにすぎないんだよ。おそらく、彼は彼なりにこの土地の問題を解決し、それが結果的に邪気を祓ったなんていう形に伝わったんだろうさ」
「あくまで〝幸人〟っていうのは村の困りごとを解決してくれた、ただの親切な人間だった――ってことか。なんだかそう考えると、さっきの資料ってのは随分と都合が良く解釈されているな」
「まぁ、往々にして歴史っていうのはそういうものだよ。そこで起こったことがなんであれ、後はそれを後世にどう伝えてしまうか――今を生きる人間にとって、過去のそれが真実かどうかなんて、分かるわけないからね。ようは言った者勝ちって部分も強いんだよ。親切な人間だって、伝え方一つで〝鐘〟の力を使いこなす超能力者になれるわけさ」
おどけて笑う彼を見ていると、優人までも力が抜けてしまった。川嶋のそれは随分とドライな考え方に思えたが、普段から歴史というものに対峙する機会が多い彼だからこその機微なのだろう。
あれこれと議論を交わした結果、自分たちが今いる『幸人村』という場所の背景については、随分と見えてきた部分がある。だが一方で、肝心の点――真名の死にまつわる何かが分かったかといえば、それは否だ。
得た情報は多かったが、途方に暮れているという状況には変わりがない。二人は村を歩きながらあれこれと意見をぶつけ合うが、やはりどうにも前に進んでいるというイメージがわいてこなかった。
議論が煮詰まりつつあるなかで、優人はふと目に飛び込んできた奇妙な光景に足を止めてしまう。
「どうしたんだい、優人?」
「おい――なんだ、あれは?」
川嶋も立ち止まり、優人が見つめる先に視線を向けた。
東の山の麓に位置する広場に、なぜか無数の丸太が突き刺さっているのが見える。遠目には〝かかし〟かなにかかと思っていたのだが、見る限りどうも農耕地ですらないようだ。
二人は多くを語らず、視線を交わらせることで示し合わす。迷うことなく、その奇妙な広場へと足を向けた。
近付くとそこが殊更、異様な空気に包まれていることがよく分かった。円形の広場には等間隔にいくつもの丸太が突き立てられており、わずかだがその下の地面が盛り上がっている。丸太の表面にはなにやら旧字体で記された〝札〟のような紙が貼りつけられていた。
浮世離れした光景もさることながら、二人は同時にある違和感に気付く。サングラス奥の眼を細めながら、思わず優人は顔をしかめてしまった。
「なんだ……この臭いは」
吹き付ける熱い風に混ざるように、時折、なにかが腐ったような不快な香りが滑り込んでくる。川嶋は「うっ」と怯み、たまらず鼻を押さえてしまった。
優人もたじろいでしまいそうになったが、耐えながらも周囲を注意深く観察する。そしてすぐに、広場の脇に建てられた簡易的な小屋を発見した。
木材を無理矢理、組み合わせて作ったような、どちらかといえば納屋にも近い簡素な建物である。どうやらこの悪臭は、その小屋から香っているらしい。
まるで躊躇することなく、気が付けば優人はその方向へと歩きだしていた。背後の川嶋が呼ぶ声が聞こえたが、まるで意に介さず一気に小屋との距離を詰める。
間違いない――一歩を踏み出すごとに、悪臭の濃度はぐんと増していく。開け放たれた小屋の入り口に立ち、ゆっくりと、慎重にその内部を覗き込んだ。
泥で汚れたスコップや、錆びが目立つバケツなどが並んでいる。だがなにより優人が注目してしまったのは、その小屋の中央に置かれた木製の机だった。
その上に、〝なにか〟が横たわっている。
毛布で隠されており中身は見えないが、明らかにこの強烈な異臭はその机の上――毛布の下のなにかから発せられていた。
背後の川嶋も追いつき、優人の名を呼んだ。だが、彼がどれだけ声をかけようとも、優人の目はすぐ眼前に横たわっている〝それ〟に釘付けになってしまう。
濃く、どんよりと停滞した腐敗臭のそのなかで、優人は確かに見てしまった。
毛布でくるまれ、机の上に放置されたそれの周囲を、何匹かの〝蠅〟が飛んでいることを。
(あれは……まさか――)
一歩、優人が足を前に出そうとしたが、背後から投げかけられた一言がそれを制する。
「――お前ら、なにしてる」
優人、そして川嶋は同時に振り返る。いつの間にか二人のすぐ背後に、一人の男が立っていた。
その風体は、これまで出会ってきた村人たちのそれとは、明らかに異質であった。男は泥にまみれた農作業着に身を包んでいるが、その上にぼろのようなズタズタの毛布を巻き付けている。
口元は隠れており、ざんばらになった白髪交じりの長い髪と、ぎょろりとむき出しになった眼が見えた。肌にはかすかにしわが見えたが、まだ張りも残されており、年齢でいえば40後半といったところだろう。
過去から今まで、優人はこの『幸人村』の人々と触れ合ってきた。村人たちは皆一様に笑顔を浮かべ、にこやかに、優しく接してくれたのだ。
だが、目の前に立つこの農作業着の男に、そんな柔らかな空気はまるでない。彼はその表情に友好的な色などまるで浮かべず、かっと見開いた双眸をこちらに向けていた。
明らかにそれは威嚇の眼差しである。不用意に小屋に近付こうとする二人を、怒りと不快感を持ってけん制しているのだ。
明確な敵意を向けられたことにひるんでしまったが、いち早く我に返った川嶋が頭を下げる。
「す、すみません! 僕らつい先日、この村にやってきたばかりでして。勝手に入ってしまい、申し訳ありませんでした」
男の眼がぐりりと動き、川嶋を睨む。視線を動かしただけだというのに、なぜか周囲を覆う大気そのものが流れを変えたように錯覚してしまった。
「余所者がこんなところに何の用だ? ここはお前らみたいなのが入っていい場所じゃあねえ。とっとと帰れ」
なんとも刺々しく、率直で、飾りっ気のない言葉だった。相手への気遣いや配慮といったものがまるでない、明確な拒絶の一言である。
その圧を受け川嶋が怯んでしまったが、ここぞとばかりに優人が打って出る。
今まで出会ってきた人間とはまるで異なった気配を纏うその男に、なぜか妙な可能性を感じてしまい、一か八か賭けてみることにしたのである。
「随分と歓迎してくれないんだな。他の村人とは大違いだ」
予想だにしない乱暴な物言いに、むしろ川嶋のほうが唖然としてしまった。だが、農作業着の男は怯むことなく、明確に優人を睨みつけてくる。優人もまた、サングラス越しにこれでもかと力を込め、叩きつけられる視線に応戦していく。
「余計なことをしない限りは、村にはいさせてやる。悪いことは言わねえ。おとなしくしてろ」
「俺たちはただ、この村の歴史が知りたいだけだよ。この土地の成り立ちとか、それこそ過去にいた〝幸人〟について、とかね?」
優人が口走った〝幸人〟というワードに、男は明確に反応を見せた。優人は両腕こそだらりとおろしていたが、すでに肉体を強張らせ、全身を緊張させている。
いつ、目の前のこの男が――笑み一つ浮かべない男性が、こちらに飛び掛かってくるか分からない。それほどまでに、目の前に立つ彼からは殺気立った気配を感じてしまう。
「〝幸人様〟がこの村を作られた――それだけだ。それ以上でも、それ以下でもねえ」
「それはもう、散々聞いたよ。だからもっと、深い情報が知りたいんだ。その〝幸人〟ってのはどんな人間だったのか。そいつが持っていた〝鐘〟は、どんなものだったのか――とかね」
また一つ、空気が熱を増した。もはや周囲に漂う悪臭など気にはならず、目の前の男がどう動くかという一点を二人は警戒し、身構え続ける。
ただ立っているだけなのに骨が軋み、肉がたわむことで節々が痛んだ。まるで肉食の獣を前にしているかのような凄まじい緊張感が、二人の頬に嫌な汗を伝わせる。
鬼が出るか蛇が出るか――瞬き一つせずに出方をうかがう二人に対し、男はわずかにため息を漏らしてみせた。
「俺は――この仕事が嫌いなんだ」
「――はっ?」
予想外の一言に、さしもの優人も緊張が緩んでしまう。川嶋も首をかしげるなか、男はなおも淡々と続けていく。
「仕事なんてもの、無きゃ無いでいいんだ。やらなくていいなら、これほど楽なことはねえ。そうだろう?」
「一体、なにを言って――」
「好きで仕事をしている人間なんてのは、嘘つきなだけだ。与えられた役割をこなすことに、小奇麗な理由が欲しい。だから、やりがいなんて言葉を適当にでっちあげてるんだよ」
どういう意図でそんな話をするのかが、まるで見えてこない。完全に虚を突かれる形となったが、それでも二人は注意深く男を観察し続けた。
「誰かに決められ、与えられた仕事なんざただの枷でしかねえ。俺は心底、この仕事が嫌いなんだよ。だからただ――余計な仕事を増やしてほしくねえ。それだけだ」
男の真意はまるで汲み取れない。彼が何に辟易し、何を後悔しているのか。その核となる部分が、彼の言葉のなかにはいまいち見えてこないのだ。
しかし、どうにも不穏なものを感じてしまう。
優人らが〝余計なこと〟をすれば、彼の〝仕事〟が増えてしまう――なんだかこの一連のやり取りに、そんなメッセージが込められているように感じてしまった。
〝余計なこと〟とは、なんだ。そして、彼がここで行っている〝仕事〟とは。
優人のなかで思考が加速していく。男を注視したまま、それでもこれまで目の当たりにした様々な要素を急速に組み合わせていった。
山の麓に位置する奇妙な広場。持ち上がった土の上に突き立てられた無数の柱。小屋の奥に置かれた強烈な臭いを発するなにか。そこで仕事を続ける威圧的な男。
この場所だけが、まるで『幸人村』というのどかな空間から隔絶されているように思う。同じ盆地のなかにありながら、この一角に漂う空気にはどこか仄暗い〝なにか〟が潜んでいるように感じてしまった。
うろたえる二人に構わず、男は小屋の奥へと歩みを進めていく。いまだに混乱したままではあるが、二人はせめてなにか問いかけねばと必死に言葉を探した。
男が壁際にかけられていたスコップを手に取り、優人が新たな問いのための一言目を絞り出す。
その刹那、村の大気が大きく震えた。
ごぅうん――突如、響き渡ったその重々しい音色に、優人と川嶋はもちろん、ついには農作業着の男までも目を見開き、振り返ってしまった。
たった一度、それっきりであった。重厚な音は緩やかに、大きく村全体を揺らし、肉体そのものを内側から鳴動させる。
突然の事態に川嶋が「あぁ」と情けない声を上げるなか、優人だけは目を見開き、微動だにせず前を向いていた。
あの時と同じだ――鳴り響いた音色も、音の大きさも、体を貫くこの感覚も、すべてあの日のそれと同じなのだ。
優人は呆然とする自身に、心のなかで喝を入れる。歯を食いしばり、必死に視線を走らせて周囲をうかがった。
やはりかつてと同様、村人たちは皆、それぞれの作業を止めて顔を持ち上げている。その視線は優人らが立つ背後――村の東側に位置する山を見上げていた。
優人も身をひるがえし、そびえたつ山を睨みつける。青々とした木々の隙間に、必死に〝それ〟の姿を探した。
間違いない。あの音色は――〝鐘〟の音は、この山の中から聞こえたのだ。
一拍遅れて、川嶋も我を取り戻す。視線を同様に山へと向けながら、彼は弱弱しく優人に問いかけた。
「ね、ねえ。今のって、まさか――」
「ああ、間違いない。俺が聞いたのと同じ――〝鐘〟の音だよ」
答えながら、なおも優人は音の出所を探す。
しかし、そんな二人の背後で、農作業着の男はどこかけだるそうに呟いた。
「あぁ、あぁ。面倒だ。本当に――面倒だ」
たまらず優人が振り返ると、男はスコップだけでなく、放置されていたバケツを担ぎ上げていた。彼のまなざしはやはり鋭かったが、瞳の中にどこか物悲しい色が浮かんでいる。
相も変わらず、その真意は分からない。優人らが混乱するなか、目の前の男は大きなため息をついてみせた。
「〝鐘〟が鳴った。だからまた一つ――仕事が増える」
そんな端的な言葉を残し、彼は黙々となにかの準備を続ける。二人を放っておいたまま自分の世界に入ってしまう男を前に、優人はそれ以上、問いかけることができなくなってしまった。
何もかもが、分からないことだらけだ。だがそれでも、優人だけでなく今度は川嶋までもが確かに体験したのだ。
あの日と同じく、たしかに〝鐘〟が鳴った。ならば、それが意味するものとは。
優人の目は準備を進める男ではなく、その隣――机の上に横たわる、毛布にくるまれた〝なにか〟へと向けられていた。
また一つ、毛布の下から黒々と輝く蠅が這い出てくる。
その奥底を想像しただけで、胃の中のものがぐるぐると渦巻き、激しいめまいが優人を襲った。
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