第4話

 辿り着いた場所から眺める風景は、やはり3年前のそれと何一つ変わっていない。周辺を小高い山に囲まれた盆地で、相変わらず村人たちはこれまで同様、緩やかな時の流れのなかで生きている。


 かつて、この景色を眺めたときとはまるで違う感覚が、優人の肉体を支配していた。どれだけ空気が澄んでいても、目に優しい原風景を眺めていても、体の奥底でうずくこの刺々しい感覚が消えることはない。


 優人はサングラスをかけ、目元を隠す。川嶋の後に続くように、以前と同様に鎮座する大きな民泊へと足を踏み入れた。


 時間通りにやってきた二人を迎え入れてくれた老人の姿に、優人は息をのんでしまう。うろたえないように努めてはいたが、どうしても目の前にいる彼の姿に全身がこわばった。


「ようこそ、おいでくださいました。川嶋様、ですよね?」


 頭を深々と下げた老人は、やはりあの時と変わらぬ笑顔を浮かべていた。白髪頭の下に年相応のしわをたっぷりと刻み、こちらに向けてにっこりと笑っている。


 先頭に立つ川嶋は、同様に笑みを浮かべて頭を下げた。優人もそれに続くが、あいにく、どうしても口角を持ち上げることができない。


 優人は民泊の管理人・湯本の変わらぬ姿をサングラスのレンズ越しにまじまじと見つめながら、あくまでやり取りは川嶋に一任した。


「はい、お電話させていただいた川嶋です。しばらくの間、お世話になります」

「遠い所をご苦労様です。ささ、まずはお部屋のほうへ――」


 湯本に招き入れられ、二人はあらかじめ予約を取っていた部屋を目指す。優人も荷物を担ぎ上げながら、黙ったまま慎重に周囲をうかがった。


 3年前とは違い、サングラスの下の眼差しが素早く、注意深く周囲を観察し続ける。玄関から続くメインホールは閑散としているが、野山の風景を撮影した写真が額に入れられ、そこら中に飾られていた。神経が研ぎ澄まされているせいか、数年前に気付けなかった景色の細部を読み取り、記憶していく。


 なにもかも、あの時と変わっていない。相変わらず他の利用者はいないようで、今回も優人らが唯一の宿泊客となるようだ。


 車に積んでいた荷を運び入れつつ、川嶋は湯本と当たり障りのない会話を弾ませていた。川嶋が語った内容に、湯本は「ほお」とどこか感心したように眉を持ち上げる。


「なるほど、ライターをされている方々でしたか」

「ええ。長年、こいつとは腐れ縁で。日本中、あちこちを回りながら記事を書いてるんです。まだ見ぬ日本の絶景スポットを探す、気ままな旅の途中でして」


 湯本が「それはそれは」と頷くなか、優人は黙したまま老人の反応をうかがっていた。


 川嶋が彼に語った内容は、どれもこれも作り話だ。この村に宿泊するにあたり、あらかじめ優人と二人で考えた架空の設定である。


 特に優人に至っては自身の偽名まで考え、しっかりと覚え込んできた。この村の内部を探るにあたり、優人がかつてこの地にやってきた人間だと知られては、なにかと都合が悪いかもしれないと踏んだのだ。


 警戒はしていたが、どうやら湯本はその設定を信じ切ってくれたらしい。優人についても、寡黙で無愛想なライターだと認識してくれているようだ。


 老人に案内されるまま階段を昇り、二階の部屋へとたどり着く。襖を開けた途端、目の前に広がっていたその光景に、優人は一瞬、息をのんだ。


 それは間違いなくあの日――3年前、優人と真名が宿泊した和室であった。


 年季の入った木造の柱と梁、わずかに黄ばんだ障子窓、体重を受け微かにたわみ沈む畳。窓の外に臨む景色に至るまで、なにからなにまであの時と同じだ。


 川嶋も隣に立つ優人の異変に気付き、黙したままちらりと様子をうかがう。村の入り口に差し掛かった時同様、優人の身にPTSDの症状が現れるのではと、心配していた。


 優人の全身をぴりりとした鋭い感覚が走る。しかし不思議なことに、村の景色を目の前にした時ほどの衝撃はない。かつての彼女を失った現場であるにも関わらず、自分でも驚くほど冷静に状況を分析できていた。


 きっとそれは、優人のなかである程度の覚悟が固まっていたからだろう。村の入り口で襲い掛かってきたトラウマを受け止め、その苦痛を抱き、噛み殺したうえで彼はこの場にたどり着いたのだ。


 ここにはきっと、あの日の答えがある――優人は「ふん」と短いため息をつき、あっさりと部屋の中へ踏み入った。隣でひやひやしていた川嶋も、ひとまずは胸をなでおろす。


 荷物をすべて運び込み、民泊の規則などについて語った後、湯本は深々と頭を下げてその場から去っていった。


 彼が襖を閉めてからも、優人と川嶋は遠ざかっていく老人の足音に耳を傾ける。しばらくして外の様子をうかがったが、湯本は一階の管理人室へと戻っていったようだ。


 二人はまずアイコンタクトを交わし、すぐさま行動に移る。川嶋はキャリーケースのなかからいくつかの機械を取り出し、組み立てていった。


 そのうちの一つを優人は受け取り、部屋の隅々にアンテナを向けていく。部屋中を優人が点検するなか、川嶋は窓際に大きめの一つを設置し、自身のノートパソコンを立ち上げた。


 正座をしたままキーボードを操作していく川嶋だったが、やがてにやりと口元に笑みを浮かべ、視線を持ち上げる。


「感度良好、ばっちりだ。そっちはどうだい?」


 優人も部屋の隅々を調べ終え、端末を片手に戻ってくる。彼は川嶋のすぐ隣に座布団を敷き、あぐらをかいて座った。


「こっちも大丈夫そうだ。この部屋に、〝盗聴器〟のようなものは設置されていない」

「なら、部屋で会話する分には問題なさそうだね。ひとまずはネット回線も確保できたから、外部との連絡も取れそうだよ」

「そうか。携帯での通話も?」

「もちろん。このアドレスに端末を繋いでくれ。まぁ、この部屋の周辺じゃないと、機能はしないけどさ」


 言われたとおり、優人は自身のスマートフォンを川嶋から教わったアドレスに接続する。いくつか試してみたが、問題なく外部のWebサイトも閲覧できそうだ。


 二人はてきぱきと荷物をほどき、宿の一室を即席の〝作戦室〟に仕立て上げてしまった。


 しばらくはこの一室を拠点に村の中で活動をするわけだが、それにしてもネット環境もなく、外部との通信手段がないというのはなんとも心許なかった。


 しかし、こういった部分に関しては幸いにも川嶋が知見を持っており、優人の要望を受け、あれやこれやと機材を取り揃えておいてくれたらしい。数年前は通話ができず難儀したものだが、川嶋はその問題をいともたやすく解消してしまった。


「けれど、こう言っちゃあなんだが、さっきの管理人さん――君が言っていた通りに親切な人じゃあないか。まぁ、まだ探りをいれたわけじゃあないけど、悪い人には見えないけれどねぇ」


 肩を揺らして軽く笑う川嶋に、優人はサングラスを取りながら睨みを利かせた。一瞬、その鋭い眼差しに川嶋がたじろいだが、優人は視線を木製の机の上に落とす。


「改めて見たけど、俺にもそう思えるよ。けれど、今となってはあの笑顔を信用することができないんだ。今の俺には――この村そのものが、なにかを隠しているようにしか思えない」


 それはいささか、考えすぎのようにも思える。しかし、かつて優人に起こったことを考えれば、それ以上、川嶋も余計な口を挟むことができなかった。


 優人はこの村に戻ってくるにあたり、容易く他人を信用しないと決めていた。以前はトラブルから自分たちを救ってくれた彼らに全幅の信頼を置いていたのだが、真名の死を体験して以降、この村そのものがどうにも胡散臭く思えてならない。


 それ故に、他人からすれば過剰なほどに警戒心を抱き、徹底的に隙を見せないように作戦を立てた。こちらの会話を盗み聞きされていたり、どこかから監視されているという可能性まで加味し、まずは部屋の内部をチェックして回ったというわけである。


 きっと当時、真名が警戒していた通りだったのだ。村人たちはあの笑顔の奥底に、確実になにかを隠している。無論、まだなんの確証もないのだが、優人はその一点においては一歩も退く気はない。


 その先を、川嶋はどこか声のトーンを落としながら問いかけてきた。


「隠し事、か。それがつまり、君が言っていた――〝鐘〟のことだったりするわけだね」


 優人は前を向いたまま、静かに一度だけうなずく。川嶋も視線を手元に移し、「ふむ」と口をつぐんだ。


 あの日、この場で真名は命を落とした。だが改めて思い返すと、それ以前に一つだけ気掛かりな出来事があったはずだ。


 早朝、偶然目を覚ました優人は、この民泊の外でそれを聞いている。


 村中に鳴り響いた、大きな〝鐘〟の音――それまで笑顔を浮かべていた湯本はあの時、明らかに狼狽していた。


 彼だけではない。村人のいずれもが、なぜか一様に作業の手を止め、彼方を見上げ微動だにしていなかった。


 あれこそが、あの日起こった最大の違和感なのである。優人は少し離れた位置の畳を見つめてしまった。そこはかつて、浴衣姿の真名が横たわっていた場所だ。


「あの〝鐘〟が鳴った時の村人たちの様子は、普通じゃあなかった。さっきの爺さんだってそう――あそこまで激しくうろたえるだけの理由が、あの〝鐘〟の音にはあるんだと思う。そして、その後に真名が死んだ。俺はその二つが、無関係だなんて思えない」

「なるほどね。となれば、まずはやはりその〝鐘〟の存在について探るのが先決だね」

「ああ。だが、妙な動きをして村人たちに察知されるのも厄介だ。ここから先は常に、慎重に動いていきたい」


 机の上に置いた優人の手が、微かに震えている。それはもちろん、肉体と精神に染みついたトラウマゆえのものだったが、優人はむしろそれを武者震いなのだと自身に言い聞かせた。


「わざわざこんな所まで、戻ってきたんだ。なにがなんでも見つけてやるよ。真名が死んだ理由を。この村が隠している、〝なにか〟を」


 止めることのできない震えを押し殺すように、優人は両拳を固く握りしめた。彼の凶暴なまなざしを見つめ、川嶋も「ああ」とただ一度、強くうなずく。


 田舎を満喫するために、やってきたのではない。ましてや川嶋がついた嘘のように、記事のネタにするために宿をとったわけでもないのだ。


 優人にとってここは、のどかな山間の集落などではない。


 愛する人が理不尽な死を迎えた、忌むべき異界なのである。


 そのど真ん中に舞い戻り、優人は固く誓う。これまで自分を縛り付けてきた因縁を、必ず断ち切ってみせる、と。


 優人はあぐらをかいたまま、うつむいて目を閉じる。力をたぎらせたままのその闇の中に、今でも確かにあの〝鐘〟の音色が蘇り、耳障りに反響していた。

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