第3話
森のなかでけたたましい音を立てツクツクボウシが鳴いていたが、男が自販機に近付いたことを受け「ジッ」と嫌な音を残して飛び立ってしまう。彼は一瞬、音の方向に目をやったが、特に気にすることなくお目当ての飲料を購入した。
うだるような昼の暑さに焼き尽くされないよう、男は近くに停車していた軽自動車に足早に戻っていく。明らかに山間の道路には車の気配などないが、それでも彼は律儀に前後を確認し、急いで運転席のドアを開けて乗り込んだ。
相変わらず軽自動車の冷房はどこか貧弱ではあったが、それでも外の暑さに比べれば随分と快適である。吹き付ける冷風のすえた臭いにもひるむことなく、彼――川嶋友則は眼鏡をくいと直し、困ったように笑ってみせた。
「いやぁ、山のど真ん中だからまだマシだけど、それにしてもこの暑さは怪物級だね。なんだか昨年よりもより一層、暑くなってる気がするよ。自販機に行くのも命がけさ」
場を和ませようとしたのだが、あいにく、助手席に深々ともたれかかった男は笑み一つ浮かべてはくれない。無愛想な反応に少し辟易してしまうが、それでも川嶋は買ってきた飲み物のうち、冷たい缶コーヒーを手渡す。
助手席の男は差し出されたそれを「おう」と受け取りつつ、かぶっていたニット帽を直した。彼は「カシュッ」という痛快な音と共に缶コーヒーを開け、一気に喉へと流し込む。
刺すような冷たさとブラックコーヒーの苦みが喉を駆け抜け、胃の中からその肉体を覚醒させる。微かなため息をつき彼――優人はようやく口を開いた。
「悪いな。自販機くらい、助手席の俺が行くべきだった」
優人が財布から小銭を取り出そうとしたが、川嶋は手を掲げてそれを拒む。意外そうに目を丸くする優人を横目に、川嶋はどこか意地悪な笑みを浮かべ、自身の手にした緑茶に口をつけた。
互いに喉を潤して一服し、しばし路肩に車を停めたまま二人は語り合っていく。
「それにしても、この辺りは本当に車通りがないんだね。君に聞いていた通り、こんなところでエンストなんかした日には、絶望してしまいそうだよ」
「ああ。もっとも、〝あの日〟エンストしたのはここじゃあないんだけどな」
「分かってるって。ナビが正しいなら、もう10分ほどで目的地に着けそうだ。ここまではひとまず、予定通りだね」
川嶋は緑茶を飲みつつ、やはりちらりと横目で優人の様子をうかがう。助手席に座る彼はコーヒーをちびちび飲みながら、なおもその目線は前――これから向かうであろう目的地を見据えているようだった。
その横顔を見て、思わず川嶋がため息をつく。優人もようやくその視線に気付き、振り向いた。
「なんだよ、その顔は?」
「いやぁ、別に。ただ、前にも言ったんだけど――変わったよね、優人」
川嶋の一言が意外だったのか、優人は目を丸くしてしまう。その一瞬の表情こそ以前の彼同様ではあったが、やはり見れば見るほどに優人の風貌はかつてのそれとは異なっていた。
元々、二人は同じ田舎出身の同窓生で、小学校、中学校を共にした間柄だ。しばらくはそれぞれの道を歩んでいたのだが、地元で行われた同窓会での再会を経て、その後も機会があれば時間を作り、食事や酒を楽しむ関係になっていた。
そんな川嶋に、優人から連絡があったのが3年前になる。
当初は軽い気持ちでやり取りをしていた川嶋だったが、聞けば聞くほどに優人が置かれていた状況はただならぬもので、折を見て再会した友人のその疲弊っぷりに言葉を失ったのを今でも覚えていた。
優人がこれまで見せてきた柔らかく、朗らかな笑顔はどこにもなかった。川嶋と再会した際の優人はひどく痩せこけており、打ちのめされながらもなにか強い念に突き動かされ、常に鬼気迫る表情を浮かべていた。
今だってそうだ――癖の強い黒髪はバリカンで無理矢理刈り上げられ、ほぼ坊主頭になってしまっている。一方、顎や頬には無精ひげが転々と残り、かつての若々しさは見る影もない。
眼差しにおいてもそうだ。同窓会で出会った当初の優人は、どこか幼少期と同じあどけなさがその瞳に残っていたのだが、今ではそういった輝きが微塵も感じられない。その眼光は常に鋭く、まるで容赦することなく対象を突き刺し、貫こうとするかのような理不尽な凶暴さを秘めていた。
かつての柔らかさや気安さを捨て去り、徹底的に研ぎ澄まされた優人の変貌っぷりに、川嶋は改めてただならぬ気配を感じ取ってしまう。一方、優人はなにを言うでもなく、また深々と助手席のシートに座りなおしてしまった。
川嶋自身、改めて奇妙な〝縁〟だと痛感してしまう。彼はハンドルに両手を添えながら、ため息をついてみせた。
「あれから3年、か……君が変わってしまうのも、しかたないかもね。なにせ、〝あんなこと〟を体験したんだ。そのまんま、元の生活に戻れるほうがどうかしてるよ」
3年――川嶋が口にした年月の重みに思いを馳せながら、ようやく優人も思いを吐露する。
「重ね重ね、巻き込んじまって悪かったな。あいにく、こんなことを相談できるのがお前くらいしかいなかったんだよ」
「いいって、そんなの。僕だって、純粋な善意だけで手を貸してるわけじゃあないって言ったろう? 〝歴史研究家〟としての貴重な資料が、これから行く場所に眠ってるかもしれない。僕はただ、それを君と見に行きたいだけさ」
歯を見せて笑う川嶋のその横顔が、優人にとっては素直に救いとなっていた。優人の無茶苦茶な計画に付き合うため、川嶋はわざわざプライベート――歴史研究家としての業務に穴を開け、共にここまでやってきてくれたのだ。
あの日――優人がかつての恋人・篠崎真名を失ってから、もう3年が経とうとしている。
同じような暑い夏の日、ふらりと出かけたドライブのさなか、偶然迷い込んだ集落で二人はトラブルから一泊することとなった。しかしその翌日、真名は目を覚ますことなく、そのまま布団の中で帰らぬ人となってしまったのである。
あの後のことは優人自身、よく覚えてはいない。断片的な記憶では、騒ぎに気付いた民泊の人間が駆けつけ、事態を察し警察や救急に連絡を入れてくれたはずだ。
もはや、自身の車の修理などどうでもよかった。駆け付けた救急隊が真名を調べたが、彼女は随分前に事切れており、死因は〝急性心不全〟であると断定されたのである。
その事実を告げられてもなお、優人は理解が追い付かなかった。なにせ昨晩までは確かに、真名はいつもと変わらぬ姿で生きていたのだ。夜中、不安がる彼女をなだめ、新たな旅の計画を二人で話したばかりである。そのうえで朝、確かに彼女がすやすやと寝息を立てていたのを、この目で見ているのだ。
うろたえ、とりみだし、ときには大声も上げた。だが、どれだけ優人があがこうとも、目の前の真名が息を吹き返すことなどない。
結局、優人は遺体となった真名と共に救急車に乗り込み、あの村――『幸人村』を後にすることとなったのである。
それからの優人の日々は、空虚なものであった。葬式が終わったところで、気持ちに整理など付けられるわけがない。遺影の中の真名はいつまでも微笑んでくれているが、写真に映り込んだ彼女が笑い声をあげることも、ましてや語りかけてくれることもないのだ。
真名の死を受け、優人の世界は変わった。
体調を崩し、精神が傾き、仕事すらできないようになった。廃人同然になった優人の心中には、それでも次第にある強い気持ちがふつふつと湧き上がり始めてきていた。
一体何が起こったのか――あの日、あの場所でなぜ、真名は死ななければいけなかったのか。
優人は今日まで一度足りと、〝納得〟などしたことがない。だからこそ、彼は3年前からありとあらゆる手段を模索し、真名の死の真相を探るための準備を整えてきた。
その積み重ねてきた日々がまさに今日、実ろうとしている。優人はブラックコーヒーをカッと飲み干し、空き缶をホルダーに置きながら前を向いた。
「自分でも、馬鹿げたことをしてるって理解はしてるよ。大半の人間がそうだったように、普通に考えればあれは事故――突然発症した病気で真名が亡くなった……それだけのことなんだろうからさ」
どこか自虐的な言い方ではあったが、隣に座る川嶋はそれを否定したりしない。彼は首を横に振り、再度、眼鏡を直してみせた。
「前から言っているように、僕も彼女――真名さんの件は不可解だと思っているんだ。君が言う通り、もし彼女が心不全で亡くなったとして、その前に何かしらの兆候があるはずだろう? 君が目を離したわずかな時間に、一気に容体が悪化するなんて、なんだか偶然が過ぎる気がするんだ」
「そうだな。真名は俺が知る限り、なにか持病のようなものは持ち合わせていなかった。むしろ、健康を気遣って無添加の食べ物を取り寄せたり、意識が高すぎるくらいだったんだ。〝その筋〟にも調べてもらったが、なにか病気を隠していたってこともないらしい」
その筋――優人の言葉が意味するところを、川嶋もすでに理解していた。
優人は今日に備え、それこそありとあらゆる手段を講じてきた。なぜ、真名は死んでしまったのか――その理由を探るべく、彼は〝探偵〟にまで金を払い、かつての恋人の過去や身辺を徹底的に調査してもらっていたのである。
真名は間違いなく、持病などを持たない健康体だった。その彼女があの日、偶然、あの場所で心不全を起こすということが、何度考えても不可解でならない。
「真名はあの日……なぜだか妙に、あの村自体を警戒していたんだ。今思えばあれは、村に隠された〝なにか〟を直感的に察していたんじゃあないか?」
「ありえるかもしれないね。そうすると、真名さんが死んだ本当の理由はその村――『幸人村』という場所そのものに関係しているのかもしれない」
荒唐無稽な推理だと理解はしている。むしろ人によっては、被害妄想だと言われかねない内容かもしれない。彼女が亡くなったのは事故ではなく、あの村の〝なにか〟が関わっていたせいだ、などと。
優人自身、今日にいたるまで何度もその考えを「ばかばかしい」と否定したこともあった。どれだけ打ちのめされ、疲弊していても、それでも優人は理不尽に世界を責める狂人になるつもりなどない。人としての常識や、超えてはならない一線はわきまえているつもりだ。
だがそれでいて、その推測が妙にしっくり来てしまうというのも事実である。
あの日、真名は『幸人村』の人々を警戒し続けていた。もしそこに、彼女が亡くなる理由が隠れているとしたら。
川嶋は手にしていた緑茶のペットボトルをホルダーに置き、ようやくギアをドライブに入れ直した。ゆるゆると軽自動車が走り始め、景色が流れていく。
対向車すらまるで現れない孤独な道を行きながら、川嶋はこれからのことに話題をシフトした。
「それで、この後は当初の計画通りで大丈夫かい?」
「ああ。あの村に着いたら、まずは宿を取ろう。場所は今でも覚えている。もしかしたら、あの爺さんも変わらずにいるかもしれない」
「分かった。けれど、本当に君だってばれたりしないかな?」
「そのために似合わないグラサンまで買ったんだ。まぁ、よしんばばれたとしても、関係ないさ。俺は、やるべきことをやるために戻ってきたんだからな」
言いながら、優人は胸ポケットにしまっていたサングラスを取り出す。数年前まではこんなものをかけようなど、思いもしなかった。ましてや自身の素性を偽り、〝変装〟してまであの村に戻ろうなどと。
車を走らせ続け、やがてあの見覚えのある脇道の入り口までたどり着いた。川嶋はその手前で一度車を停め、改めて隣に座る優人に確認する。
「あれ……だよね? 君が言っていた、村への入り口は」
「ああ、間違いない。この景色――しっかりと覚えてるよ。見間違うわけがない」
優人はカーナビの表記を見つめたが、この脇道の先には特に地名の表記がない。おそらく、ナビにデータそのものが登録されていない、それこそ僻地として認定されてしまっている場所なのだろう。
川嶋の表情がどこか先程よりも曇っていく。彼はハンドルを行儀良く握ったまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「優人、大丈夫かい? なにか、体調の変化はないかい」
問いかけられ、優人は一度、深呼吸をした。己の鼓動が微かに高鳴っているのは分かったが、自身でも驚くほど冷静にその光景を見つめられている。
「ああ、問題ないさ。そのまま――進んでくれ」
川嶋が何を気にしているかは、言わずとも理解できた。彼は数年前の事件を経て、優人のなかに刻み込まれた心の傷について、配慮してくれているのだろう。
心的外傷後ストレス障害――〝PTSD〟とも呼ばれるそれに、数年前から優人は苦しまされ続けている。
あの日、心に焼き付いた〝トラウマ〟は、事あるごとに蘇り優人に襲い掛かった。そのせいで優人は車を運転することもできず、つい最近までは田舎町の風景すら見ることができなかったのである。
当初こそ、手の震えや呼吸障害、睡眠障害に悩まされる日々だったが、不思議なことに今日のこの計画を思いついてからは、それらの症状がひどく緩和されてしまった気がする。
恋人の死の真相を探るという一つの目的が、皮肉にも打ちのめされていた優人の心を武装させ、後押しするきっかけとなったのだ。
優人の言葉を受け、川嶋はゆっくりとアクセルを踏んだ。軽自動車は慎重に脇道へと入り込み、坂道を下っていく。
その光景はもちろん、車の振動や周囲の景色の圧迫感も何一つ変わらない。見慣れた狭い道を優人は睨みつけながら、過去と今を少しずつ繋げていく。
最後の大きなカーブを超え、視界が一気に開けた。辿り着いたその景色に川嶋は息をのむが、やはり優人はフロントガラス越しに鋭く睨みを利かせ続ける。
真正面から対峙したその風景は、思い出のままであった。数年前の夏同様、青々とした山に囲まれた集落には、稲を植えたばかりの田んぼとあぜ道、古風な民家が立ち並んでいる。
あの日から何も変わっていない。優人とかつての恋人が迷い込んだ、あの日から。
どくんと、優人の鼓動が強く跳ねた。途端、手の先が微かに震えだし、呼吸がリズムを失っていく。どれだけ覚悟を固めていても、長年、苦しめられ続けたその場所に肉体が拒絶反応を示しているのだ。
川嶋が「優人!」と声を上げた。だが優人は歯を食いしばったまま、震える己の手を強く握りしめ、沸き上がる恐怖や不安を押し込む。
優人の全身から汗が噴き出していた。歯を食いしばり、肉に渾身の力を込めることで怖気付こうとする自身に抵抗し、逃げることを許さない。
怯え、うろたえるために、舞い戻ったわけじゃあない。
優人たちはここに、探しに来たのである。
あの日の真実を――愛する人が死ななければいけなかった、真の理由を。
しばしの沈黙の後、優人は呼吸を取り戻す。痛いほどに握りしめた手首には指の跡が刻まれ、爪が刺さったせいでかすかに血が滲んでいた。
体に刻んだ痛みを標に、優人は前を向きなおす。川嶋が唖然とする中、優人は汗をぬぐい、なおも目の前に広がる『幸人村』を睨みながら告げた。
「大丈夫だ、行こう。必ず、真名が死んだ理由を見つけだしてやる」
友人の鬼気迫る姿に、川嶋はわずかにたじろいでいた。しかし、彼とて優人がどれほどの覚悟を決め、ここに舞い戻ったかを理解している。
それ以上、二人は余計な言葉は交わさない。川嶋が再度アクセルを踏み、車は盆地に広がる集落のなかへと侵入していく。
『幸人村』の風景は変わらずのどかであったが、舞い戻った優人の肉体にはあの日とまるで異なった、熱く、どす黒い感情が渦巻いていた。
決着をつける――自身が〝納得〟し前に進むため、優人はかつて恋人を失った村唯一の民泊を目指し、進み続けた。
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