第2話
翌朝の体調はすこぶる快調で、寝起きだというのにも関わらず優人は自身の肉体に活力が満ち満ちていることに驚いてしまった。体を起こし時刻を確認したが、まだ6時過ぎということで陽も登りきっていない。
締め切った障子窓の向こうから早朝の柔らかな陽光が差し込み、部屋のなかをうっすらと照らしていた。思わず外の景色を見てみたくなる優人だったが、すぐ隣で眠っている真名の姿に気付き、はっとしてしまう。
仰向けになったまま彼女は布団のなかで深く、静かな寝息を立てていた。寝相の悪い優人と違い、布団一つ乱していないその姿は眠っていてなお凛としている。
昨晩のことがあっただけに彼女が眠れたか不安だったが、しっかりと体を休めている姿を見て安堵してしまう。優人は彼女をできるだけ起こさないよう、慎重に浴衣から私服へと着替えた。
トイレを済ませ顔を洗うと、一気に目が覚めてくる。業者がやってくるまではまだかなりの時間があるのだが、だからといって部屋にこもりっきりというのも、どうにももったいない気がしてしまった。
真名はああ言っていたが、一方で優人は偶然辿り着いたこの場所――『幸人村』と名付けられた集落に、強く惹きつけられている。真名が起きてくる前に、せめて朝方の村の景色を眺めてみることにした。
正面玄関から外に出ると、早朝特有のひんやりとした空気が全身を包んだ。本日も天気は快晴だったが、昨日のような理不尽な暑さはなく、朝日が寝起きの肌を心地良く刺激してくれる。
駆け抜ける風が野山を滑り、盆地へと流れ込んできた。深呼吸をすると肺の中が青々とした香りが満たされ、全身が奮い立つ。
思えばそれは、優人が幼少期以来に体験する田舎の朝の匂いだった。すでに遠くの田んぼでは農家の人々が作業を始めており、とことこと山のふもとを走っていく軽トラックの姿も見える。
昨日こそ閑散とした場所にしか見えなかったが、しっかりと人々が生活しているという事実を改めて痛感させられた。
どこか懐かしさすら覚えるその光景に、自然と優人はため息をついてしまう。思えば生まれ故郷にはもう何年も帰省していないが、ここに立つだけでかつて育った村の景色や出来事を、自然と思い返してしまう自分がいた。
田舎の光景に続き、周囲を取り囲む野山を見上げてしまう優人だったが、背後から投げかけられた老人の声にはっと振り向く。
「おはようございます。昨晩はよく休まれましたかな?」
「あ……おはようございます。ええ、それはもうばっちりと! おかげさまで、疲れ一つありませんよ」
嬉しそうに笑う優人を前に、やはり民泊の管理人・湯本は「そうですかぁ」と笑顔でうなずいた。彼は優人に並んで立ち、視線を幸人村へと向ける。
「なんにもない村でしょう? 都会から来られた方にとっては、なんとも退屈な場所なんじゃあありませんかね」
「とんでもないです。俺、生まれ育ったのが田舎だったんで、なんだか妙に懐かしくって」
「そうだったんですかぁ。それはそれは。昔はもっと人がいたのですが、時代の流れと共に徐々に外へと出ていってしまいましてね。今ではもう、古い人間たちが残っているのみです」
湯本は笑ってこそいたが、どこかそのまなざしには寂しさのような別の感情が覗いていた。その様子だと、彼もまた幼少期からこの村で生まれ育ち、時代と共に移り変わる閉じた世界を見つめ続けてきたのかもしれない。
「湯本さんはずっと、お一人でこの民泊を切り盛りしてるんですか? 失礼かもしれませんが、ご家族は……」
「元々は家内と二人で始めた民泊だったんですよ。私も家内もこの村で生まれ育ったので、村を訪れた人々がより快適に過ごせるような場所を作りたかったのです。ただ、寄る年波には勝てないものでして。5年前に家内が逝ってしまい、今では私一人の家になってしまいました」
嫌な予感通り、あまりにも踏み込みすぎてしまったことを優人は後悔した。しかし、湯本が一手早く、苦笑いを浮かべることで場の空気を和ませる。
「お気になさらないでください。人は遅かれ早かれ、死んでしまうものですから。家内も良い歳でしたので、大往生だったと思っています」
「そうだったんですね。けれど、お一人でしっかりと切り盛りされていて、本当にご立派だと思います。湯本さんはもちろん、村の人たちも親切な方々ばかりで。今回はたまたま立ち寄ったんですが、また機会にぜひ、お邪魔させていただきたいなって」
それは世辞でもなんでもなく、ここまで尽くしてくれた村に対する優人の素直な気持ちだった。優人の言葉が嬉しかったようで、湯本も目を細めたまま静かにうなずいてくれる。
「そう言っていただけると、本当にありがたいですな。是非また、いらしてください。幸か不幸か、民泊は大抵、部屋を空けておりますのでね」
自虐的な笑いではあったが、それでも自然と優人も肩を揺らしてしまう。笑みを浮かべたまま、優人は再び視線を彼方の野山へと持ち上げた。
「それにしても、大きな山に囲まれているんですね。なかなか標高が高そうだ」
「どの山も、ほぼ人が手を入れていないのです。ですので、季節ごとに様々な顔を見せてくれるのですよ。秋になれば紅葉が色を付けますし、冬に雪が降れば一面の銀世界になります」
「それはすごい。そういえば、ここに来るまでに『イノシシ注意』の看板もありましたね。野生動物なんかも出るんですか?」
「ええ。とはいえ、それはそれで困ったものでしてね。それこそイノシシの奴らは、時折、村にまで下りてきて畑を荒らすので、厄介なのですよ。男衆が毎年、あの手この手で追い払うのです」
どれもこれも、普段、都会で暮らしていると無縁の出来事ばかりだ。優人が生まれ育った場所も田舎ではあったが、ここまで文明と切り離された空間ではなかっただけに、より一層、今いる場所への興味が沸き立ってしまう。
都会には都会の、そして田舎には田舎独特の世界がある。都心部から半日足らずでたどり着けるこの場所には、外に生きる者たちが決して知ることのない独自の生活圏が存在しているのだ。
つくづく、普段自分がなにかを知った気になっていただけだということを、痛感してしまう。アスファルトの道を一本それるだけで、至る所に別世界が点在しているという当たり前の事実が、優人の奥底に眠る好奇心を殊更強く震わせた。
「野生動物がいるとなれば、豊かな自然が広がっている証拠ですね。山菜とかも、あの山で採ったものなんでしょう?」
「ええ。食用のものはもちろん、薬草なんかも採取して利用したりしますよ」
「へえ、すごい! 僕と彼女も何度か山登りをしたことはあるんですが、是非、実際にこの目で山の中を見てみたいですね」
目の前の野山を眺めながら、かつて真名と登った山々の風景を思い返してしまった。といっても、初心者二人が形だけ真似た登山であったことから、その道中はどうにも締まらない絵面ばかりだったように思う。思えばあの時も、転んで尻を泥まみれにした優人を見て、真名は軽やかな声で笑っていた。
内に湧き上がった思い出に、自然と表情がほころんでいく。優人は肩の力を抜き、なんのけなしに視線を隣に立つ湯本へと向けた。
だが、不意に飛び込んできた老人の横顔に、思わず「えっ」と小さな声を上げてしまう。
湯本の口元はやはり微笑んでいるが、そのまなざしにはなぜか仄暗い影のようなものが浮かんでいる。視線こそ山へ向けられてはいたが、きっと彼の目の前にもまったく別のなにかが浮かんでいる。
優人が描いている思い出のような、心弾む風景ではない。きっともっと物悲しく、複雑な〝なにか〟が。
悲し気なまなざしに黙ってしまう優人に、老人はゆっくり、しずかに口を開く。
「ただ、あの山にはあまり近付かないほうがいいかと。特に外から来られた方は――」
彼が呟いた言葉の意味合いを、優人は反射的に探ろうと思考を巡らせてしまう。
しかし、その答えが出る前に『幸人村』の大気が一度、強く鳴動した。
ごぅうん――突如響いたそのけたたましい音に、優人は目を丸くしたまま顔を持ち上げる。一度、確かに響いたそれは、なぜか力強く肉体の奥底まで染み込んでいく。
手足の感覚が一瞬、消えたかのようだった。無意識に呼吸が止まり、瞬きをすることすら忘れてしまう。
どこから鳴り響いたのかは定かではない。だが、村全体を包んだその独特の波長に近いものを、すでに優人も知っている。
反射的に脳裏に浮かんだのは――〝鐘〟であった。
近隣の神社や寺で叩かれたものなのか。とにもかくにも、その轟音は早朝の冷たい空気をこれでもかと鳴動させ、鼓膜のみならず肉体そのものを貫いた。
「今のは鐘……ですか? 一体、どこから――」
再び隣に立つ老人の顔を見つめ、そしてやはり優人は息をのんでしまう。先程の悲し気なまなざしは消えていたが、代わりにこれまで以上の異様な変化が湯本に現れていた。
湯本の笑顔が、いつのまにか完全に消えている。彼は目をカッと開き、なぜかわなわなと震えていた。
ここに来て初めて見る老人の姿に、なぜか優人まで唖然としてしまう。だが、言葉を絞り出すよりも先に、ある明確な変化を肌で感じてしまった。
早朝ゆえの微かな肌寒さこそ残っている。だがしかし、明らかにこの村全体を包む空気が色を変えた。無色透明のそれのなかに、今までとはどこか違ううすら寒い感覚が混ざり込んでいる。
(なにが――起こったのだ)
視線を村の景色に走らせ、また一つ優人は息をのんでしまう。
彼方で作業をしていた農家の人間や、散歩に繰り出していた老人。数こそ少ないが、外に出ている村人たちが皆、一斉に動きを止めてしまっている。そのうえで、皆一様になぜか視線を高くへと持ち上げていた。
優人は恐る恐る、隣に立つ湯本の顔を再確認する。やはり彼も、いつの間にか先程よりも顔を傾け、遥か〝上〟を見つめていた。
優人は彼が見ているであろう先へと、自身の視線を走らせる。湯本や村人たちは皆一様に、村の東側に位置する小高い山を見上げていた。
だが、その理由を問いかけるよりも先に、湯本は唐突に踵を返し、宿のなかへと戻っていってしまう。
狼狽し口をパクパクさせるしかない優人に、湯本は背を向けたまま告げた。
「お昼まではまだ、時間がありますので。どうぞ、最後までゆっくりしていってくださいな」
やはりそれは、こちらを気遣った一言だった。だが、どこか今までとは声のトーンが違う。
結局、音の正体も、彼らが驚いていた理由も謎のままだったが、しばらくして村はまた変わらぬペースで動き始めた。遠くで農家たちが作業を再開するのをしばし眺めていたが、いつまでもこうして道端で混乱しているわけにもいかない。
ばつの悪さを押し殺すように、優人は大きなため息をつく。やることがない以上、今できることはおとなしく自室に帰り、湯本の助言通りにゆっくりと時を待つしかない。
釈然としない自分を押さえながらも、優人も民泊へと戻る。事務室にいる湯本をちらりと見つつ、階段を上って二階に向かった。
もしかしたら、先程のあの〝鐘〟の音で真名が起きてしまったかもしれない。そんな予感を抱きつつ、できるだけしずかに襖を開いた。
真名はまだ、変わらず布団で横になっていた。優人が起きたときよりも、わずかに部屋に差し込む光が強い。そのせいか、眠っている真名の顔がより鮮明に確認できる。
彼女の表情は穏やかだった。相も変わらず、輪郭から顔立ちに至るまで、その容姿は文句なしの美しさを秘めている。
見慣れていたはずの優人ですら、ほんのわずかに見惚れてしまう。しかし、見慣れているからこそ、一歩近づいたことである〝違和感〟に気付くことができた。
障子窓から差し込む朝日を受けた真名の顔は、透き通るように白い。元々、色白ではあったが、目を閉じている彼女の肌は、いつに増して白く輝いているように見える。
雪のような、あるいは石膏人形のようなそれは――生物としては異質な白さだった。
「――真名?」
反射的に彼女の名を呼んだ。しかし、返事はない。優人の一声を受けてもなお、彼女は目を閉じ、仰向けのまま微動だにしない。
一歩踏み込んでみて、部屋を包む空気の異質さにようやく気付くことができた。優人が目を覚ました時と今とでは、和室全体を包む空気の質がまるで違っている。
まるで先程、〝鐘〟が鳴った瞬間の、あの村全体の空気のように。
仄暗く、不穏で、うすら寒い〝なにか〟が今、この部屋のなかに存在している。
「なあ――真名ってば」
本来ならば、眠っている彼女を無理矢理に起こしたりなどしない。だがこの時ばかりは、なぜか夢中で彼女に駆け寄り、声をかけてしまっていた。
一刻も早く、彼女に目を開いてほしい。昨日と同じように、あの美しくも妖しい笑顔で語りかけてほしい。
優人は重々しい空気をかき分け、真名の隣までたどり着く。恐る恐る彼女の肩に手を伸ばし、その体を揺らした。
「真名……起きてよ、真名」
やはり返事はない。真名はあくまで目を閉じたまま、抵抗することなく揺れに身を任せている。
間近で見ると、彼女の肌の白さが――その異様さがまざまざと分かった。
それだけではない。反射的に掴んだ彼女の肩から伝わる感覚に、優人のなかでなにかが崩れていく。
すぐに真名が目を覚ますと思っていた。もしかしたらまた、この村に対しての不満を抱いたままなのかもしれない。最後の最後まで彼女は、親切にしてくれた人々にあの鋭い眼差しを投げかけ続けるのかもしれない。
優人にとってはそれで良かった。どんな形であれ、また彼女と共にあの車に乗り込み、元来た道を帰ることができたのならば。どれだけ愚痴が出ようが、本音が飛び出そうが、それらも含めてすべてがきっと、彼女とならば幸せな思い出に変わるのだろう。
当たり前にまた、彼女と過ごす今日がやってくるはずだった。
だが、掌に伝わる感覚に――薄い浴衣越しに伝わる明らかな〝冷たさ〟に、優人の呼吸が止まる。
呼びかけに決して応じることのない、眠ったままの彼女。
雪のように白い、血の気を失った肌。ぬくもりが消え去り、冷たさのみが残った体。
これではまるで――死んでいるみたいじゃあないか。
「真名……なあ……真名――」
返事はない。
目の前に横たわる彼女が示すその答えを、優人は本能で悟ってしまう。
なにが起こっているのだ。一体全体、外に出たこの短い時間のなかで、なにがあったというんだ。
鼓動が加速し、全身が激しく脈打つ。目の前に横たわる彼女とは対照的に、優人の全身がかぁっと熱を帯び、生温い汗が次々に湧き上がってきた。
呼吸をコントロールすることができない。たとえ目が痺れるような痛みを発しても、瞬き一つせずに目の前の彼女を見つめる。
両肩を掴み、激しくゆすった。悪いとは思っていても、軽く頬を叩き、大声で名前を呼んだ。
それでも返事はない。それどころか、恐る恐るその首元に触れたことで、彼女の身に起こったことをより明確に理解してしまう。
強く、なかばねじ込むように指を彼女の首に突き立てた。しかし、どれだけ意識を集中したところで、その先端に伝わるであろうある感覚が抜け落ちてしまっている。
優人は反射的に、真名の体から手を放してしまった。そしてわなわなと震えながら、わずかに開いた口から「あぁ」という情けない声を絞り出す。
世界が揺れている。正常なはずの視界がぐわぐわと歪み、脳が痛いほどに脈打っていた。
なにからなにまで、偶然だったはずだ。
この方角に車を走らせたのも、思い付きで彼女があの道を選んだのも、集落で車がエンストしたのも、すべてたまたまの出来事なのだ。
それももうすぐ終わる――あと数時間で業者がやってきて、車を修理するのだろう。そして再び愛車に乗り込んで、二人でこの村を出るのだ。
そう、決めていた。そんな当たり前が、また戻ってくるはずだった。
呼吸を忘れた口のなかが、からからに乾いていく。喉が張り付き、焼けるような痛みが走るが、それでもまるで自身を律することができずにいた。
ようやく、開かれたままの眼の端に、熱い雫が湧き上がってくる。幾度となくその事実を否定したが、それでも目の前の景色に変化など起こらない。
数十秒か、数分か。
時の流れすら歪んだその密室の中で、ついに耐え切れなくなった優人は叫んでしまう。
そのけたたましい声を受けてもなお、目の前に横たわる彼女が――脈が止まり、事切れた真名の〝亡骸〟が答えてくれることはなかった。
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