第1話
赤信号で車が止まった途端、隣から「くすっ」というどこか意地悪な笑い声が響いた。思いがけず、彼――倉橋優人はハンドルを握りしめたまま、目を丸くして隣に座る彼女を見つめてしまう。
「え……どうかした?」
「いえ、おかしくって。本当、あなたってお喋りが好きなんだな――って思ったから」
素っ頓狂な声を上げる優人を見て、助手席に座る彼女――篠崎真名はまた一つ、クスクスと嬉しそうに笑ってみせた。こちらを見つめる彼女の視線に、優人の鼓動が無意識に高鳴ってしまう。フロントドアのガラスから覗く夏の野山と、そこに重なる真名の姿はまるで洗練された一枚の絵画を見ているようで、至近距離で直視することすらはばかられてしまう。
青々とした緑を背に、真名のつややかな黒髪がコントラストとなって揺れていた。癖一つないそれを指先でかすかに持ち上げ、真名は嬉しそうに微笑んでいる。
「ご、ごめん……また、喋りすぎちゃったかな」
「とんでもない。私、あなたのそういう所、好きよ。『イノシシ注意』の看板一つで、よくそれだけ色々な話ができるわよね」
「いやぁ、その……以前、テレビで見たことがあってさ。それを思い出したんだよ」
「前々から思っていたけれど、本当に記憶力がいいのよね、あなたって」
つい、いつも通り熱が入って暴走してしまったかと焦りかけたが、真名の表情を見ているとまんざらでもないらしい。優人は青信号を受けて軽自動車を発進させつつ、先程まで自分が口走っていた話題を思い返す。
偶然見つけた看板から、イノシシの生態――1メートル以上の柵を飛び越えることができるだの、犬と同等の嗅覚を持ち合わせているだの、思い返せば十分以上、自由気ままに喋り続けてしまった。
自分自身、昔からの悪癖だと理解しているつもりだ。だが一方で、助手席に座っている真名はいつも、優人のお喋りを嫌な顔一つせず微笑んだまま耳を傾けてくれる。
(不思議な女性だ)
付き合ってもう半年近くになるが、もう幾度となく優人は彼女を見てそう思ってしまう。
シミ一つない透き通るような白い肌に、長く艶やかな黒髪。優雅なまつげを蓄えた目はわずかに吊り上がっており、細めると相手を射すくめる独特の鋭さを帯びる。
優人より1つ下の25歳という若さでありながら、すでに彼女は男を捕えて離さない魔性のようなものを身にまといつつあるように見えた。
優人は車を走らせながら、ちらりとバックミラーに映る自分の顔を見やる。隣に座る美しい彼女に比べ、くせ毛に太い眉毛、丸くしまりのない眼差しのすべてがどこかガキっぽくて嫌になってしまった。
法定速度を守りながら、軽自動車は変わらぬペースで野山の中の道を進んでいく。片側一車線の道をもう随分と走り続けているが、すれ違う車は一台もない。バックミラーをどれだけ確認しようが、背後にはこれまで通ってきた一直線の道と生い茂る木々の緑が映り込むのみだ。
「真名が初めてだよ。俺のこのお喋りに嫌な顔一つせず付き合ってくれるのは。たいていの奴らは適当に聞き流すか、切り上げてどっか行っちゃうからさ」
「もったいないわね、その人たち。きっと、あなたの言葉の価値に気付いていないのよ」
「そんな、たいそれたもんじゃあないさ。思いついたことを、ぺらぺら喋ってるだけなんだからね。もっと君みたいに聞き上手になれたら、俺も少しは出世していたかもしれないよ」
「あなたのほうこそ、買いかぶりすぎだわ。私はあなたのその言葉に寄りかかってるのが、心地良いだけなの。一方的に言葉を与えられてるだけの、くだらない消費者よ」
随分と難しいことを言うな――と、優人は苦笑した。ちらりと横を確認したが、真名も助手席のシートに体重を預けたまま、変わることなく微笑んでいる。
「そもそも、お喋りな人だったら誰でもいいってわけでもないからね。言葉巧みな人間は色々いたけど、どれもこれも裏側に策略めいたものを潜ませていて、嫌になるわ。その点、あなたの言葉は下心も計算もない、本当に気兼ねないものだから」
「褒められてる……のかな、それは? なんだかこう、複雑な感じだけども」
一瞬、喋っていた真名の表情に影のようなものが覗いた気がしたが、優人の一言を受け彼女は意地悪な笑みを浮かべた。「もちろんよ」と笑う彼女を横目に、優人はほうとため息をついてしまう。
つくづく、不似合いな二人組だと自分でも感じてしまう。思い返せば、彼女と出会ったのは友人に無理矢理参加させられた大規模なコンパイベントで、シンプルなドレスを優雅に着こなした彼女の姿に、見惚れるどころか圧倒されたのを今でも覚えている。
何を話したのかも、今となっては酷く不確かだ。緊張とアルコールのせいでしどろもどろになりながらも、ただひたすらに言葉を絞り出し、場を持たせようとしたのだが、心のどこかでは彼女と自分が釣り合わないということを無意識に感じていたのかもしれない。
だが、そこから二人の仲は急速に発展し、今では休みが来るたびにこうして優人の持つ古い軽自動車に乗り、あちらこちらへと宛てのないドライブをする仲になっていた。
ハンドルを握る出来の悪いエンジニアと、その隣に座るアパレル企業のエースデザイナー。風貌のみならず、互いが身を置く社会的環境まで雲泥の差があるように思えた。
うだつの上がらない日々を送る優人に対し、真名は職場でもその辣腕を存分に発揮しているようで、先週も社内で行われた大規模なデザインコンペを見事勝ち取ったらしい。彼女はあくまでさらりと告げたが、ゆくゆくは真名のデザインした衣装に大女優や世界的モデルが袖を通すかもしれないと思うと、なんだか優人のほうが心を躍らせてしまう。
当初は真名のことを〝高嶺の花〟として敬遠していた部分もあった優人だが、今となっては彼女も随分と不思議な人間性を持った人物なのだと分かっていた。
それこそ、付き合い始めた当初は彼女をどんな場所に連れていき、どうエスコートするべきかを画策したし、あれやこれやと身の丈に合わないプランを練りもしたものだが、気付けば二人でいるほとんどの時間をこうしてドライブに費やしている。しかも不可思議なことに、彼女は目的地を決めない、いわゆる宛てのない旅を好むようになったのだ。
今もそう――都心を出て数十分が経つが、ナビ一つ設定することなく、着の身着のままに車を走らせ続けている。山道に入ってからはすれ違う車一つおらず、延々と野山の緑が続くのみだ。
トンネルを抜けると、道路の遥か下に田園や民家があるのを確認できた。その遠い風景を眺める真名に、優人は何気なく語り掛ける。
「しかし、本当に何にもない場所だなぁ、この辺りは。ここにいる人たち、一体全体、どうやって暮らしてるんだろうか」
「コンビニもなさそうだし、不便そう。けれど、こういう場所って少し憧れちゃうわ。少なくとも、都会の牢獄みたいな閉塞感はないもの」
「そういうものかなぁ。俺は出身が田舎だったから、なんだか退屈にしか見えないよ。都会のほうがあれもこれもあるし、住みやすくないか?」
「そりゃあ、商業施設の数や娯楽の有無なら、断然都会よね。けれどあの場所で一生を終えるのは、私は嫌よ。死ぬまで人との距離に気を使い続けるなんて、気が狂いそうだもの」
優人よりはるかに都会を乗りこなしているであろう真名の口からついて出る言葉は、どこか物悲しい響きを孕んでいるように思えてならない。以前から彼女は、自身が生きている都会という場所について語ることを、どこか拒んでいる部分があった。
そんな彼女の奥底を覗いてみたくはなったが、それでも優人はそれ以上詮索することはしない。前を向き、事故だけは起こさないように気を張りながら、ハンドルを握り続ける。
遠くの青空には千切れた白雲が浮かんでおり、昼下がりの太陽が容赦なく世界を照らしだす。まだ夏も始まったばかりだというのに、すでに地域によっては気温が40度に迫る場所もあるようだ。軽自動車のクーラーはなんとも弱弱しかったが、それでも焼き付くような日差しにさらされるよりはマシというものである。
古びたカーオーディオから流れるお気に入りの曲が静かに響いているが、優人の意識は隣に座る彼女に夢中だった。使い古された軽自動車の狭い空間も、真名といるだけで別世界のように心が弾んでしまう。
目的地もなくさまよい続けていると、ふいに真名が前方を指差した。彼女は道路脇にわずかに見える下り坂を見て、不敵な笑みを浮かべている。
「ねえ、あそこ――入ってみたらどう?」
「ええ、あの道かい? まぁ、一応車は通れそうだけども……」
周囲に車通りがないことを受け、優人はあえて一度、脇道の手前でブレーキを踏んだ。真名が指し示したのは道路から山の中へと分け入っていく分岐路で、車一台が何とか通れそうなほどの細い道が続いている。ガードレールなどはなく、左右の斜面からは生え放題になった雑草がわずかなアーチを作っていた。
「おいおい、本当にここ行くのかい? それこそ、どこに繋がってるか分かったもんじゃあないよ」
「いいじゃない。元々、そういう旅なんだから。行き止まりだったら戻ればいいし、なにか思いがけないスポットがあるかもしれないわ」
怖気づいてしまう優人に対して、真名は好奇心が満ち満ちた眼差しを浮かべている。この先に待つ未知の空間に、言い知れぬ期待を抱いているのだろう。
しばらく優人は躊躇していたが、やがて観念したかのように慎重にアクセルを踏みなおした。ぐんと車体が跳ね、ゆっくりと山の脇道へと分け入っていく。
道幅が狭くなったことで、今まで以上の圧迫感が軽自動車を襲った。落石や道路の欠落がないかを確かめつつ、優人は慎重に、恐る恐る道を進んでいく。ついには道を覆っていたアスファルトすらなくなり、土と雑草にまみれた獣道になってしまった。
「おいおい、まじか。本当に大丈夫なのかよ、これ」
「平気よ。だってほら、しっかりと〝轍〟があるもの。きっとこの先で、別の道路に繋がってるのよ」
真名の言う通り、足元の雑草にはしっかりとタイヤが作ったであろう二連のくぼみが刻まれていた。妙な説得力に背中を押されつつ、優人はなおもアクセルをじんわりと踏み続ける。
うきうきしながら身を乗り出している真名に対し、ハンドルを握る優人は気が気ではない。一刻も早くまともな道に合流してくれることを祈りながら、妙な緊張感に包まれたまま進み続けた。
のろのろと車を走らせていくと、急に視界が開ける。天然のカーブを曲がった途端、突如現れたその光景に二人は思わず声を上げてしまった。
「これは――」
「すごい。こんなところに――村が」
一面に広がる青々とした田んぼと、隙間を縫うように点在する瓦屋根の民家。原風景と融合するかのように、そこには確かに村が存在していた。
盆地を利用し形成された集落のようで、四方を小高い山に囲まれている。外を出歩いている村人の姿は見えないが、電柱が点在していたり、軽自動車が停まっているところを見ると、確かに人が暮らしているようだ。
ドライブのさなか、幾度となく山間に点在する集落の姿を眺めてきたが、いざ自分たちがその場に降り立つとどうにも奇妙な感覚にとらわれてしまう。これまでもさんざん野山の風景を堪能してきたが、改めて目の当たりにする大自然を前に、二人はただ深いため息をついてしまった。
「どうやら、さっき走っていた場所より、随分と低い位置まで下りてきたみたいだね。こんなところに暮らしてる人たちがいるんだなぁ」
「本当にね。すごく、のどかな場所じゃあないの。もしかしたら、自給自足で暮らしているのかもしれないわ」
肩の力を抜いた会話と共に、優人はゆっくりと車を発進させた。村の中を進みながら、四方に広がる大自然の姿に唖然としてしまう。
優人も幼少期は山陰地方にある片田舎で暮らしていたのだが、辿り着いた村は生まれ故郷よりもはるかに原始的な場所に思える。アスファルトで舗装された道などなく、ぽつぽつと点在する電柱はどれも丸太を加工してこしらえたものだ。ガードレールすらない道の脇には大きな水路が通っており、冷たさを予感させる透き通った水が流れている。
かかしが立った田んぼを横目に、真名は言葉を弾ませた。
「いいわね、こういうレトロな感じ。退廃的ではあるけど、どこかロマンみたいなものを感じるわ」
「これまた、難しい言い回しだね。まぁ、君のことだから、褒めてはいるんだろうけど」
「もちろんよ。風景を見ているだけで、色々と想像しちゃうじゃない? ここで暮らす人は、どんな一日を送っているんだろう、って。どんな風に育って、どういう風に大人になっていくのか――きっと私たちとは、全然違う形の人生を送るんじゃあないかしら」
顎に手を添えながら、真名は窓の外の景色を眺め、口元を緩ませている。その眼に映る景色の中に、ここで生きているであろう人々の姿や背景を想像しているのだろう。
「さすがデザイナー、想像力豊かったらないね。君みたいな感性を持っていたら、俺ももうちょっとクリエイティブな人生が送れたのかもな」
「私はただ、子供っぽいだけよ。見たことのないものを見てみたい――そんな気持ちを、大人になっても捨てきれなかっただけなの」
「そうか。けれど、その様子だと今日の旅はそれこそ、大当たりだったみたいだね。さっきの道、曲がって正解だった」
優人の一言に、真名が「本当にね」と無邪気に笑った。子供のように屈託のない彼女の笑みが、優人の心を殊更、激しく震わせる。
うまく言葉にはできないが、きっとこれが〝幸せ〟という感覚なのかもしれない。
他人からすれば限りなく無益な時間の使い方かもしれないが、それでも今日の旅路が無駄だなどとは思わない。優人自身、真名と付き合う日々に最初は戸惑いもしたが、今では共にいるこの独特の時間が、自身にとっての癒しになっているのだと深く実感する。
二人は軽自動車を緩やかに走らせながら、しばし村の中を散策していく。相変わらず外を出歩いている村人の姿はないが、それがより一層、真名の想像力をかきたたせ、車内の会話を弾ませるきっかけとなった。
どこか手頃な場所に車を停め、少し歩いて散策してみるのもいいか。そんなことを考えながらまた一つ、優人は軽快にハンドルを切り、曲がり角の先へと進む。
しかし、小川にかかった小さな橋を越え、ちょうどあぜ道のど真ん中に差し掛かったところで、急に車が止まってしまった。がくんと衝撃が車体全体を襲い、真名が「きゃあ!」と甲高い悲鳴を上げる。
優人も突然の事態に目を丸くしてしまうが、ひとまずは助手席の真名に安否を確認した。
「だ、大丈夫かい、真名!?」
「え、ええ……けれど、いったいどうしたの? 何が起こったのかしら?」
見ればハンドルの奥に見える計器類はすべて消灯されており、車内に流れていた音楽も止まっている。空調が切れたことで、循環していたはずの冷気が徐々に熱を帯びていくのが分かった。
優人は何度かギアを入れ替えたり、エンジンキーを回してみたが、うんともすんともいかない。最初こそ混乱していたものの、急停止してしまった車の状況から、なにが起こったかを察してしまう。
「おいおい、まじかよ。まさか、こんなところでエンストか?」
優人の一言に、真名も「うそでしょ」と目を丸くする。先程までの笑顔から一変、戦慄した空気が狭い車内に流れ始めていた。
とにかく二人は外に出て、車の様子を見てみることにした。車のドアを開けた途端、初夏の日差しが肌を刺し、痛みにも似た暑さが伝わってくる。しかし不思議なことに、都会で感じているそれとは、いささか異なった感覚を覚えた。
野山から流れ込む風が、青草や木々の匂いと共に熱を奪っていく。それらの相乗効果のおかげで、この盆地全体を包む夏からはそれほど煩わしさはない。
田舎特有の空気を肌で感じながら、それでも優人たちは気を緩めることなどできはしなかった。どう対処するべきかは分からないが、ひとまずは止まってしまった車をどうにかできないかと、あれこれ策を練ってみる。
タイヤがパンクしていないことから間違いなく電気系統の問題なのだろうが、あいにく、優人はエンストを解消するようなノウハウを持ち合わせているわけでもない。ボンネットを開いて内部の機関を確認してみたが、何がどうなっていれば正常なのかも分かっていないのだから、無意味というものだろう。
こういったトラブルを、心のどこかで恐れてはいた。だが実際に直面してしまうと、想像よりもはるかに厄介な事態なのだと痛感してしまう。
ここがどこなのか分からないが、少なくとも都内からは1時間近く車を飛ばした遠方の地だ。山のど真ん中を突っ切って来たがゆえに、近くに電車が通っている形跡もない。
先程まで弾んでいた優人の感情が、きいんと冷たく張り詰め始めていた。過度の緊張が鼓動を加速させ、生温い汗を全身に伝わせる。
冷静にならねば――と努めてはみるものの、経験不足は情けないほどに狼狽となって表情に現れていた。
「どうにかしないと……なんとか、夜が来るまでに直して帰らないと――」
ちらりと真名を見ると、彼女は腕を組んだまま村の様子をうかがっているようだった。その顔には苛立ちの色はなかったが、一方で先程までのようなあどけない笑みは消え去ってしまっている。
「落ち着いて。こうなった以上は、とりあえず業者に頼るしかないわ」
「そ、そうだね。とにかく電話を――」
優人は慌てて自身の長財布の中をあさり、以前、渡されていたロードサービスのカードを取り出す。今まで使うことなどなかったが、そこに記された電話番号に助けを求めようとした。
だが、自身のスマートフォンの画面を見つめ、思わず息をのんでしまう。
「そんな――圏外だって?」
思いがけない一言に、真名まで「ええ」と驚く。彼女もハンドバッグの中から自身の端末を取り出すが、その表情からすると結果は同じであるようだ。
車が故障し、挙句、頼みの綱である携帯端末まで機能しない。しかも、かなり車を走らせ続けたため、日も傾きつつあった。
無言のまま、二人の脳裏に一抹の不安がよぎる。これまでは車という明確な足があったからこそ、人里離れた山中の集落をのどかだなどと思うことができたのだ。
もしこのまま、この勝手知らない土地のど真ん中で、夜中を迎えてしまったら――真名も冷や汗こそ浮かべてはいなかったが、自分たちの置かれた状況に激しくうろたえているようだ。
どうすべきか、なにをすべきなのか。二人は口論こそしなかったが、ぴりついた空気の中しばし押し黙ってしまう。
そんな二人に向けて、不意にしゃがれた男性の声が投げかけられた。
「どうしましたかな、お二人共。なにやら、お困りなようですが」
優人は「えっ」と驚き、声を上げてしまう。二人が同時に視線を走らせた先には、白髪を蓄えた男性が立っていた。
老人は朗らかな笑みを浮かべたまま、すぅっとこちらに近付いてくる。くしゃりとしわが刻まれた彼の顔を、唖然としたまま二人は見つめるしかなかった。
「その様子だと、村の外から来られた方ですかな?」
「あ――え、ええ。ちょっと、ぶらりと立ち寄ってみた者です。その……どうやら、車がエンストしちゃったみたいで」
たどたどしく説明する優人に、老人はあくまで微笑んだまま「おや」と驚きの声を上げる。彼は止まってしまった軽自動車を覗き込み、事情を察してくれた。
「なるほど、それは災難でしたねぇ。もうすぐ、日が暮れてしまうというのに」
「そうですね……どうやらここ、電話も通じないみたいで、困り果ててたんです」
「そうなんですよ。この村は四方を山に囲まれているもので、電波が届いておらず。もしよろしければ、うちの電話を使ってはいかがでしょう?」
スマートフォンが使えないということをはっきり言いきられたことには怯みかけてしまったが、一方で思いがけない老人の一言に、また別の驚きの声を上げてしまった。
「電話って……い、いいんですか?」
「ええ。ここから少し歩きはしますが、ご自由に使ってくださいな。辺鄙な村ですが、幸い、電話くらいは通っておりますのでねぇ」
自虐的な一言ではあるが、肩を揺らして笑う老人のその姿に随分と気持ちが救われてしまう。優人は情けないほどに安堵した表情で、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「それに、車もこのままここに置いておくわけにはいかんでしょう。少しだけお待ちくださいね。ちょっと、村の若い衆に運んでもらいますんで」
「え……いやいやいや、さすがにそんなことまで頼めませんよ! 修理がやってくるまでは、ここに置いておいてかまいませんので……」
老人の予想外にもほどがある一言に必死に首を横に振ったが、あくまで彼は「ほほほ」と嬉しそうに笑うのみだ。
「お気になさらず。なにせ、村の連中は暇人ばかりですので、力が有り余っておりますからねぇ」
必死に断ろうとする優人だったが、老人はあくまでマイペースな笑みを崩すことはない。結局、こちらの制止を振り切り、彼は応援を呼びに行ってしまった。
優人はしばし、その老人の独特のパワーに圧倒されていたが、結果的に自分たちが助かったということに安堵してしまう。胸をなでおろし、情けないくらいに大きなため息をついてしまった。
「ま、まぁ、ひとまずはなんとかなりそうかな。いやぁ、本当に一時はどうなることかと――」
言いながらも、困ったように笑いながら隣に立つ真名へと振り向く。しかし、飛び込んできた彼女の表情に、思わず息をのんでしまった。
「真名……どうしたんだい、怖い顔して?」
真名はいつのまにか腕を組み、眉間に深々としわを寄せている。細くなった眼差しは、明らかに助けを呼びに行った老人の背中を睨みつけていた。
何度か彼女の不機嫌な姿を見たことはあるが、ここまで明確に嫌悪感をあらわにすることは珍しい。優人は少し戸惑いながら、遠くを睨み続ける彼女に問いかけていく。
「な、なぁ、どうしたのさ?」
「あの人、なんだかうさん臭くない? 私たちみたいな〝余所者〟相手に、なんであんな親切にするのよ」
どうやら、先程の老人に不信感を抱いたようだが、それにしてもいささか警戒心が強すぎるような気もした。優人も老人が去った先を見つめ、困ったように笑う。
「まぁ、確かに親切すぎる気がしないでもないけど……けれど、実際助かるじゃないか。これでひとまず、業者は呼べるわけだしさ」
「それはそうだけど――」
真名はあくまで、多くを語ろうとはしない。彼女は押し黙ったまま、視線を遠くの野山へと移してしまった。
彼女の意味深な態度に首をかしげる優人だったが、その答えを知る間もなく先程の老人たちが戻ってくる。彼は宣言通り、村の住人たちを幾人も引き連れ、大所帯で再び姿を現した。
駆け付けた人数に、とにもかくにも優人らは唖然としてしまう。老人の知り合いであろう村人は十名を超えており、肩幅の広い屈強な男性から少し線の細い若者まで様々だ。
しかも、誰も彼もが老人同様、部外者であるはずの優人らを見ても嫌な顔一つせず、ただただ笑顔で柔和に接してくれた。戸惑いながらも優人が挨拶をかわすと、一同は躊躇することなく二人が乗ってきた軽自動車を運び始める。
鎮座していた鉄の塊がゆるり、ゆるりと男たちの力によって動いていく。優人もせめて力を貸そうと牽引の輪に入ろうとしたのだが、村人たちによって逆に拒まれてしまった。
(なんだか妙な展開になってきた……)
しかし、彼らが協力して立ち往生していた二人を助けてくれていることは事実だ。ゆっくりと進んでいく一同の最後尾を行きながら、優人は車を押す恰幅の良い男に頭を下げる。
「本当、すみません。いきなり押しかけて、こんな余計なことを手伝わせてしまって……」
「いいって、いいって! 気にしなさんな。困ったときはお互いさまってやつだからねぇ」
男の一言を受け、周囲で車を押す男たちも「そうそう」と笑う。一団の底抜けの人の好さに圧倒されてしまったが、ようやく優人は微かな笑みを浮かべ、感謝の言葉を返すことができるようになっていた。
だが一方で、優人の少し後ろを歩く真名は、依然として険しい表情のままである。どれだけ村人たちが笑顔を浮かべていようとも、愛想笑い一つ返すことがない。優人は彼女のその刺々しい態度のほうが、むしろ気になり始めていた。
彼女の気配をしっかりと肌で感じながら、それでも優人はすぐ前を歩く老人――湯本秋吉と陽気な会話を続けていく。
「そうですかぁ、都心のほうからわざわざ車で。本当に災難でしたなぁ。ここからじゃあ、とても歩いて都心までは帰れませんからねぇ」
「ええ、まったく。電話も通じないんで、二人して焦っていたところだったんですよ」
「ではなおさら、お声かけしておいて良かったです」
言葉の最後に、湯本は視線を真名へと投げた。しかし、真名は彼に何一つ返さず、明らかにそっぽを向いてしまう。そのあまりにもつっけんどんとした態度に、優人のほうがひやひやしていく。
車を押し、十分ほど歩くことで目的地へと辿り着いた。二階建ての大きな瓦屋根の家屋に車を横付けし、男たちは「よぉし」だの「ご苦労さん」だのと嬉しそうに声を上げている。
状況が把握しきれていない優人らに、やはり湯本がいち早く気をまわしてくれた。
「ここは、私の家なんですよ。ちょっとした民泊もやっておりましてね。どうぞ、こちらで電話を使ってください」
「本当ですか? 重ね重ね、ありがとうございます。皆さんも、助かりました!」
いつも以上に声を張り、優人は手伝ってくれた男衆に頭を下げる。住民たちは皆、最後の最後まで嫌な顔一つせず、労いの言葉まで添えてその場から去っていく。
予想外のトラブルに緊張しっぱなしだった優人だったが、ようやく肩の力を抜き、自然体に戻ることができるようになっていた。
「本当に親切な人ばかりなんですね。ここまで良くしてくださるとは、思ってもみなかったですよ」
「なぁに、皆、平凡な日々に飽き飽きしてるんですよぉ。外から来られた方を一目見たくって、気が付いたら人数が集まってしまったんですな」
湯本は肩を揺らし、「かっかっか」と無邪気に笑ってみせた。痛快な声を上げる老人を見ていると、なんだか優人まで嬉しくなってしまい、「なぁるほど」とおどけ返してしまう。
しかし、二人の朗らかなやり取りを、突如として真名の冷たく、鋭い一言が刺した。
「ねえ、早くロードサービスに電話しましょう。いつまでも、ここにいるわけにもいかないんだから」
慌てて振り向くと、こちらを見つめる真名の視線と真正面から向き合う形となった。これまで以上の明らかな敵意を孕んだそれは、どこまでも刺々しく、ささくれている。
付き合い始めてから一度も彼女が見せたことのない気迫に圧倒されつつも、優人はひとまず目の前の民泊へと足を踏み入れた。
湯本が使っているであろう一階の事務室へとお邪魔し、部屋に備え付けられていた旧式の電話機でロードサービスを呼び出す。受話器の向こう側から声が返ってきたことに酷く安堵してしまった優人だったが、通話の途中で肝心なことを忘れていたことに気付いてしまう。
応対してくれている業者に少しだけ待ってもらい、椅子に腰かけている湯本に問いかけた。
「あの、すみません。ここって、向こうになんて説明すれば分かりますかね? 村の名前とかが分かりやすいと思うんですが」
優人らからすれば偶然迷い込んだ土地であっただけに、自分たちが今いる村の名前など知る由もない。無論、住所すら理解していないのだから、業者をどこに招き入れるべきか、言葉に詰まってしまったのである。
優人からすれば当たり障りのない質問だったのだが、なぜか一瞬、老人は言葉に詰まった。そのわずかな変化に優人だけでなく、壁際に立っていた真名も気付く。
一拍、あるいは二拍ほどのあるかないかの間だった。そんなわずかな戸惑いを経て、老人は答える。
「――幸人村、です」
告げられた珍しい名を、優人は「さちうど」と間抜けに繰り返してしまった。驚く優人に対し、湯本はようやく微笑みを取り戻し、大きくうなずく。
とにもかくにも、自分たちの居場所が分かったことで優人は業者との通話を再開する。とにかく、これで助けがやってくる――そんな期待に胸を躍らせ始めていた優人だったが、会話を進めれば進めるほどにその表情が曇っていく。
会話を終え、子機を戻した優人の異変を真名はいち早く察していた。
「どうかしたの? 業者はなんて?」
「いや、それが……早くとも、こっちに来れるのが明日の昼くらいになりそうなんだって」
恐る恐る答えた優人に、真名が「なんですって」と目を見開く。湯本は事務室の椅子に腰かけたまま、遠巻きに二人のやり取りを眺めていた。
「明日の昼ですって? どういうことよ、それ。それまで待ってろっていうわけ?」
「なんでも、業者側で大きめのトラブルがあったそうで、サービス自体がストップしちゃってる状態らしいんだ。うまくいけば明日の昼――最悪、もう少し遅れる場合もあるって」
「冗談じゃあないわよ! このまま、こんなところで野宿しろとでもいうわけ?」
真名の怒鳴り声が、部屋の空気をきぃんと揺らした。大声もさることながら、住人がいるすぐ隣で「こんなところ」などという無作法な物言いをする彼女を、優人は何とかなだめようと言葉を探す。
しかし、優人よりも先に動いたのは、机に座ったままの老人であった。
「おや、どうやら別の問題のようですな?」
「あ――え、ええ……ちょっと、明日の昼まで業者が来れそうにないんですよ」
真名は話しかけてきた湯本を一瞬睨みつけたが、すぐに視線をそらし押し黙ってしまう。彼女の一挙手一投足に、先程から優人は肝が冷えてしまってしょうがない。
しかし、老人はそんな真名の態度に嫌な顔一つせず、「ふむう」と顎に手を当ててうなる。
「それはお気の毒に。では、どうでしょう。業者さんが来られるまで、うちの空き部屋のほうに宿泊されていっては?」
思いがけない一言に、優人が「えっ」と驚きの声を上げる。真名も視線をわずかに湯本に戻したが、またもそっぽを向いてしまった。
「まぁ、実のところ民泊とは言いましたが、こんな僻地ですので利用客もほぼいないのです。昔はちょっとした旅の中継所として栄えたこの村も、今では通過点に過ぎませんからねぇ」
「それはもちろん、ありがたいんですが……けれど、本当にいいんですか? さっきから、何から何までお世話になりっぱなしで」
「先程もお伝えしましたように、困ったときはお互い様ですからねぇ。それこそ、お二人を放り出して野宿させるほうが、夢見が悪いというものですから」
相も変わらず老人は肩を揺らし、痛快な笑い声をあげてみせる。やはりどこか後ろめたい気持ちはあったが、それでも優人のなかで半ば答えは決まってもいた。
なにせ、今の二人にはもはや選ぶだけの手段など残されてはいないのだ。唯一の足である軽自動車が故障し、すでに外は夕焼けに染まり始めている。今から村を出て歩いたところで、それこそ真夜中の山中で遭難してしまうのがオチだ。
偶然迷い込んだ集落だが、ここには親切な村人たちがいて、利用できる宿まである。まさに今の二人にとっては願ったりかなったりの状況でしかない。
結果、それ以上、議論の余地はなかった。優人らは湯本の好意に甘え、民泊の二階の奥――村を一望できる、広い部屋に一泊することになった。
どこか真名は納得いかない様子だったが、彼女もまた自分たちが置かれた状況を理解はしているようで、つまらなそうな表情のまま渋々、優人の後に続く。
広めの和室に足を踏み入れ荷物を運びこむと、一気に体から力が抜けてしまう。湯本の言う通り民泊に宿泊客はいないようだったが、各部屋の手入れは行き届いており、二人が泊まる和室も清潔感と情緒溢れる快適な空間であった。
畳から香るイグサの青々しさに包まれながら背伸びをする優人に、民泊の管理人である湯本はやはり笑みを浮かべたまま告げた。
「なにかありましたら、気兼ねなくおっしゃってくださいね。もし事務室にいない場合は、伝言板に書き込んでおいていただければ、対応いたしますので」
最後の最後まで懇切丁寧な対応を見せる老人に、優人はもはや感服してしまい言葉が出てこない。ただ笑みを浮かべ、頭を下げることで応えるほかなかった。
湯本が去り、部屋には優人と真名のみが取り残される。優人は畳にあぐらをかき、再度、たっぷりと背伸びをしてしまう。腰を落ち着けられる場所ができたというだけで、緊張に包まれていた肉体が、急速に弛緩していった。
「いやぁ、一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなって良かったよ。エンストしたときはヒヤッとしたもんだけど、これはこれで良い思い出になったかもね」
仰向けになり、背中で畳の感触を楽しみながら、窓際にいる真名におどけてみせる。だがやはり、彼女は相変わらず鋭い眼差しを、窓の外に広がる夕暮れ時の『幸人村』に向けていた。
車が動かなくなってから、思えば彼女はどこか態度が刺々しい。優人は傾いた景色のなかに立つ彼女に、不思議そうに問いかける。
「ねえ、さっきからどうしたのさ? まだなにか、心配事があるのかい」
「この村、なんだかすごく嫌な感じがする。この場所自体も、あの人たちも」
思わず優人は「ええ」と声を上げ、体を起こす。正常な角度を取り戻した視界のなかで、真名がようやくこちらに向き直った。
「嫌な感じって……まぁ、良く分からない土地ではあるけど、少なくとも村人たちは気の良い人ばかりじゃあないか? おかげで、こうして雨風がしのげる場所まで辿り着けたわけだし」
「それは、そうだけど……けれど、とにかく嫌な感じがする。特にあの人たちの〝笑顔〟――なんだか、不自然じゃない?」
笑顔――その一言で、優人も今日出会ったばかりの村人たちの姿を思い返す。声をかけてくれた老人・湯本をはじめ、車を運ぶために集結してくれた村人たちは皆、終始、〝笑顔〟を絶やさなかった。
その柔らかな表情に癒されこそすれど、彼女が言うような不自然さを覚えたことはない。優人はあぐらをかいたまま、顎に手を当てて「う~ん」と唸ってしまう。
「俺には、ただただ良い人たちの集まりに見えたけどねぇ。まぁ確かに、ちょっと親切すぎる気はしたけど。けれど、田舎の人なんてだいたい、そういうもんじゃあないかい?」
「あの湯本ってお爺さんだって、無料で宿に泊めるなんておかしいと思わない? なにか、裏があるんじゃあないかしら」
「そりゃあ、完全に否定はできないけど……でも、考えすぎじゃあないかな。この後、高額の宿賃をぼられたりするってことかい?」
大げさな身振りで少しでも場の空気を和ませようとしたが、依然として真名の険悪な態度が変わることはなかった。誰も彼もが笑顔を浮かべてくれていたこの村で、今となっては唯一、彼女だけがいつもの笑みを捨て去ってしまっている。
警戒心が強すぎる女性が故か、はたまたなにか彼女だけが感じ取った不審点があるのか。しかし、優人もそれ以上、真名の心の内を覗き込むことはできなかった。
成り行き上、宿泊することになった田舎の民泊だが、二人は想像以上の快適な夜を過ごすことができた。従業員は管理人である湯本ただ一人しかいないのだが、彼は器用に宿を運営し、二人をもてなしてくれる。野山で採れた山菜を使用した夕飯を作ってくれたり、貸し切り状態の大浴場に熱い湯を張ってくれたりと、老体でありながらその手際の良さは目を見張るものがあった。
素朴さ溢れる田舎の料理は肉体に活力を与え、体の芯まで染み渡る熱い湯が停滞していた血潮を加速させ、体のリズムを整えてくれる。
浴衣に着替え自室に戻ったときにはすでに村は濃厚な闇に包まれていたが、腹が満たされ熱湯にふやかされた肉体は、とどめとばかりに吹き込む夜風の爽やかさに敗北し、警戒心など簡単に捨て去ってしまう。
とことん田舎の良宿を満喫していた優人だが、やはり唯一の気がかりは真名の心境であった。ゆるゆるとした時間を過ごし、消灯し並んで布団に横になっても、彼女のどこか張り詰めた態度が緩むことはない。
優人はこのまま眠りに落ちてしまおうかとも考えたが、やはりどうしても気になり、薄暗い天井を見上げたまま隣の彼女に声をかける。
「なあ、やっぱりまだ不安なのかい?」
しばし、返答はなかった。しかし彼女も眠ることなく、同様に視線を持ち上げているのは分かる。優人はあえて押し黙り、彼女の言葉を待った。
「ええ、とても不安。あなたの言う通り、本当に私たちは良くしてもらってるのだと思うわ。けれど、それでもなんだか、あの人たちを信用しきれないの」
真名の気持ちは頑なだった。優人はゆっくりと顔を傾け、すぐそばに寝転がっている彼女の横顔を見つめる。
薄暗い部屋のなかで、それでも真名の整った横顔がはっきりと確認できた。起伏のあるそのシルエットから、彼女の洗練された美しさを再確認してしまう。
だがそれでいて、やはりその横顔はどこか不穏で、物悲しい。優人は視線を頭上へと戻し、両手で布団を握りしめる。
「まぁ、今日会ったばかりの人を信用するってのも、難しいよな。でも、明日の昼には業者が来てくれるからさ。そうすれば、いつも通り帰ることができるよ」
「そうね。今度からはもう少し、計画性を持った旅をすべきかもしれないわね」
真名の言葉がどこか寂しく響いたが、優人はあえてそれを受け止める。
「だね。また、長期休暇のときにでも、どこか泊まりがけの旅行に行こうよ。行きたいところに行って、見たいものを見て――そういう、自由気ままな旅にさ」
言いながらも優人は、再び視線を真名へと移す。彼女もようやくこちらをちらりと見つめ、そして「ふっ」と微かに笑った。
ようやく見ることができた彼女の笑みに、なぜだか優人はひどく心を揺さぶられてしまう。真名はそのまま視線を戻し、わずかに口角を持ち上げたまま返した。
「長期休暇、か。随分先だけど、計画を練るのもきっと楽しいかもしれないわね。どうせなら夏の間に、海の見える場所なんかに行ってみたいわ」
肩の力を抜いた彼女の一言に、なぜかひどく安堵してしまう自分がいた。優人は「いいね」と笑い、再び天井を見つめる。
一抹の不安はあるが、それでも優人は沸き上がる仄暗い感情を、気のせいなのだと押し込め、目を閉じた。夜が明ければいつも通りの朝がやってくる。業者さえ来てくれれば、直った愛車に乗って、さっさとこの村を出ればいい。
きっとそれで、すべてがいつも通りになるのだ。
目を閉じたまま、暗闇のなかに明日の帰路を想像する。軽自動車は相変わらず、がたがたと揺れながらマイペースに都心を目指して進んでいくのだろう。カーオーディオから流れるお気に入りの曲と、心許ない空調を頼りに、元来た野山の道を走っていくのだ。
そこには優人と真名だけしかいない。誰一人、入り込むことのできない密な空間で、いつもと変わらぬ会話を弾ませながら、互いの家を目指し進んでいく。
なにを話そうか、どんなことで盛り上がろうか。
そのとき、彼女は――真名はどんな顔で、笑ってくれるのだろうか。
そんなことを考えていると、胸の中に渦巻いていた不安が意識と共にゆるゆると蕩けていく。腹が満たされ、熱い風呂によって極限まで疲弊した肉体は、いともたやすく睡魔の手に落ちてしまう。
眠りにつく瞬間、優人は無意識に微笑んでいた。隣で眠っているであろう彼女との、明日の帰り道を思い描きながら。
外に広がる大自然からは、微かな風と虫の音色が聞こえてくる。夜闇の海に抱かれながら、二人は村と共に深い眠りへと落ちていった。
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