師弟の夜稽古

ある夜、満月が雲間から顔を覗かせ、廃寺の裏手に柔らかな月光が差し込んでいた。普段は穏やかな剣助が、その夜ばかりはどこか厳しい眼差しをしていた。いつもの稽古とは違う緊張感が漂っている。


「今日は少し本気でやってみよう。」


剣助の低い声が静寂を切り裂くように響く。シンは驚き、思わず木刀を握り直した。


「えっ、本気で? どういう意味ですか?」

彼の問いに剣助は答えず、無言のまま地面に落ちていた小石を足先で蹴り上げた。そして、見事なタイミングで木刀を振ると、その石が音もなく宙を舞い、数メートル先の木の幹に弧を描くように突き刺さった。


「これくらいは最低限の技術だ。お前もすぐにできるようになる。」


剣助が口にした「すぐに」という言葉が、シンには遠い目標のように感じられた。それでも彼は木刀を両手でしっかり握り、剣助の目を見つめた。


「……分かりました。やってみます。」


剣助は静かに歩み寄り、シンの構えをじっと見つめた。彼の瞳は、いつもの穏やかなものではなかった。鋭く、何か底知れない力を宿しているように見える。その視線に圧倒され、シンは無意識に背筋を伸ばした。


「構えが甘い。左足に力を入れすぎている。」

剣助の指摘に従い、シンは足の位置を修正した。しかし、その瞬間、背筋がぞわりとする感覚に襲われた。目の前に立つ剣助が、いつもの師匠ではないような威圧感を放っているのだ。


「……師匠、本気って、どこまでですか?」


「最後までだ。」

剣助は微かに微笑んだが、その笑みには冷ややかさが混じっていた。シンはその表情に、どこか人間離れした印象を抱いた。


「さあ、かかってこい。」

剣助が軽く構えると、シンは息を整え、全力で彼に向かって木刀を振り下ろした。しかし、その一撃は剣助に一歩も動かさせることなく受け流された。


「もっと意識を集中しろ。力だけでは勝てない。」


シンは再び体勢を立て直し、攻撃を続けた。剣助は軽々とそれをかわしながら、時折シンの動きを褒めるように頷いていた。しかし、ふとした瞬間、シンの瞳が金色に揺らめいた。その変化に剣助は気づいたが、何も言わずただ見守った。


「……っ!」

シンの次の一撃は、これまでとは違った速度と鋭さを持っていた。その木刀は剣助の防御を弾き飛ばし、わずかに彼の肩をかすめた。


剣助は微かに目を見開き、口元に薄い笑みを浮かべた。「いいぞ。その調子だ。」


しかし、次の瞬間、剣助の雰囲気が一変した。彼の木刀がまるで生き物のように動き、シンの動きを完全に封じ込めた。振り下ろされた木刀が、寸止めでシンの額の前で止まる。


「だが、まだ甘い。」

剣助の声は静かだったが、その背後に圧倒的な力を感じさせた。


シンは息を切らしながら膝をつき、木刀を地面に突き立てた。「……僕は、全然歯が立たないですね……。」


「歯が立たないのは当然だ。だが、お前は自分の中にある力の一部を引き出し始めた。」


「僕の中にある力……?」


剣助は少しだけ口元を引き締め、シンの目をじっと見つめた。「お前の力は、お前が認めたときに初めてその全貌を現す。今はまだ、その一部だ。」


その言葉の意味を深く考える余裕もないまま、シンは剣助に手を差し伸べられ、立ち上がった。


稽古が終わった後、剣助はしばらく木刀を眺めていた。そして、ふと遠くの月を見上げる。


「……お前には、この先もっと多くの壁が立ちはだかるだろう。」

「壁……?」


「その壁を乗り越えたとき、自分が何者かを知ることになる。そして、お前が自分を知るとき――俺が何者かも知ることになるだろう。」


シンはその言葉に戸惑いながらも、「俺」という言葉の中に隠された何かに気づいた。その時には理解できなかったが、剣助が持つ秘密は、この夜の記憶として心に深く刻まれることとなる。


その夜、稽古を終えた後の廃寺の裏手には、月明かりが柔らかく降り注いでいた。シンは地面に座り込み、木刀を脇に置いて大きく息を吐いた。体は汗でびっしょりだが、冷たい夜風がその熱を冷ましていく。剣助は近くの石に腰を下ろし、無言で夜空を見上げていた。


しばらく沈黙が続いた後、シンは恐る恐る口を開いた。

「師匠……一つ聞いてもいいですか?」


剣助は視線を月からシンに移した。その目は穏やかで、シンが質問するのを待っているようだった。


「妖の血って……一体、どんなものなんですか?」

シンの声には、どこか怯えと好奇心が混じっていた。「僕だけじゃなくて、師匠にも……それがあるんですか?」


剣助はその言葉にわずかに反応を見せた。その鋭い瞳が一瞬だけ曇る。それは一瞬の出来事だったが、シンはその表情の変化を見逃さなかった。


「妖の血……」剣助は静かに呟いた。そして、その言葉を繰り返すように口の中で転がしてから、ゆっくりと話し始めた。「人の心には、どんな者にも何かしらの『異質』が混ざり込んでいる。それが妖の血かどうかは……実際のところ重要ではない。」


「でも……」シンは言葉を選びながら続けた。「僕の瞳が金色になることも、風の声が聞こえることも……普通じゃないですよね? 他の人には、そんなこと起きませんよね?」


剣助はしばらく黙ったままだった。その沈黙が重く、シンは自分が何か触れてはいけないことを聞いてしまったのではないかと不安になる。だが、剣助はやがてゆっくりと微笑んだ。その微笑みは、どこか寂しさを含んでいるようにも見えた。


「普通かどうかを決めるのは、自分自身だ。」剣助はシンをじっと見つめた。「瞳の色がどうであれ、風の声が聞こえようと聞こえまいと……それはお前が何者かを決める要素ではない。」


「でも、師匠も……そうなんですか?」シンはその微笑みに隠された何かを見抜こうとするように問い詰めた。「師匠にも、妖の血が混じっているんですか?」


剣助の微笑みがふと消えた。彼は視線を再び月に戻し、まるでその問いを避けるかのように口を閉ざした。その姿にシンは戸惑ったが、師匠が何かを隠していることだけは確信した。


「今は剣を学べ。」剣助は突然そう言って立ち上がり、シンの肩に手を置いた。その手は温かく、力強かった。「それが、お前が己を知る第一歩だ。」


剣助の言葉はそれ以上続かなかった。その背中を見送りながら、シンの胸の中には小さな疑念が生まれていた。「師匠は何かを隠している。もしかしたら、僕のことを……いや、それ以上のことを知っているのかもしれない。」


彼は木刀を握り直し、空を見上げた。月の光が目に入ると、その瞬間、自分の瞳がわずかに金色に揺れる感覚がした。それを意識するたびに、胸の奥で不安と同時に奇妙な安堵感も湧き上がる。


「僕は、何なんだろう……」


その問いは剣助にも届かないまま、夜空の彼方へと消えていった。


その夜遅く、シンが廃寺で眠りについた頃、剣助は一人で剣を握り、廃寺の裏手に立っていた。夜風が外套を揺らし、彼の瞳もまた金色に輝いていた。


「……お前が本当にその力を目覚めさせた時、俺はどうするべきだろうな。」

誰に語るでもなく、剣助はぽつりと呟いた。


彼の中にはいくつもの葛藤が渦巻いていた。シンの中に眠る力、それが彼を守るものになるのか、それとも災いを呼ぶものになるのか――それは、剣助自身にも分からなかった。

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