第3話 全てのはじまり
「なぁ、いい加減機嫌直せよ」
アンは俺に抱きついて、胸に顔を埋めながらいやいやと首を振った。完全に引っ付き虫状態で、立ち尽くしたまま身動きが取れない。
ジグムンド様は先程、後は頼んだとジェスチャーをして爽快に去っていった。……逃げたな。ちくしょう俺も連れていけよ。
「……貴公。私は貴公が大切だ。だからこそ、他の女には触れて欲しくない。貴公は私のものだ。私だけのシェロだ」
「うわなにそれ重い」
無言で足を踏まれた。
はいはい、黙ります。黙りますとも。
俺は天井を仰ぎながら、深いため息をついた。
(こいつ、初めて会ったときはもっとクールだったのに)
そっと瞼を閉じ、10年以上昔初めてアンと会った日のことを頭に思い浮かべた。
***
―――それは俺が11歳になって間もない頃の出来事だった。
「ひっく………喜べクソガキ。お前に嫁ができたぞ!」
深夜。
寝ている俺に向かって、大声で喚き散らかしてきた男に殺意を抱く。身体を起こす。寝癖がついた黒髪を撫で付け、ため息をひとつ。
この男は、ラッセル・アンダーソン。
残念ながら、俺の養父である。
黒髪に鮮紅の瞳。やや白い象牙色の肌に、堀の浅い顔立ち。アジア系の血も流れているのか、こちらでは余り見ない顔立ちだ。
今から2年前、この異世界に迷い混んだ俺は、紆余曲折あり今の養父に拾われたのだ。
「おい、今何時だと思ってるんだこんちくしょう。悪いこと言わないから、クソして寝ろ!」
取り敢えず、こき下ろす。
それを聞いて親父は心底楽しいという顔をした。
ふらふらと覚束ない足取りで、こちらに寄ってくる。
「ふふん、そう言ってられるのも今のうちだぞ……」
「意味わかんねぇ」
にやにやと笑いながら、俺の肩に腕を回した。親父はその人の不幸を楽しむような愉悦の表情を隠さず、俺の顔に息を吹き掛ける。
酒臭さっ!?
「親父アンタ酒飲んで来たのか!」
「おう、宴でたらふく頂いてきたとも。そんで、お前の嫁も頂いてきたぞ、ひっく」
「はぁ、ほんとこの酔っ払いは……水飲んで、早く寝ちまえ」
酔っ払いの戯れ言に付き合うほど、俺も暇ではないのだ。その言葉を無視して、親父を寝室に連れていき水を飲ませる。水差しとコップ。念のために、桶も近くに置いておく。イビキを立てて寝る男を冷たく見下ろして、小さく唇を歪ました。
***
次の日。
俺は親父に連れられ、何故かこの城塞都市ラリッサの象徴でもあるシュヴァルツフリューゲル城の応接室にいた。
豪華な内装の応接室。
見るだけで高価なソファーに俺と親父は腰かけていた。
その前に、身体の大きな男性がどっしりと座り、顎を撫でながら見定めるようにこちらを眺めてくる。何だか片身が狭い。
「ほぉ、彼が君の息子か」
「ええ、そうです。まぁ義理の息子ですがね。こう見えて、良くできたガキんちょですよ」
赤毛の偉丈夫が、こちらを覗き込む。青い澄んだ瞳が、星のように瞬いた。顔は厳ついのに、その瞳と合わさることで優しげな雰囲気を醸し出していた。
「名はなんと申す」
「……嗣郎、です」
低く渋い声音に、一拍おいて答える。
それに目を細めた男は、満足げに頷いた。
「シェロか。空という意味だな。良い名だ」
いや、違う。
読み方は、シェロじゃなくシロウだ。
訂正しようとしたが、喉から言葉が出てこなかった。不格好な息だけが、ひゅーと空気を鳴らした。
頬が自然とつり上がる。
口がもごもごとと締まりが悪い。
そんな俺の様子を見て、親父は驚いたように目を見開いた。
「なんだその堪らなく嬉しくてしょうがないって顔」
親父の愉快げな声に、自分の頬をなぞった。
俺は笑ってるのか。
そう言われると、ストンと胸が軽くなった。
―――そうか、俺は嬉しかったのだ。
嗣郎……家を継ぐ存在でしか価値を見出だされなかった俺の名。
間違た呼び方でも、俺は嬉しかった。そう呼ばれたことで、心までが空のように広く自由になった気さえしたのだ。
「別に、そんなんじゃない……」
「まっ、良いけどな」
親父は優しげに微笑んだ。
初めて見る顔だった。
照れくさくなって思わずそっぽを向く。
「あっはっはっ! 良いぞ良いぞ! 中々可愛らしいではないか。シェロ殿……否、婿殿よ。私の名はジグムンド。貴殿の義父になる者だ。よろしくお願いする」
赤毛の男性、ジグムンドさんは俺たちを見て笑った。面白くて仕方がないとでも言うような声だった。
俺はその言葉を聞き、ピシリと身体を固まらせた。
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