バーリトゥードの間

かつてそこにあった街のこと【有刺鉄線、糸、ミサ】

 街が人間を間引いている。

 私は毒づいていていた。

 この街は常に煙が立ち陰気な匂いがこもっていた。その煙で街の人々は気道を詰まらせて肩をゆすっている。みな一様に雁首を差し出して歩く。公道工事は追いついておらずツギハギだらけの道が続き、交通誘導員が赤色灯を振るう。

 私は交通誘導に嫌気が差していた。焼け焦げた吐き気のする空気を吸い込んで、ため息を街に差し込み、ぼんやりと街を眺めた。

 街には空などなく煙の膜ですっかり覆われていた。有刺鉄線が幾重にも空に絡みつく光景が広がっている。聳え立つのは、空を突き破らんと挑み敗北していった数々の煙突。彼らの後ろ姿は有刺鉄線に絡まれ街の景色に囚われていて、ひどく惨めに思えた。

 私の前に霊柩車が通る。十台に一台は霊柩車で、夜の冷えこみに耐えきれなかった人間が火葬場に運ばれていく。そして五台に一台は鉄線修理の車で、鉄線の修理に日夜追われている。鉄線が家々にひかれなければ、その家の住人は暖がとれず、夜の冷気にやられて凍死してしまう。

 家に取り残してきた父がちらと頭に引っかかった。父は身体の節々に痛みが生じ、すっかり布団から起き上がることができなくなっていた。今まで父一人息子一人で、父が逞しくも育ててくれたのだが、身体は骨と皮と貧相になりはててしまった。今までは父が育ててくれていた手前、自身の身体に責任が重くのしかかる。少しでも街が家を私たちを温めてくれたら良いのだが、電気の総量は決まっていた。無理は言えなかった。

 鈍色の背をした街は、有刺鉄線の檻を設ける一方で、白色の教会が至る所に建てられていた。私がいる場からでも、三曲もの異なる優美な賛美歌が重なり響いている。そのどれもが街を信仰したものであった。

 街はいつもながらに冷めた顔をし、信者の賛美には何も応えてくれない。年がら年中、人間を間引く冷気を吹きさらす。

 私は街は街を信仰する者を裏切り続けているように思えてならなかった。

 今日は日曜日。ミサへ向かう人々が欠陥だらけの道を歩いている。その中に父の姿もあった。父は街を信仰する日だけは、幼い頃から欠かさずにミサへ通っていた。父は熱心な信徒の一人であり、街への想いをよせていた。その口からいつもツギハギだらけの道や、煙突の影、四六時中煙っぽい空気、そして有刺鉄線の絡みに愛おしさすら感じさせる熱を紡いだ。

 幼い頃から父は私に物語を聞かせてくれた。街と会ったことがある、と。街は言ったそうだ。この厳格な寒気は人間を試しているのだ。そして有刺鉄線で電気を通し、守れるだけ守っている。それを聞いた幼い父は、街は私達を深い愛で包んでいるのだと、敬意を示し祈っていた。

 だが、父の幼少期から状況は変わっている。人間は溢れかえり、電気の総量は足りず、しかし寒気は厳しさを増し、暖がとれない家庭は夜を越せなくなった。霊柩車はひっきりなしで、父の容態は悪化した。そんな現状を救わぬ街を信仰する意味などあるのだろうか。

 全ては迷信だ。父が街と出会ったのも定かではない。でなければ、父の現状を、街は見捨ててしまっていることになる。そんなっことあってはならない。信仰など犬にでも喰わせれば良いのだ。

 私は教会へ向かう父の姿を鼻で笑い、より赤色灯をふった。そして本日二十台目の霊柩車を見送った。毎日同じような日々を送っているためか、同じ時間をループしているように感じる。ぶおんぶおん、とふるう音も一定だ。無限に続く時間が平たく伸ばされた。身体も立っているのか分からなくなる。どんどん薄っぺらく、身体ごと宙に浮き、意識が白んでいく。

 と、そのとき、平たく伸ばされた意識が、道路に倒れ込む一人の女性で断ち切られた。ぶお、と振るっていた赤色灯を停止する。私は息を呑んだ。

 すぐに女性に駆け寄り、抱き上げて歩道脇の安全な場へと運ぶ。褐色の肌に生気はない。瞼が動き始めて、女性は緑の澱みを瞳に泳がせた。そして徐々に私に焦点を合わせた。

 幼いときに父から伝え聞いた街の特徴と一致していた。

──私の髪に、男の子が悪戯したの。

 女性は懇願した。

──とってくれない?

 見れば髪はあちこちにダマができていた。私はよく分からぬままに、頷いてしまった。脇に座らせると、女性はすっくと背筋を伸ばした。

──申し訳ございません。気が動転してました。まずはお礼を。助けてくれてありがとうございました。

 いえ、と街とあまりにも酷似する姿にどぎまぎし、身体をカチコチとしか動かせなかった。そうしていると、女性の髪に触れられないと思ったので、思いきって尋ねた。

──まあ、私をそんなふうに思ってたんですね。そんなたいそうなものじゃありませんよ。

 それから、私は女性の髪の絡まりを手で梳いていった。黒髪は太く、意思を持っているようにうねっていた。しかも梳くうちに太くなっていく気がした。気が遠くなるような道のりに、女性は申し訳なく思ったのか、話かけてきた。

──私を街だと思っているのだから、そうとう街がお好きなのですね。

 いえ、むしろ嫌いだ、と私は告解した。

──考えは変わらないのですか。

 それとなく響いていた賛美歌が絶頂になり、神々しい高音が天から降り注ぐ。声が矢のように私達を貫く。それでも、私は、ええ、いつか出たいと思っています、と答えた。

 髪の中に難攻不落の絡まりの一本を見いだした。おそらくこれが悪戯をされた部分だろう。その一点に他の髪が巻きついている。もともと女性の髪は一本一本が逆立っており梳けない。

──いたっ。もう、それ切っちゃってください。

 解いた方が良いと思うのだが、逆立った毛が返しになってしまっていて抜もしない。確かに切った方が早そうだ。

──それにしても。

 私は彼女のその絡まりを、切った。

──お痛しちゃダメよ、坊や。

 私の手にはらりと、落ちてきた。

──あなたの父親はあんなに利口だったのに。あなたとは違って、ちゃんと信仰を約束してくれたし、考えを改めてくれた。少しでも街に信仰があれば救ってあげたんだけど。

 記憶が無理矢理再生される。

 私は裁ち切りばさみを持って、家の近くの有刺鉄線を切っていた。その家は、老い先短い老人が住んでいた。すぐ死ぬのだし、時期が早まっただけだ。父に暖をやりたかった。電気の総量は決まっている。この人を殺せば、その分、父に暖をやれる。そうして、私は初めてそれを切った。はら、はら、はらり、と有刺鉄線が切れていく。霊柩車が私の前にやってきて、何台も通り過ぎていく。まだ暖が足りない。父の容体は悪化してしまった。そういえば、この家は、ミサに行っていたっけ。私は有刺鉄線を見定めた。

 残されたのは霊柩車の排気ガスと火葬場の煙突から散らされる煤だけ。

──街のせいにして、あなたが間引いてるんじゃない、坊や。

 不要な人を間引いて何が悪い。

 思い切り髪をひっぱると、そこには黒の返しがついた、有刺鉄線が伸びていた。掌が赤で沈んでいる。

 先程まで髪を梳いていたはずだった。視界と記憶が塗り替えられていく。痛覚まで鮮やかに蘇りだす。女性の髪が私の手のひらの肌を突き破っていた。

 私は、有刺鉄線を梳いていたのだ。

 では、この有刺鉄線は、どの家の──

 切り落としてしまった有刺鉄線の先から、まさか、そんなわけは、と否定しながらも伝っていく。見覚えのある景色、その電柱。煤だらけの家屋から、無邪気な幼い私の声が弾け飛ぶ。

──私の、家だ。

 私の中の火が一気に火炎を巻いて、感情をかき回した。

 父は暖がないと、今日を越えられない。

 勢いよく走り出す。家にある修理工事をする会社を全て羅列する。血で印をつけて、受話器を取り、回転式のダイヤルを回した。だが、ダイヤルは血液で埋もれてしまう。血を掠れさせながら覚束ない手で円を滑らせる。コール音だけが耳元に虚しくたわんでいく。

 修理工事はひっきりなしに電話がかかってくる。追いついていないのだ。どこかは繋がるのではないか、と探った。一社、一社と消えていく。最後の一社になってようやく繋がった。あの、と私が声を上げて、切り出そうとするも、今日はいっぱいだと、残酷にも告げて切れてしまった。

 ぷらぁん、と受話器が垂れた。繋がっていた私たちの命とともに。

 父はどう思うだろう。あれほどまでに信仰していた街に見捨てられたのだとしたら。私が父のためにしていたことのせいで、父を死に追いやり、愛していた街に見限られた。そんなのあんまりではないか。あまりにも惨めで、苦しく、息が詰まった。せめて証拠を残さないように鋏を持ち、外へ出た。

 虚しく歩いていると賛美歌が終焉を迎えていた。神々しく澄みきった歌声に、有刺鉄線が楽しげに揺れている。街はその髪を揺らし私たちの死を望んでいた。霊柩車が道路を走り去り、排気ガスを私に吹きかける。

 街が、父を殺したのだ。

 あの艶やかな髪が忌々しく胸をかきむしりたくなる。

 こんな街など、なくなってしまえばいい。

 有刺鉄線を見定めて、刃を伝わせる。黒い有刺鉄線が刃の部分に反射する。ぞわりと這い寄ってくる、その影ごと、私は切っ た。ぷらっ と 跳ねたかと思っ たら、次には、はらり と優美に 垂れた。また次の有刺鉄線めがけて 刃を伝わせて切っ  た。 電気が ともりだした家が 停電する  次の 有刺鉄線を見定めて切っ た  ツギハギの街が  悲鳴 を 上げ てい る 。


─ ─ や めて 。


 そ の声を 断ち切 る。 命 の 灯 火 を 、 私  は 切 っ  て  い く 。 こ の 街 を 思 い  出 し  て い た  。 ツ ギ ハ ギ の 道路 。  頭 を  擡げる  大 人 た ち 。  そ の 首 を 切 っ て い く 。


 つ な  ぎ 止  め て  い  た の は 命 の 糸 だ っ た。

 そ れ ら が 、  消  え  て  い  く  。  街  の  風  景  が  消  え  る  。


 は は は 。


 ま  だ  残  って い る。父の 咳が 。私 の記憶が。 子供 の 落 書 きだったり 、たくさんある教会だ っ たり した 。 祈る 父の こと が 思い 出さ れ た。 


 私の頬は濡れていた。


 既 に 街 の  声  は  消  え  た  。   も     う    街      は    見    え    な     い   。     ど  こ    に     も     な     い     。   

そ     う       し      て          街       、    の        命        を       間        引     き   、      私             は         ば           ら            ば       ら        

   に               な    

      っ         て            、

          

消          



                 え       



 

       た        






 。

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