私が愛してやまない、殺虫剤の話をしよう。
「なぁ、聞いたか
垢嘗は牛鬼の耳元に近づくと、ひそひそ声で囁いた。
「メロンパンに乗っ取られちまうんだってよ」
「何が?」
「妖怪がさ、メロンパンに乗っ取られちまうんだって。最近の流行り病らしいぜ」
「……ちょっと何言ってるか全然分かんないんだけど」
牛鬼は前足で首をぽりぽりとかいた。
「妖怪が……なに? メロンパン? どういうこと? そもそも、メロンパンってなに?」
「お前、メロンパン知らねぇの? 人間が食う菓子パンだよ」
「菓子パン?」
「菓子パンっていうのは甘いパンのことで……もしかしてパンも知らない?」
「うん、知らない」
人間の生活と密着した妖怪である垢嘗とは違い、牛鬼は基本的に人里に下りない。山奥の神聖な滝つぼや湖にひっそりと暮らしながら、そこにやってくる人間をたまに食べて生活している。人間の社会が著しく発展しているという噂は他の妖怪から聞いていたが、実際に街に出たことは一度もなかった。
「お前さぁ、たまには街に下りてこいよ。こんな山奥に一人でいたって、つまんねぇだろ」
「ほっとけよ。僕はここが好きなんだから」
「相変わらず頑固なやつだなぁ。まぁいいや、で。メロンパンの話だけどさ。とりあえずそういう食べもんがあるんだよ。甘くて香ばしくて、一度食べたら病みつきになる味だぜ」
「ちょっと待った。さっきから気になってたんだけど、お前その、メロンパン? とかいうの、食べたことあるの?」
「あるよ」
「垢嘗なのに!?」
「お前まさか、垢嘗が垢だけ食べてると思ってんのか?」
「いやだって、名前からしてそんな感じだし……」
「お前はほんと、なんも知らねぇなぁ。そりゃさ、大昔は俺たちも垢ばっか食べてたよ。馬鹿みたいにぺろぺろぺろぺろ。でもな、時代は変わったんだ。人間は綺麗好きになって毎日毎日風呂掃除。風呂用洗剤なんてもんまで開発されて、どこもかしこもピッカピカよ。俺の知り合いが間違ってカビキラー舐めて死にかけたからなぁ」
「はぁ」
カビキラーというのがどういうものなのかは牛鬼にはとんと分からなかったが、話の流れ的に風呂場を綺麗にするための何かなのだろう。
「ま、要するにだ。垢嘗めて生活する時代は終わったんよ。垢なんてまっずいし、くせぇし映えねぇし」
「映えない」
「っていうかそもそも衛生的に口の中に入れること自体があり得ねぇよな。きもちわりぃ」
「祖先全否定じゃん。お母さん泣いてるよ?」
「最近の垢嘗界隈じゃスイーツが流行っててさぁ。今じゃ俺の友達の垢嘗なんて、朝から晩までアイスをぺろぺろよ」
「じゃぁもうお前たち垢嘗じゃなくない? その、なに? アイス嘗に改名したら?」
「ばっかお前。そもそも俺たちの名前なんて、閻魔大王に適当に先祖が付けられたもんじゃねぇか。人間が初めて名字をもらったときに、田んぼの中に住んでるから田中ってつけられたみたいなもんよ。垢嘗がなんで垢嘗って呼ばれるようになったか知ってっか? 舌がなげぇからだよ。ばっかみてぇだよなぁ。だったら舌長とでもつけてくれりゃぁいいのにさぁ」
舌長よりは垢嘗の方がゴロが良い気がしたけれど、口には出さなかった。
「で、でででで。でさぁ」
「癪に障るなぁ、その入り。絶対妖怪のしゃべり方じゃないよ」
「メロンパンの話しに戻るけど」
「そういえばそんな話してたな」
「最近、妖怪がメロンパンに乗っ取られる病気が流行ってんだよ」
「あー。二回目聞いても全然ピンとこないわ。なにこれ、トンチ?」
「だーかーら。存在がメロンパンになるんだよ。あ、見た目が変わるってわけじゃないんだぜ? 見た目はそのまま。あくまで存在がメロンパンになるだけ。だからメロンパンに乗っ取られてるって表現をしたわけ。ここまでオッケー?」
「オッケーなわけあるか。だーかーら、で繋いでいい内容じゃないよ。なにちょっと僕の理解力が低いみたいな言い方してんのさ」
「しょうがねぇなぁ。じゃぁもっと具体的に説明するよ。まず、その病気に感染した妖怪は、動かなくなる」
「なるほど。食べ物に乗っ取られてんだもんな。動かなくなるのは当然だな」
「んで次に、体からいい香りがしてくるんだよ。カリッカリのクッキー生地の上に塗られたバターが熱されて、湯気と一緒にあまーい匂いがフワッとさ」
「よく分かんないけど、恐怖で汗ばんだ人間のにおいと同じって考えればいい?」
「おい」
垢嘗はドスのきいた声で言った。
「俺のメロンパンを侮辱するなよ」
「あんまり詳しくないけど、たぶんお前のではないよね。独占欲強すぎて怖いんだけど」
「恐怖で汗ばんだ人間のにおいなんてさぁ……そんな妖怪みたいな例え方するなよ!」
「妖怪なんだよ。もしかしてお前、ただ舌が長いだけの人間なのか?」
「くそっ、さっきから話が脱線して進まねぇ! 俺はメロンパンの話がしたいのに!」
「あ、違うなこれ。ただのメロンパン好きの舌の長い人間だわ」
格は低くとも知名度の高い垢嘗が、ここまで落ちぶれるとは……。
時の流れとはなんとも嘆かわしいものだ。
さっさと話しを進めようと、牛鬼は続きを促した。
「で、メロンパンに乗っ取られた妖怪は、動かなくなっていい匂いがして、そのあとどうなんの?」
「カロリーが高くなる」
「……ん?」
「メロンパンってさぁ、すっげーカロリーたけぇんだよ。あぁカロリーってのは要するに、それを食ったときにどれくらい体の活力になるかっていう指標な。例えば人間の腕なら1キロでせいぜい1000キロカロリーってとこだな。ところがだ! メロンパンはなんと、1キロあたり3500キロカロリーになる! 甘くておいしくて、おまけにカロリーも高い! 最高の栄養源になるってわけだよ! どうだ、すげーだろ!」
「待った待った。ちょっと気になったんだけど」
「なんだよ、神妙な顔して」
「もしかしてお前……」
「そのメロンパンに乗っ取られた妖怪、食べたのか?」
「……」
「なぁ答えろよ、垢嘗。食べたのか? 仲間を、妖怪を、食べたんだな?」
垢嘗はすぐには答えなかった。
ぱしぱしと瞬きし、しばし何かをじっと考え、そして言った。
「……食べたよ?」
「お前……ッ!」
牛鬼は思いっきり前足を振り上げた。
そして身をすくめる垢嘗に向けて振り下ろし――
「ちゃんと妖怪やってんじゃ―ん!」
背中をバシバシと叩いた。
「な、なんだよ急に。テンションたけーな」
「なーんか腑抜けたことばっかり言ってるから、すっかり妖怪としてのプライドがなくなっちゃったのかと思って心配したじゃん! 病気にかかった仲間を食っちまうなんて、えぐいことするじゃんかー、このこのぉ」
「おい、やめろよ照れるだろ。おいあんまり体揺らすなって。おい、やーめーろ、やめろっt――メロメロメロメロメロ! メロォオオ!」
「……は?」
突然、垢嘗が謎の言葉を発して硬直した。
少し待つが、一向に話始める気配がない。
妙だな……。
牛鬼は不審に思って首をすくめ、足元にいた垢嘗をのぞき込み――そして気付いた。
「め、メロンパンに乗っ取られてる……!」
牛鬼はメロンパンと出会ったことはない。
けれど、垢嘗がメロンパンに乗っ取られているという確信があった。
垢嘗の姿は、あまりにも彼自身が言っていた姿形と似ていたのだ。
ピクリとも動かず、そして体中から、さっきまではなかった甘い匂いを漂わせている。
これがバターの香りだろうか。ふくよかに甘く、牛鬼が知っているどんな香りよりも蠱惑的だった。
と、いうことは。
「カロリーが、高い……」
牛鬼の巨大な胃袋が地鳴りのような音を立てた。
もう何か月も人間を食していない。
垢嘗の言う通り人間の持つカロリーは低く、一人や二人食べた程度では腹は満たされない。
昔は村に住む人間を丸ごと食べて腹を満たしたものだが……今ではそんなこともできなくなった。
「い、いや、メロンパンなんて僕は食べない! 妖怪っていうのは、古くからの在り方を捨てずに、芯を一本通して――んがぁっ!!」
ガブッ
気づけば、そんなきれいごとを口にしながら、牛鬼の口はメロンパン化した垢嘗を咀嚼していた。口の中いっぱいに芳醇な甘みと香ばしい小麦の味が飛沫のように広がっていく。
想像を超えた多幸感にめまいがした。これであと数年は人間を食べずとも暮らしていける気がした。
満足した牛鬼はそのまま身を丸めて横になり――
「メロッ! メロメロメロメロ! メロォオオ!!」
二度と動き出すことはなかった。
山奥からメロンパンの香りがする。
登山客の間でそう噂されるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
※
いかがでしたか?
これが私の開発した殺虫剤「メロン堕とし」であります。
「メロン堕とし」を服用した妖怪はメロンパン化し、さらにその妖怪を食した妖怪をもメロンパン化させることができるのです。蟻の巣コロリから着想を得たんですよ、んふふふふ。
……なに? 妖怪を殺す薬は殺虫剤じゃなくて殺怪剤だろうって?
いいんですよ、今や妖怪なんて虫みたいに湧いてんですから。細かいことは気にしない気にしない。
さぁさ、近年人間の世界に侵食してきた妖怪たちを根絶するのに、これほど効果的な薬はないと思われますよ。妖怪対策課のみなさまにおかれましては、ぜひぜひご購入を――
……え?
メロンパンである必然性、ですか?
デニッシュパンもカロリーが高い? クロワッサンもなかなかのもの?
はぁ……分かっていませんね。
開発というのは愛が必要なのですよ。何度も失敗し、挫折し、そのたびに心がくじけそうになりながら、それでも完成に向けて一心不乱に研究を重ねる。
何度も何度も目にする研究対象が好きでなければ、そんなことはできませんよ。
えぇえぇ、要するにですね。
私、大好きなんですよ。
メロンパンが、妖怪と同じくらいに、ね。
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