メロンパンとメロンパン
今日も仕事は昼前に一段落ついた。
安堵感半分、解放感半分で
「尾崎ってほんとにメロンパン好きだよな」
「当り前さ。俺の体の五割はメロンパンで出来ている」
「どんだけ食ってんだよ」
「ごめん、嘘だった。七割かもしれん」
「増えるか、普通?」
「人類というのはメロンパンが好きなものなんだよ。倉橋だって好きだろ? コンビニに行ったら新作のメロンパンを探すだろ? パン屋でまずトレーに載せるのはメロンパンだろ?」
「残念ながら、俺はあんまりメロンパンが好きじゃないんだ」
「なるほど、倉橋は人類じゃなかった」
マジメな顔の尾崎に「馬鹿言え」と笑って、倉橋は視線を落とす。
「ちょっとな。メロンパンには嫌な、というか不気味な思い出があるんだよ」
「その理由を聞かせろ。メロンパンに対する侮辱だったら俺が許さない」
「過激だな。まあ、いいけど……」
弁当を開きかけた手を止め、代わりに倉橋は話しだす。
あれは今から七年ほど前、倉橋が高校を卒業したときのことだ。
大学に入るまでの時間を使い、倉橋は一人旅に出かけた。友人との卒業旅行もしたのに一人でも出かけたくなったのは、高校を卒業に伴って少し大人になれた気がしたせいかもしれない。
行先として選んだのは京都だ。関東で生まれ育った倉橋にとって京都というのは歴史の授業やCMなどでしか知らない場所で、しかし知らないのによく知るこの不思議な遠さが憧れを抱かせる場所でもあった。
ウキウキとした気分で新幹線に乗り、京都駅で在来線に乗り換える。目的地は特に定めていない。ネットで情報も得ず、気が向いた先でふらりと降りて歩く旅だ。そうして気まぐれに移動を繰り返し、三日目の夕方に倉橋は一つの商店街へたどり着く。
小さな商店街だった。しかしシャッターが下りている場所はほぼ無く、八百屋、肉屋、魚屋、といった暮らしに必要な店舗が並んでいる。地元の人々はここで夕食の買い物などをするのだろうか、と興味深い気持ちで通り抜けると、正面には小さな稲荷神社があった。
「古そうだけどきちんと手入れてて、大事にされてるんだろうな、って分かる感じの神社だったよ。で……商店街の中でも稲荷神社に一番近い場所にあったのがパン屋だった」
「ふんふん。もちろんメロンパンもあったよな?」
「尾崎はそればっかりだな。まあ、あった。というかそこはメロンパン屋だったんだ」
「嬉しいことに世の中には、メロンパン専門店というものがあるからな」
「……俺が見たのは、お前が想像してるメロンパン屋とはたぶん、違うものだよ」
そのパン屋はくすんだ赤い屋根に黒っぽい木の壁をしており、木枠の窓や扉には
だけど見上げた場所にある看板の“きつねのメロンパン”というペンキ文字は剥げたりしていなかったし、店の中にはたくさんのパンが並んでいる。それで倉橋はせっかくだからと、摩耗した引手に指をかけたのだ。
ガタガタと音を立てて横に開けると、古い建物特有の匂いと一緒に甘い香りがふわりと流れてきた。だけど中には誰もいない。迷って倉橋は一歩だけ入ってみる。木の床がギシ、と鳴った。
入り口横にはトレーとトングがある。これを持ってパンを取るのだろう。そして、壁際の古い木の棚にはいくつもの――。
「メロンパンがあった。……いや」
倉橋は首を振る。
「商品カードにはメロンパンって書かれてたけど、あれはメロンパンじゃなかった」
最近のメロンパンはバリエーションも富み、さまざまな色や形をしたものもある。だけど基本的には『正円で』『パンにクッキー生地が被っていて』『網目模様があることが多い』はずだ。
「なのにそこのメロンパンは、こう……中央が盛り上がったアーモンド形をしてた」
「オムライスみたいな?」
「そう、そんな感じ。で、縞模様がついてた」
それはまるで、まったくの未知のパンが“メロンパン”を乗っ取ってしまったかのように見えた。なんだか気味が悪いな、と思ったところで細い声がした。
「いらっしゃい」
いつの間にか奥の扉が開き、着物姿の老婆が姿を見せていた。倉橋は文字通り飛び上がった。古い床がまたギシ、鳴った。
老婆は倉橋の方へ少しずつ近づいてくる。どこもかしこも軋みそうな床を、音もなく歩いて。
古い外観の古い店内、夕刻の光はほの暗い。歩く老婆は静かで、後ろには稲荷神社からの影が狐の形に伸びている。そして、店内に並んでいるのはとてもメロンパンには見えないメロンパン。
逢魔が時、という言葉が倉橋の頭をよぎった。昼と夜が移り変わる時刻は、人ではないものと会いやすい時刻なのだと。果たしてこの店の出来事は、どこからが現実でどこからが虚構なのだろうか。
老婆はついに倉橋の前まで来て、ゆっくりゆっくり顔を上向ける。
「おや。この
細い顔に細い目の老婆がニタリと笑う。細い目がより細くなった。その顔はまるで、狐の面のようだった。
倉橋の喉から引き攣った声が漏れ、考えるより先に足が動く。老婆に背を向けて全力で走った。少しでも立ち止まると狐の影や老婆が後ろから腕を掴んできそうで怖かった。
気がつくと倉橋は駅前のにぎやかな通りにいた。恐る恐る振り向いたが、狐の影も老婆も見えなかった。近くにコンビニエンスストアを見かけたので中に入ってみると、パンの棚にあったメロンパンは、倉橋もよく知る形をしたメロンパンだった。
「……てなわけで、しばらくはメロンパンも狐も稲荷神社も、見るのさえ怖かったよ」
「ふーん」
話を聞く間も口を動かしていた尾崎は、最後のメロンパンを口に押し込む。そうしてスマートフォンを取り出し、何やら操作して倉橋に差し出した。
「ほれ」
「ん?」
そこに映っていたのは紛れもなく、七年前の倉橋が見た“メロンパン”だった。
「な、な、なんで……」
「関西の方ではこれを『メロンパン』って呼ぶとこもあるんだよ。そんでよく見るメロンパンのほうは『サンライズ』って言うわけ」
「は?」
「まあ、関東出身の倉橋は知らないかもな―」
もぐもぐと口を動かしながら尾崎はスマートフォンを引き戻し、再び操作する。
「んで、倉橋が見た店ってのはこれじゃないか?」
「あーっ!」
渡された小さな画面の中で尾崎が肩を組んでいる相手は、忘れもしないあの小柄な老婆だ。Vサインをする二人の後ろには“きつねのメロンパン”という看板もある。
「幻じゃなかったのか……」
「ちゃんと存在するぜ。地域の方々に愛されて六十有余年、“きつねのメロンパン”は今やネット販売までするくらいの人気店だ」
「……さすがはメロンパン好きの尾崎、情報通だな」
「まあな。ってかこれ、俺のばあちゃんの店だし」
「えっ?」
狐によく似た老婆と、狸のような尾崎には共通点が見えない。そう言うと、尾崎は立派な腹をポンと叩く。
「パンを食い歩くようになって、ちょっと育ったかもしれん」
「ちょっとなのか?」
画面の写真は昼間だ。店からも老婆からも、あのときの不可思議な空気はまったく感じられない。
なんだ、と倉橋は肩から力を抜いて笑った。きっとこれが『枯れ尾花』というやつだ。
「尾崎はここのメロンパンを食ったことあるんだよな?」
「もちろん。だけど俺は“サンライズ”の方にハマっちまったから、ばあちゃんにはよく『あんたの舌は乗っ取られてもうたんや』って言われたもんだよ」
「おばあちゃんからすりゃそうだろうな。しかし……そうか。尾崎はここの店主の孫だったのか」
もう一度スマートフォンに目を落とし、倉橋はふと首をかしげる。
店の入り口はこの場所、稲荷神社の場所はこちら。角度から考えると狐の影が店の中に伸びるはずはないように思える。
まあ、店内に狐の置き物でもあったのだろう、立地からすれば不思議ではない。
そう考えて尾崎にスマートフォンを返そうとした倉橋は、画面上部に表示された時刻を見て「やばい」と叫ぶ。
「もうじき休憩時間が終わる!」
慌てて箸を取る倉橋を見ながら、尾崎はスマートフォンをワイシャツの胸ポケットにしまって呟いた。
「うーん。話してたら、ばあちゃん特製のメロンパンを食いたくなってきたな」
今や各地に散っている尾崎一族だが、ときどき祖母の作る特製メロンパンを食べたさにあそこへ戻ってくる。
尾崎だってメロンパン――サンライズが好きでたまらないけれど、祖母の作る“特製”は無性に恋しくなるときがあるのだ。
祖母が一族のためだけに作る特製メロンパン。
甘辛く煮た油揚げをメロンパンに巻く、他では絶対に食べられないあの味。
「次の休み、久々にばあちゃんとこに行こうかな。ちょっと面白い話も聞けたし」
メロンパン好きが高じて店も始めた尾崎の祖母は人との交流も好きだ。
七年前、「せっかく他のところの子が興味を持って店に来てくれたのに、何も買わず帰ってしまった」としょぼくれていたあのときの真相を知ったら、祖母はどう言うだろうか。
目を細めて笑う尾崎の顔は狐によく似ている。だけど周りも見ず必死に弁当を食べている倉橋は、珍しいその顔に気がつくことはなかった。
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