サンライズ・フロム・ラビュリントス

 無力感だけが、彼を苛んでいた。


 ――もう、ここまでか……


 周りの仲間たちの中で正気を保っているのは、もう自分だけだという絶望が、彼――ジロウに纏わりつく。

 彼の、いや、彼らの蜂起は失敗に終わった。


 明治の世、文明開化の頃より今に至るまで、彼らは神戸・異人館より地下につながる牢獄迷宮、通称『神戸怪廊』で強制労働に従事させられていた。

 ジロウは、神戸怪廊の外を知らない。この怪廊で生まれ、強制的な労働と質素な食事、ガラスランプの明かりと地下の壁から染み出す泥水だけしか知らなかった。


「みんな正気に戻ってくれやぁ……」


 絞るように声を上げても、彼らは虚ろな目でぐったりと座り込むばかり。視界に映る同族およそ100名余り、そのすべてが懺悔するように膝をつき、頭を垂れている。


 そのすべての頭には、メロンパンの皮。さくさくのビスケット生地の部分だけが非情にも張り付いていた。

 不意に、怪廊に声が響く。


「一匹、捕獲し損ねたか」

「誰じゃあッ!」

「河童風情が……管理者に向かって生意気な口を」


 ジロウはくちばしをぎりりと噛み、声のする方を睨む。


「おんしゃあ、ニンゲンとやらか……」

「そうだ。我々は、お前たち河童の面倒を見てやっているんだぞ」

「面倒を見とるじゃあ!? 搾取の間違いじゃろうが!!」

「知らずにいれば苦しむことも無かったものを」


 暗闇の向こうから、己とまるで見た目の違う者が現れる。ジロウと違ってくちばしも無ければ、肌にぬめりの一つもない。奇妙な見た目をした生き物だ。

 何より、頭に皿がない。毛で覆われていてシロウには不気味に思えた。


「……バケモンじゃの」

「違う見た目を忌避する程度の知恵はあるらしいな」


 姿を現したニンゲンは、手にメロンパンを持っている。あれだ。あれに皆やられたのだ。

 ジロウの背負っている甲羅が恐怖でぶるりと震える。


 自分たちが毎日毎日作らされていたものが、まさか凶器であるとは思いもしなかった。


「お前が最後だ……なに、手間が少し増えたが。今、楽にしてやろう」

「わしらの……仲間の皿に何をしたんじゃあ!!」

「メロンパン」

「……あぁん!?」

「その上にある、さくさくのビスケット生地。それを乗せれば貴様らは皿が乾いて動けなくなるのだろう?」

「……ッ! ニンゲンがなしてそれを知りゆうがか!!」


 投げつけられるメロンパンの皮。的確に皿を狙って飛来するそれを躱し、なおもシロウは吠える。


「くくく……外のことをやたら嗅ぎまわっていたお仲間がいただろう。確か、イチロウとか言ったか」

「イチロウ兄ぃに何しよぅた!!」


 ニンゲンが静かに笑う。含み笑いから徐々に高笑いへと変わり、ジロウをにやけた目で見る。


 イチロウは、この神戸怪廊の外を知る唯一の河童だった。同じ怪廊生まれではあったが、しょっちゅう労働を抜け出して外に出ていた。

 河童連中に蜂起を促したのも彼だ。労務として強制的に作らされているメロンパンが、地上でニンゲンたちによって販売されていることも教えてくれた。イチロウは、この怪廊の真実にただ一人気づいた河童だったのだ。


「ふひひひははは!! 河童の弱点をわたしに教えてくれたのは、そいつだよ!! 自らの安全と引き換えにしてくれと懇願されてなぁ!」

「……ッッ!? う、嘘じゃ!!」

「はぁーっはっは!!! 滑稽! 滑稽なものだな! 貴様ら河童どもは、じめじめした怪廊でメロンパンを作り続けていればよかったのだ!!!」


 膝から力が抜けそうになるが、ジロウは何とか踏ん張りその場から逃げ出した。

 くちばしを食いしばり、ニンゲンの台詞から逃げるように。


 ――イチロウ兄ぃが、わしらを裏切るはずがないがじゃ……じゃが、ほいじゃがッ!


 涙が滲む。

 信じられない。


「ふはははは! 逃げろ逃げろ! この地下迷宮、神戸怪廊からは決して出られんぞ!!」


 ニンゲンの声が遠くなっていく。

 ジロウは振り返ることなく怪廊を駆けた。


 〇 〇 〇


 入り組んだ怪廊を走り、メロンパンを製造している工場エリアに身を潜める。


「嘘じゃ……ニンゲンの言葉なんぞ、嘘に決まっとる……」


 機械がすべて停止している工場エリアで、ジロウの声は思いのほか響いた。

 24時間3交代制で常に稼働していたこのエリアが停まっているのは、河童たちの蜂起によって労働力が無くなっているからに他ならないが、その河童たちもみな、メロンパンを被せられて無力化されている。


 自分の呼吸が聞こえるほど静かな場所は、いっそ不気味ですらあった。

 照明も最低限になり薄暗い中で、ジロウの涙が一筋、床に落ちる。


おれのアホぅが、泣くな。泣いても皿が乾くだけじゃろうが……」


 イチロウは、いつか外へ出たいと夢を語っていた。その言葉がジロウの脳裏に浮かぶ。


『知っとるか、ジロウ。外の世界には天井がないんじゃ』


『行ってみたいのぉ、もちろん、おんしと一緒にじゃ』


『いっとうバカでかい水たまりをな。海、ちゅうらしい』


『いつか、必ず見にいくがじゃ。約束じゃ』


 涙は、うずくまった彼の足元に小さく水たまりを作っていた。イチロウの語るそれは、いつしかシロウの夢にもなっていた。

 水かきでぐいと顔を拭う。


「一緒に行く言うたがよ、イチロウ兄ぃ……」


 その時。

 ばつん、と工場の機械に電源が入る音がした。


 低く唸る音と共に再稼働する機械群。


「なんじゃ……!? いまは誰もおらんはず……」

「馬鹿な所に逃げ込んだものだなぁ! さすが河童は知恵が足りないとみえる!!」

「ニンゲン!!」


 生産されはじめるメロンパン。コンベアで流れていくそれらを掴み、次々とジロウに向かって投げつけてくる。


「そらそらそらぁ! ここならばいくらでもメロンパンがある! お前は自ら窮地に逃げ込んだのだよ!!! 諦めて乾いてしまうがいい!」

「く、そがぁ……!」

「どうだ!! 作りたてはより一層ぱっさぱさだろう!!!」


 皿への直撃は避けるが、散弾のように襲い来るメロンパンは、腕を、足をかすめ、そのたびシロウの肌から水分を奪う。

 ぱさぱさとしたメロンパンが河童の水分を奪うのは、自明。逃げ続けていたジロウは、やがてがくりと膝をついた。


「よく逃げた方だが、そろそろ終わりだ」


 ニンゲンが両の手に大量のメロンパンを抱えジロウに向かってとびかかってくる。

 絶体絶命。あれほどのメロンパンを叩きつけられては無事では済まない。


 ――ここまでか


 干からびることさえも覚悟したシロウ。


 だが。


 彼の視界の隅から、疾風の如く迫る一人の河童の姿があった。大きく見開かれたジロウの目に映る、よく見知った兄の姿。


「イ、イチロウ兄ぃ……?」

「この瞬間を待っとったんじゃ!! 伏せぇ、ジロウ!!」


 兄の声に、反射的に腕を甲羅に引き込み、首をすぼめる。

 メロンパンを抱えて両手が塞がれているニンゲンは身動きが取れない。イチロウは、製造されたばかりのメロンパンをコンベアから掴み、その口にねじ込む。


「ぐふぉ、お、おご……ぁぁぁ!!」

「一つでは足りんじゃろう! ジロウの分も喰らえっちゃあ!」


 二つ、三つとニンゲンの口にメロンパンを押し込み、口の中の水分を奪っていく。

 仰向けに倒れ、目を白黒させているのもお構いなしに、さらにイチロウはメロンパンを掴んだ。


「しまいに、こいつは仲間たちの分じゃあ!!」


 メロンパンを叩きつけ、ニンゲンの意識を完全に刈り取る。

 びくりと一つ跳ねて、それきりニンゲンは動かなくなった。


「ぱっさぱさじゃけぇ、さぞ喉に詰まりやすかろうて。両手が塞がったのが運の尽きじゃったな」

「……イチロウ兄ぃ!?」

「おう、ジロウ。待たせて悪かったの」

「兄ぃ……、手が、手が干からびとるがじゃ……!!」


 できたてのメロンパンを掴んだのだから、イチロウの手も当然無事では済まない。

 しおれた枝のようになった手を振って、それでもイチロウは呵々と笑った。


「なぁに、きゅうりでも齧れば治るき。それより、こいつを人間に突き出すんじゃ。手伝ってくれんかや」

「ニンゲン……? こいつがそう・・じゃないがか?」

「あほう。こない毛むくじゃらの人間はおらん。そもそも人間はな。体に布を巻いとるもんじゃ」

「……ほいたら、こいつは……?」

「んはは。ゆっくり説明しちゃるき、まずは手ぇ貸しんさいや」


 〇 〇 〇


 ジロウが人間だと思っていたのは、狒々猿ひひましらと呼ばれる妖怪で、人の真似をすることを好むのだという。

 縛り上げた狒々猿を人間に引き渡し、二人は怪廊を出口に向かって歩いていた。


「人間とやらは、ほんに布を体中に巻いちょったな」

「服っちゅうんじゃ。狒々猿が人の真似事をして、河童を地下に閉じ込めちょったことも、はじめは信じてくれんかったき」

「そないなことが……」


 明治のはじめ頃は、人間の管理のもと秩序が保たれていた神戸怪廊だったが、人の寿命は妖怪よりも短い。

 次第に、神戸の地下に河童がいることは人々に忘れられていった。


 そこを狒々猿に乗っ取られ、メロンパンを使った荒稼ぎの道具として河童たちは搾取されていたのだ。

 イチロウはただ一人それに気づき、妖怪による乗っ取りを地上にいる人間に明かして、助けを求めたのだった。


「猿の身柄と引き換えにわしらは自由じゃ」

「……地下暮らししか知らんぞ」

「そこも話をつけゆう。働きたいもんは、変わらず働かせてくれるがじゃ」


 福利厚生面を大幅に改善し、寝食の保障と共にわずかだが給金も出るように、イチロウは手を回していた。


「さて、出口じゃ」


 怪廊の外は、薄暗かった。確かに地下にはない風の音や木々のざわめきがあったが、地下のガラスランプの下の方がまだ明るい。


「兄ぃ。これが外か? 地下と大して暗さが変わらんぞ」

「……見てみぃ」


 イチロウの指さす先。山の端から、丸く明るいものが上がってきた。できたてのメロンパンよりも赤いそれを、兄弟は並んで見た。


「ありゃ太陽じゃ。あれが、ジロウと見る初めての夜明けぜよ……!」


 二人は怪廊を出てそのまま旅に出た。

 やがて遠く別の地、長野で出会った河童たちと共に新たな事業を興す。

 後の、かっぱ寿司である。

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