『満月の夜に吹く風は』

 その夜は見事な満月だった。やっとの思いで残業を片付け帰路につく。ふと弱弱しい鳴き声が聞こえて、あたしは辺りを見回した。道端にメロンパンが落ちていた。『にゅうぅ……』と情けない声で鳴きながら、ふるふると震えている。野良なのだろうか。周りのクッキー生地はひび割れてところどころはげ落ちている。相当弱っているらしい。そのまま通り過ぎることもできたはずなのに、自然と足が止まってしまったのはなぜだろう。社会人一年目にしてすでにぼろぼろの自分の姿と重ねてしまったからなのかもしれない。


 胸の奥がちくりと痛んだ。忙しさに追われ、何かに心を向ける余裕なんてずっと忘れていた。何をしても楽しいと思えず、自分が何を好きだったのかすら思い出せなくなっていたのだ。『にゅ……ぅ』か細い声に我に返ると、助けを求めるようにメロンパンがあたしを見上げていた。そっと手に乗せると、手のひらに体を摺り寄せてくる小さなメロンパン。それはもう、可愛かった。疲れてささくれだった心がほっと癒されたような気がした。そのまま置いていく気にはなれず、あたしはメロンパンを連れて帰ることにした。

 

 とりあえず水を――小さな安アパートに着き、コップに水を注ぎながらふと思った。メロンパンは水を飲めるのだろうか。そもそも何を食べるのだろう。急いで調べると、どうやらバターと砂糖が好物らしい。水分は厳禁。危うくふやけさせてしまうところだった。慌てて水を引っ込め、スティックシュガーを出してみた。よほどお腹を空かせていたのか、メロンパンはすぐに砂糖に夢中になった。よかった、ちゃんと食べてくれた。あたしはほっと息を吐いた。メロンパンはぷるぷると体を揺らして喜んでいるようだった。

 

 翌朝、メロンパンはティッシュの上ですやすやと眠っていた。あたしはもう一枚ティッシュを出すとそこにスティックシュガーを二本分開けた。「帰りにバターを買ってくるからね」そう言って家を出た。その日はメロンパンが一人でどうやって過ごしているのかが心配で、なかなか仕事に集中できなかった。上司に怒鳴られ、同僚にも嫌味を言われたが、メロンパンのことは誰にも話さなかった。早く帰りたい日に限って特に大量の雑用を押し付けられる。残業しながら、あたしはやっぱりメロンパンのことばかり考えていた。

 

「ただいまっ」ばたばたと靴を脱ぎ捨てたあたしの目に最初に飛び込んできたのは、部屋中を跳ね回るメロンパンだった。 本棚をぴょんと飛び越えたかと思えば、今度はカーテンにぶつかって逆さに転がっている。置いていった砂糖は綺麗になくなっていた。「あんた、元気になったのね」声をかけるとメロンパンは『にゅん』と返事をした。「ごめん、バター高くて買えなかった」謝るあたしにメロンパンは静かに首を傾げた。メロンパンの首がどこにあるのか知らないけど。マーガリンを食べるメロンパンはなんだか嬉しそうだった。

 

 やがてメロンパンはすっかりふわふわになり、ぼろぼろだったクッキー部分も綺麗になった。あたしはメロンパンに『ヤキタテ』と名前を付けた。ふんわり焼きたてのいい香りがするから。ヤキタテはおしゃべりだった。何を言っているのかさっぱり分からないけれど。『プルプル……ポコポコ……』「ええっと、もしかしてバターが欲しいって言ってる? ……ってマーガリンしかないけど」『ヴィィィン……ポポポポ……』心地いいこえを発して跳ねたり転がったりするヤキタテが可笑しくて、あたしは久しぶりに声を出して笑った。


 仕事は順調とは言えず疲れ切っていたあたしにとって、ヤキタテとのひとときは唯一の癒しだった。もっとも、ヤキタテもいつもお利口にしていた訳ではない。はしゃぎすぎてあたしのお気に入りのマグカップをひっくり返してカフェオレでびしょ濡れになったり、『ぴにゃっ……』と妙な声をあげて、ベランダを通りかかった野良メロンパンに慌てふためくこともあった。案外メロンパン見知りなのかもしれない。少しだけ厄介で、でもとても温かい時間だった。やんちゃすぎるのは困るけど、ヤキタテはいつだって可愛かった。

 

 次の満月の夜、月はやけに大きかった。家に帰るとヤキタテがいなくなっていた。あたしは半狂乱になってヤキタテを探した。どこを探しても見つからず、座り込んだところで微かな風を感じた。窓が少しだけ開いている。『クッカッカ! プルッポ!』ヤキタテの興奮した声が聞こえて、あたしはベランダに飛び出した。ヤキタテは空に浮かんでいた。「ヤキタテ!」思わず叫ぶ。ヤキタテはくるりと一回転して一直線に戻ってきた。「あんた飛べたんだね、知らなかった」ヤキタテはまだ興奮した様子で『にゅにゅにゅぅん』と早口で鳴いた。


 何とも言えない妙な予感がしていた。ヤキタテがいつか本当にいなくなってしまうのではと不安で不安で。数日間注意深く観察したが、それ以来ヤキタテが勝手に外に出ることはなかった。その代わり、窓の外を見つめてぼんやりと過ごす姿を度々見かけた。気にしすぎだろうか、その後ろ姿はどこか寂しそうで、まるで何かを隠しているようにも見えた。それでも、ヤキタテがいつも通りマーガリンをおねだりしたり、部屋の中で飛び跳ねたりする様子を見ると、ああやっぱりいつも通りなのだと少しだけ心が軽くなるのだった。


 その次の満月はとんでもなく大きかった。今夜も残業だ。あたしはなぜか胸騒ぎが止まらなかった。そんなはずはないのにそこらじゅうが香ばしい甘い香りでいっぱいだった。ふとヤキタテの声が聞こえた気がして、あたしは立ち上がった。同僚たちの不審そうな視線、キレる上司。でもそんなものどうでもよかった。気が気じゃなくて、あたしは会社を飛び出した。残った仕事は明日埋め合わせすればいい、今はヤキタテが最優先だ。たった五センチのヒールが邪魔をする。何度も転びそうになりながら、アパートまでの道を走った。


「ヤキタテ……!」甘い香りを乗せた風が吹いてくる。ヤキタテは夜空に浮かんでいた。隣に輝く大きな丸い物体、その正体に気づいてあたしは度肝を抜かれた。それは満月なんかじゃなかった。夜空に浮かぶ巨大なメロンパン。――妖……怪? 信じられないけど、でもそんなことより……。「待って、あたしを置いて行かないでっ」あたしはついに座り込んだ。本当は呼び止めたいのに、追いかけたいのに、体が言うことを聞かなかった。「いつもマーガリンばっかでごめん、今度とびきり美味しいバター買ってくるからあっ」


『にゅう……ポポポ……』ヤキタテは一度、巨大メロンパンをゆっくり振り返った。巨大メロンパンの表面が優しい光を帯び、微笑んだように見えた。それが合図だったように、ヤキタテがあたしの元へと降りてきた。両手を差し出しそっと受け止める。ふわりと触れた瞬間、ヤキタテの意識が流れ込んできた。全部わかる。こんなの初めてだ。――ああそうか、ヤキタテは迷子だったんだ。やっと、帰れるんだね。甘い風の向こうにいる家族のところに。一年に一度、が地球に一番近づくこの特別な夜に、やっと……。


『イッショニイテクレテアリガトウ、タノシカッタ』今度はヤキタテの声ではっきりとそう聞こえた。嬉しそうで、それでいて寂しそうな気配を感じ、思わずぎゅっと抱きしめた。「ありがとう、あたしも……あたしも楽しかった」声が震えた。でも、笑顔で見送ってあげたかった。「元気でね、ヤキタテっ……」『ポポポポ……ククク……』ヤキタテが笑うと、あたしの手元で何かが明るく光った。それはヤキタテの欠けらだった。ヤキタテは飛び跳ねるように回転しながら巨大メロンパンの中心に吸い込まれていった。


 しんとした部屋に一人。あたしはヤキタテの残した欠けらを眺めてた。種みたいだ、そう思った自分が可笑しくて少しだけ笑えた。置きっぱなしだったあのマグカップ、ヤキタテが倒した拍子に欠けてしまったお気に入りのマグカップに土を入れ、そっと欠けらを埋めた。その上にちょびっとのバターとスティックシュガーを一袋。でも何日たっても何も起こらなかった。相変わらずの激務の中、ただ機械のように仕事をし、帰ったら顔も洗わずに寝落ちする日が増えた。もうたぶん、あたしには何の感情も残っていない、そんな気さえした。


 また満月の夜がやってきた。ふらつきながら玄関を開けると、懐かしい甘い香りがした。吸い寄せられるように香りの元を目指す。マグカップからは小さな芽が顔を出していて、あたしの帰りを待っていたかのようにふるっと揺れた。ヤキタテの香りだ。あたしの中でずっと張りつめていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた。「ヤキタテ……っ」名前を口にした途端、目の前が一気にぼやけた。嗚咽とともに、胸の奥に溜まっていた重苦しいものが静かに流れ出ていく。代わりに温かい甘い香りが空っぽになった心をじんわりと満たしていった。


 リフレッシュしよう。そう思えた。少し立ちどまってみるのも悪くない。誰に何を言われても、あたしの意思は変わらなかった。だから、きっぱりと会社を辞めた。あまりにも毅然としていたせいか、何かに取り憑かれたとか、乗っ取られたとか、そんな風に噂されていたらしいが、もう関係のないことだ。ヤキタテが見守ってくれている、そんな揺るがない確信があった。あたしはそっとスマホのメモ帳を開いた。どうしても書き残したいと思ったのだ、あの不思議な日々を、あたしとヤキタテの物語を。タイトルは、そう――『満月の夜に吹く風は』。


 少しだけ窓を開ける。かつての巨大な「月」が静かにあたしを見ていた。部屋の隅で『にゅ、にゅっ……』と楽しそうに遊ぶヤキタテの姿が見えた気がして、「ふふっ」と笑い声が出た。さあ、物語の続きを書こう。淡い光に照らされた部屋でマグカップの小さな芽がぷるんと揺れ、風が甘く吹き抜けていった。

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