神戸あやかしベーカリー『ふかふか』の日常

 神戸の繁華街の裏路地に、ひっそりとしたパン屋がある。

 看板の形は綿雲で、『ベーカリーふかふか』と書かれているそのパン屋。

 深夜から午前にかけて開店するそのお店には、特別なお客様が訪れる。

 その特別なお客様に、二代目店主の美雲みくもは頭を悩ませていた。


「カメとカタツムリの縄張り争い?」

「正確には亀の妖怪と蝸牛の妖怪たちの縄張り争いだ。君にも手伝ってもらいたくて」


 深夜二時の丑の刻。

 常連客でもある話し相手がコンコンと笑った。


 白銀の長髪に隠れた耳はピンと立ち上がった三角形。現代日本じゃ珍しい、古風な狩衣に身を包み、お尻からはもっふもふの大きな尻尾が生えたお客様。


 妖狐の裏柳うらやなぎが、カウンターでパンの耳を袋詰めしていた美雲と顔を突き合わせて教えてくれる。ちなみにこのパンの耳は裏柳が買った分だ。このパンの耳をどうするのかは、美雲は知らない。


「手伝うのはいいけど……私、何もできないわよ?」


 美雲自身は普通のパン屋の店主だ。裏柳のように妖狐でもなければ、他のお客さんのような妖怪でもない。だ。


 裏柳は百も承知だと言わんばかりにコンコンと笑う。それから指を一本立てて、美雲に耳打ちした。


「簡単だ。美雲はな、いつも通りにパンを焼けば良い」

「パンを?」

「そうだ。あれがいいだろうよ。人間の巷には、亀の甲羅を模したパンがあるじゃないか」


 亀の甲羅を模したパン? と美雲は首をひねる。一瞬、何か分からなかったけれど、それが別のパンのことを指しているのだと気がついた。


「もしかしてメロンパンのこと? あれ、メロンよ。亀じゃないわ。乗っ取らないで」

「なんだ亀じゃないのか」


 裏柳がきょとんとまばたく。美雲はこっくりと頷きつつ、パンの耳の詰まった袋をカウンターの上に置いた。


「メロンパンくらい、作ってもいいけど……何に使うのよ」

「そりゃもちろん、お祭りだ」

「お祭り?」


 縄張り争いの話だったはずなのに、なぜお祭りになるのか。美雲がキャッシャーにパンの耳の金額を打ちこんでいる目の前で、裏柳は嬉々として話を続ける。


「亀も蝸牛も、わてのように強くはないからな。脆弱な妖怪同士が争っても何も旨味はない。そこでだ。代理戦争をすることにした」

「代理戦争?」


 話がまたおかしな方向に行きそうで、美雲は胡乱げな表情になった。キャッシャーに打ち出した金額表示を指差せば、裏柳は懐から布財布を取り出して。


「甲羅のパンで亀を作り、渦巻きのパンで蝸牛を作る。作ったパンで相撲を取って、買ったほうがその縄張りの正当な主となればいい。どうだ、面白そうだろう!」


 裏柳が千円札を美雲に渡す。

 聖徳太子が描かれている千円札を無言で受け乗りながら、美雲はおつりを裏柳に返す。


 美雲の頭の中には、先代店主の祖父の言葉が蘇っていた。


『パンを食う必要のない妖怪がうちに来る理由はな、一つだけだ。パンで遊ぶ。罰当たりだとか思うなよ。向こうには本物の神様がいる時だってあるんだ。だから美雲、これだけは忘れるんじゃねぇぞ』


 やれやれ、と美雲は肩をすくめる。

 祖父の言うとおりだ。妖怪相手のパン屋なんて、いつ何が起きるか分からない。だからこそ、忘れちゃいけない言葉がある。


「遊び心がいっぱいのパン、作ってあげるわ」


 そうこなくては、と裏柳がコンコンと笑った。






 美雲が亀と蝸牛が縄張り争いをしているという池にまで来ると、もうすでに観客の妖怪たちがどんちゃんしていた。


「この日を待っていたマイ」

「こっちだってカメ」


 わかりやすいけど、なんかそうじゃない語尾感のある妖怪が二匹、ガンを飛ばしまくっている。


「お祭り状態ね」

「そらそうだろう。小さきモノの縄張り争いなんて、そうそうないからな。ここで勝ったほうは間違いなく妖怪としての格があがるだろうよ」


 美雲の隣に立つ裏柳がコンコンと笑う。

 そういうものなのかと思いながら、美雲は今にも一触即発な亀と蝸牛の妖怪たちを眺めた。やんやと囃し立てる周囲の妖怪たちの熱気に煽られて、亀と蝸牛が同時に動く。


 ゆったり。

 のったり。


「……これ、勝負が始まるまでどれくらいかかるの?」

「あの二匹、あそこの木の根のところからずっと喧嘩しているんだが、この位置に立つまで三日かかってる」

「また明日にでも呼んでくれるかしら」


 池からちょっと離れたところにある木を指した裏柳を見て、美雲は踵を返したくなった。


「まぁまぁ、そう言わず。この熱気が冷めやらんうちに、わてが音頭を取ってやるから」


 コンコン笑った裏柳は烏合の衆の輪から外れると、堂々とした足取りで亀と蝸牛の妖怪の間へと割って入った。


「待たせたな。良いものを持ってきてやった」

「裏柳さま!」

「お待ちしておりました!」


 亀と蝸牛の妖怪が、待ってましたというように裏柳を慕う。さすがこのあたり一帯の大地主的妖怪だと、今さらのように美雲は頷いた。


 その裏柳が、池の上に木の葉を一枚置いた。

 葉はみるみるうちに大きくなる。


 その様子を見下ろしながら、裏柳は懐から何かを取り出した。


 一つは美雲が焼いた亀形メロンパン。

 もう一つは蝸牛形デニッシュロールだ。


「小さきモノは今そうして生きているだけでも愛おしい。お前たちが傷つくのは、わても本意じゃないからな。この形代カタシロに妖力をまとわせ、相手を文字通り『形無し』にしたほうを勝ちとしよう」


 つまり池に落としてパンをぐずぐずにしたり、パンを千切って細かくしたり。相手のパンのアイデンティティを奪ったほうが勝ち、らしい。


 美雲としてはせっかく焼いたパンだ。おいしく食べてもらいたいけれど、妖怪たちのすることにいちいち口を出していたら身が保たない。大人しく成り行きを見守ることに。


「それじゃ、始めて良いぞ」


 裏柳がメロンパンとデニッシュロールをぽいっと投げる。

 大きくなった葉の上ではなくて、池へと真っ逆さまになったパンを見て、美雲は悲鳴をあげた。


「ちょっと私のパン! 葉っぱの上に置くんじゃないの!?」

「勝負は始まってるんだ。ここで何もできなきゃ、この池の主になんて到底なれんわなぁ」


 コンコン笑う裏柳を睨みつけて、美雲はメロンパンの行方を追う。可愛い亀の形をしたメロンパンは、無残に池に沈むと思って。


「ふんぬぁー!」


 気合の入った掛け声とともに、水面を歩行し始めた亀形メロンパン。美雲は思わず拍手した。


「よくやったわ、亀!」

「美雲、蝸牛もなかなかだぞ」


 裏柳に耳打ちされて、美雲はデニッシュロールのほうを見る。蝸牛のようなデニッシュロールはものすごい勢いでスピンして、裏柳の設置した葉っぱの上に登壇した。


 亀のメロンパンと蝸牛のデニッシュロールが、水上の木葉を舞台に対峙する。


 ここから熾烈な争いが始まった。


 亀のメロンパンが手足を引っ込め甲羅メロンパン横滑りスピンをすると、蝸牛も殻デニッシュロールの縦回転スピンで真っ向から迎え撃つ。

 攻撃力・防御力ともにメロンパンのクッキー生地が勝り、デニッシュロールの柔らかい表面をゴリゴリと削っていった。


「なかなか、やるマイ」

「負けを認めるカメ?」

「なんの!」


 蝸牛がデニッシュロールに妖力をこめた。

 瞬間、デニッシュロールの渦巻き部分がみるみるうちに剥がれ、一本の紐状に変わる。うねうねと蠢いて甲羅メロンパンに絡みつき、水へ沈めようとする。

 甲羅メロンパン、堪える、堪える。

 綱引きのような膠着状態。

 観衆も固唾をのんで見守っていて。


「お。釣れたみたいだな!」

「何が?」

「うまそうな匂いにつられた奴だよ」


 裏柳だけが知った顔でにんまり笑う。

 美雲が訝しげに裏柳が指し示すほうを見る。


 決闘場となっている池の葉。の、下。


 大きな影が浮上してきて。


「あ。」

「カメー!?」

「マイー!?」


 異様に大きな鯉が大きな口を開け、池の葉っぱごと、メロンパンとデニッシュロールを飲み込んでしまった。


 亀と蝸牛は池のほとりで放心してる。

 観客の妖怪たちはやんやと大騒ぎ。

 裏柳もコンコン笑っている。


 美雲は呆気にとられたまま、裏柳の袖をつんっと引っ張った。


「これ、勝敗は?」

「この池のヌシである大鯉殿の勝ちだな」

「……あんた、分かっててこの勝負をさせたの?」

「すでに主のいる池で、縄張り争いをするんだ。大鯉殿の池を乗っ取る勢いがなければ、とうてい認められんさ」


 こういうことをするから、妖怪たちとの付き合いはひやっとする。

 美雲が肩をすくめていれば、裏柳は彼女の耳へと唇を寄せて耳打ちしてきた。


「まぁ、大鯉が出てきたのも、どこぞの誰かさんのパンが美味しかったからだろうよ」

「それ、ぜったいに私のパンじゃないわよね?」


 池の中にパンくずを落としまくっていたのは蝸牛のデニッシュロールだ。美雲が作ったのは亀のメロンパンだけだから、大鯉が誘われたパンくずは美雲の作ったパンじゃない。脳裏にちらつくのはライバルらしき存在の影だ。


 裏柳の手のひらで転がされるようなことだけは避けたいと思うのに、気がついたらこの妖狐の術中にはまっているのだからタチが悪い。


 次は一体何を企むのやらと、美雲はため息をついた。






 裏柳がその袂に、パンの耳の袋を忍ばせていたことも知らないで。

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