さらば愛しのめろんぱん侍

 丑三つ時、火の用心が拍子木を打ち鳴らすその深更よふけに、それは起こった。


「これ、これ小童!」

「へへんだ。やい、それでも侍かッてンだ」

「ええい、待たんか!」


 の町を駆ける影法師がふたつ、片や小柄で、他方は提灯を揺すって忙しなく往き来している有り様。

 一見すれば情けない侍一匹、子供ひとりに出し抜かれているといったご様子。


 ところがどっこい──


「そのを返せッ」


 いささか、われらの道理をも外れた事態のご様子だった。



      ※



 ことの起こりは、こうだ──


「そもそもどういうことから始まったのか、言ってみい」

「それがさ、ぼくにもわかんないんだな」

「そうか、そうか」


 と言ってから、侍、


「──て、それで納得するわけはなかろう」

「だって」


 少年は、場違いなの裾で、涙を拭う。


「だって、ここは江戸東京博物館じゃないんだろ?」

「そのはくぶつかん、というのは」

「ほらみろ」


 少年はめそめそ泣いていた。

 侍は慌てるやら、怒るやらで忙しい。


「ええい、怒るな。貴殿はの子だろうが」

「うるさい」


 サッと顔を深く伏せて、


「ぼくァこんなとこで死ぬのは嫌だよ!」


 わんわん泣き、侍は、あたふたと、それでも怒るほどの図々しさも持てぬまま、


「いいから、いいから。何があったか、少しずつ話すがよいぞ」


 と言っている。


 しかしそのときだった。

 腹の音がごう、と鳴った。

 なんなら、ごう、ごう、と鳴った。


「腹が減ったか」侍の問いに、うなずく。「では握り飯をやろう」

「いい」

「しかし──」

「ぼくこれ持ってきたもん」


 懐中ふところから取り出したのは、ビニール袋に包んだなるものだった。

 侍、いかにも興味津々といった具合で、「ほう」と言った。


「おもしろいものを持っている」

「食べる?」

「よいのか」

「その、おにぎりと交換ね」


 ふたりは食べた。少年はふつうに頬張ったが、侍はなるものを口にして、その甘さと食感とに大いに目をみはった。


うまい」

「でしょ」

「じつに、うまい」


 がつがつと頬張り、すっかり腹がくちくなると、侍は微笑んだ。


「ぼく悟っていうんだけど」

「ほう、さとる殿か」

「殿って」

「なに、これほど甘いものを食せるとは、どこぞの高家しか、おらんでな」


 しかし──と、侍、悟少年の髪型がいかにも斬新なことに驚いて、感心している。


の髪によう似とる」

「よせやい、正真正銘の日本人だい」


 少年は居心地悪そうに身をゆすった。


「おじさんは?」

「おじ、」

「おじさんの名前は」

「ええい、拙者は二十六だぞ」

「十分おじさんだよ」

「…………」

「いいから、名乗ってよ」

「う、うむ」


 侍はやけにかしこまって、


「拙者、小関藩小豆郷の善哉太郎右衛門と申す」

「おせきはんのあずきぜんざい?」

「ちがう、ちがう」

「でも、そう言ったじゃん」

「おきはん、あずきごう、ぜんざい・たろうざえもん」

なのにメロンパンが気に入っちゃったの?」

「ええい、うるさいぞ小童」

「あ、じゃあメロンパン返して」


 と言って、悟少年はすこたらさっさと駆け出してしまった。


 それで、冒頭に戻るといった次第──


 少々筆者が口添えをしなければなるまい。


 当事者の口を借りてあれやこれやを語らせてはみたものの、これでは一向に読者諸賢にはなにがなにやらわからぬと見た。


 そこで余計なおせっかいを加えてものごとをほんとうの始まりに向かってさかのぼり、語り直してみせよう。

 これぞ噺家はなしかの腕の見せどころ──

 さて、少年の名前は悟というが、その本名はじつに平々凡々な苗字であり、山田悟というのである。かれはありふれた平成の世の中に生まれ落ち、ありふれた幼稚園生活とありふれた小学生生活を送っていた。


 しかし家族仲が非常に悪かった。

 特に父との間柄がよろしくない。


 なぜか。


 事情は見かけほどわかりやすくはない。だが紙幅もないので簡潔に述べるとする。

 この悟少年、父親が何を隠そう大層立派な「ねとうよ」なのだ。日々「ようつべ」を視聴し、やれ江戸は美しい文化立国だったとか南京大虐殺はなかっただのと、えらく思想めいたことを吹聴して回るのである。


 これには息子たるもの、辟易へきえきとしてばかりだった。


 ある日、学校の校外学習で江戸東京博物館に出かけたという。そこで学んだことを淡々と晩御飯の場で語り聞かせると、少年の父は怒り狂って少年を博物館に連れ出した。そこで延々と独自研究を垂れ流すものだから、居た堪れなくなって逃げてきた。

 そしたらなぜゆえか、タイムスリップ現象が起きて、ほんものの江戸の街に迷い込んだというのがことの顛末てんまつなのである。


 侍、ようやくその事情を理解した頃には何が何だかという面持ちだった。


「お父上は、どうやら尊王そんのう攘夷じょういの志士のようであるな」

「そんなかっこいいもんじゃないよ」

「かもしれぬ。拙者も人に日ノ本が勝てると思っとらん。現にさとる殿を見ていると、未来はそれが正しいと思えてならぬ」


 少年は、その時学校で習った日本の歴史のことを思い出していた。


「貴殿をその未来とやらに帰してやろう」

「いいよそんな」

「ならぬぞ。あんな、甘いものが食えるのであるなら、むしろ拙者が行きたいくらいだ」


 侍が言うと、少年は、


「ありがとう。侍」

「めろ、」

「メロンパンが好きなお侍さんなんだから、それでいいじゃない」

「よくないぞ、うむ。よくない」

「ところで、なんでめろんぱん侍はこんなところにいるの?」

「それはな──」


 言いかけて、侍は立ち上がった。

 その視線の先には、虚無こむそうのすがた。


時籠ときかご──ッ!」

「なにそれ」

「妖の名だ」

「あやかし?」

「妖怪のことだ」


 いわく──善哉太郎右衛門は、妖ものを視る目があるらしい。

 それで、お上の命に基づいて江戸の平和を乱す妖ものを斬る見回り番を配役したとか。


 時籠なるもの。


 そのものは時間を移動し、過去と未来を行き来する怪物だった。現代にその名が残ってないのは、記録に残る前に記録者をあやめたからだと言われている。その狙いは、時を乗っ取り支配すること──過去に敗北した歴史を無に帰し、日ノ本を天下一にする野心からそれは生まれたと言う。

 しかし記録に残ってなくても、記憶にその名は残っていた。善哉太郎右衛門は、まだ時籠がその記憶に名が知られているうちに、退治しようとここまで来たのである。


「そうか、わかったぞ」


 侍、我に返って、


「さとる殿。時間を飛び越えたのは貴殿ではのうて、拙者のほうだったようだ」

「そんな……ッ!」

「思い出したぞ。時籠との因縁、いまここで絶たねば。貴殿が家に帰れぬのは他ならぬ拙者の所為せいなのだ」

「そんなこと言うなよ、めろんぱん侍」


 善哉太郎右衛門は、振り返って不貞腐れた。


「せめてその呼び名くらいはどうにかならんかったのか」

「どうにかなるもんか。めろんぱん侍は、めろんぱん侍だ。あんたは甘いもんが大好きの、へたれで、まぬけの、くだらない大人じゃないか!」

「だが──そうだな、そういうことにしておこう」


 侍の目はもう迷いがない。


「拙者は拙者のつとめを果たそう」


 つかつかと歩む。その向こうには、時籠がどうと待ち構えている。


「貴様との因縁、ここで断たせてもらう」

「できるかね」

「できるとも」

「ではやってみろ」


 ジッとみつめ合うことしばらく──


 長い時間が、そこにはあった。側から見れば、無意味な時間。ただ流れるに任せるだけのつまらない時間がそこに横たわっている。薄く引き延ばされた飴のような時間。ありえないほどぴんと張った糸のような時間。力強く引き絞った綱のような時間。どれだけの力で押し合いへし合いしたところで、びくともしない。無。永劫に向かって収斂する無。少年が息をすることすら忘れるほどの極限が、弓を絞っていまかいまかと放たれる矢のようにそれはそこにあったのだ。そこにはただ生きている人間がいる。生きているだけの人間と、立ち向かうべき妖怪がいる。妖怪は何を考えているかわからない。互いに手は太刀に掛からず、両手をだらんと提げているが、決して力は入れていない。油断なく、その時が来たらきっと引き抜かれるだろう。しかしまだその時は来なかった。少年ですら痺れを切らそうというほどの時間を、彫像のようにふたりは延々と身構えていた。ありえないほどの胆力だった。目はちっとも逸れない。凝視し、呼吸すらも殺し、黙々と、いったい何をしているのかと疑問に思うほどの、緊張がいつまでも、いつまでも、きっと終わりすらないんじゃないかと、息苦しくなってすら、きたところで、少年が身じろぎをしてしまうが、それでもなお、かれらは動こうとしなかったのだった、だから、もうこれ以上はないのではないかと疑いはじ


 斬った。


 言葉なく散る、血しぶき。

 その赤き徒花あだばなを、袖に受けて。


「怖いか」


 善哉太郎右衛門は、少年を見た。

 少年は他人を見るような目で、善哉太郎右衛門を眼差した。


「怖かろう。これが、モノを斬るということだ。殺めるということなのだ」


 侍は、天を仰ぐ。これでいいのだ、とうそぶきながら──


 淋しそうに、微笑んだ。


「さとる殿」

「うん」

「拙者は自分の時代に還る」

「……そんな」


 少年は初めて、自分の足で侍に駆け寄った。


「だめだよ。行っちゃだめだ」

「さとる殿。これは定めだ。歴史は変えられぬ。どのようなことがあっても、貴殿が生きる場所は貴殿の時代なのだ」


 言いながら、侍は自らの身体が消えゆくのを察知する。


「時間だ。さらばだ、さとる殿」

善哉右衛門ぜんざえもん

「なんだその名前は」

「だって、名前──」

「そんなことはいい。拙者には貴殿が付けてくれた立派な名前がある」


 いわく──めろんぱん侍。


「ゆめゆめ忘れぬことだ、たとえ拙者の記録がなくとも、思い出は、思い出だけは、そこにある」


 光と共に、侍は──消えた。

 時は解放されたのだ。


 少年は何もないその場所から、今自分が生きる場所に向かって、ゆっくり歩いた。明日に向かって、強く、強く。

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