翻る、紅
「おとーさーん」
「なんや、くるみ」
「あそこ、みてぇ。ちがう、そっちじゃなくて、こっち。アイスクリーム屋さんの車のとなりに立ってる。あの黒いの何?」
「おっ。あれか。あれはテンマル君や。山添村って、ほらこの間遊びに行ったやろ。牧場があるとこ。あそこのゆるキャラや」
「へー。へんなかおー」
そう言いながらも、少女は嬉しそうに笑いながら着ぐるみに手を振った。それに気づいた着ぐるみも手を振り替えした。
休憩室。
「だー!あっつー!あっつー!」
そう言いながらてんまる君の中から出てきたのは、ホンモノの鴉天狗、その人であった。いや、鴉天狗は人ではなく空想の生き物なのであるが、とりあえず実在していた、こうやって。
「くっそー。なにがてんまる君や!本物の方がシュッとしてカッコええやろが、シュッとして」
関西人の鴉天狗。大事なことは二度言う。
「それにしてもや。隣の移動販売のパン屋。えらいうれっぷりや。大阪で大人気!フワサクメロンパン、ってなんやー!ここは奈良やぞ。奈良の中心、大仏のお膝元やっちゅーのに、みんなして大阪のもんなんかに群がりよってからに」
秋だからか、山添村の牧場アイスよりパンの方が売れゆきが良かった。
「俺がこんな格好までして来とるんやから、絶対売りきってみせる」
鴉天狗は拳を上に突き上げた。
ところで、てんまる君はしゃべらない。
売上げを上げようにも、身振り手振りでしか呼び込めないのだ。
対して隣のパン屋。
いかにもパン職人風の男がパンを並べ、キリッとした眼差しを客に向けている。そして、人気店から連れてきたのであろう店員が、慣れた様子で呼び込みをしている。行列もそっちにできる。アイス屋は素通りされる。
てんまる君も頑張って手を振ってみるものの、外国人や、幼児、小学生が写真を撮りにくるだけで肝心のアイスクリームの売れ行きは悪い。てんまる君は次第に焦り始めた。
パン屋の男は、とても真面目な男であった。
男は神道であり、毎日神棚の榊の水をかえ、焼きたてのパンを供えていた。その甲斐あってか、店は繁盛。信心深さと真面目さで、男は店を着実に成長させてきた。
その男の脳に、ミチタカよ……という声が響いた。ミチタカとは男の名前である。男はハッとして周りを見回した。しかし、目の前の客に自分を呼ぶ者はいないようだった。
気のせいか、と再びパンの方に視線をやった時だった。
ーミチタカよ。聞こえておるか。わしはこの山に昔から住む者ぞ。
これを聞いた男は、この声を神の声だと思った。
ー信心深いそなたに頼みがある。五分でよい。身体を貸してはくれんかの。
その言葉に応とこたえたかどうかは、男にも分からなかった。しかし、男の意識は急速に遠のいていった。
「あれ、店長。どこに行くんですか」
店員が、男に声をかけた。男は何も言わず、隣のアイスクリーム屋に向かった。
行列をなしている客も、てんまる君の中にいる鴉天狗も、どうしたことかと男の方を見た。男はアイスクリーム屋の前に立って、バニラアイスを注文した。そして、それを皆が見る前でうまそうに平らげたのだった。
それを見た客たちは、パン屋の次にアイスクリーム屋に並び始めた。
店員もてんまるも、突然のことにてんてこ舞い。てんまるは、隣のオッサン、本当はいいやつなんやな。なんて思っていた。
ところで約束通りにきっちり五分後、男に身体を返した『この山に昔から住む者』は神などではなかった。遠くからアイスクリーム屋の繁盛を見届けたその者は、赤く鼻の長い面をつけており、この秋の中、ほぼ半裸であった。面と同じくらい赤い褌が風になびく。
傍らに寄ってきた神鹿がじっと、その者を見つめた。
視線に気づいたそのものは、ひと言、神鹿に向かってこう言った。
「なんか、ようかい」
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