えおんたん
「来たか、拝み屋」
祠の奥から声がする。
蝉時雨が遠のき始めた秋晴れの夕刻、古びた祠の前には、白いTシャツにジーンズ姿の男が立っていた。
「そんなしょぼい祠に引きこもってねえで出てこいよ。――クソ外道が」
「口が悪いな。そんなに見たいのか? この――」
祠から白い腕が伸び出てくる。やがて全身を這い出してきたそれは、人間の子供の姿をしていた。
「お前の可愛い息子がよ?」
「……優」
美しくはないがどこか人好きのする、そんな男の表情が曇る。それは焦燥や後悔、悲しみと怒りが入り混じる複雑なものであった。
「苦労したんだぜぇ? この身体を乗っ取るのはよう」
「……」
「まずこいつの母親を〝喰って〟、霊力ってやつに慣れねえといけなくてなあ。不便なもんだ。俺達みてぇな妖力なら話が早えのによう……」
ニヤニヤと嗤い、ゾロリと舌を出す。
姿形は彼の息子そのもの。だがその仕草や表情は、彼の身体を乗っ取った妖怪そのものであった。
「このガキの霊力が強すぎてよう。喰いたくもねえババアを喰わされるはめになったんだぜ? 気の毒だとは思わねえかよ、おう?」
「……」
「てめぇの身体を喰おうとも思ったんだがよう。見てみたらてめぇ……」
妖怪の口角がぎゅっと上がる。勝ち誇るような、下卑た嗤いだった。
「霊力なんざ持ってねえじゃねえか! 拝み屋が聞いて呆れらあな、えええ!?」
カカカ、と甲高い声を上げる妖怪だったが、その余裕はこの時までだった。
顎を上げて嗤う妖怪に素早く近づき、音もなくその首を右腕一本で掴み上げる。
「……ぁ、かっ」
「うるせえ化け物だな」
「が、かっ……!」
「俺の女と子供を喰って強くなった気でいるのか?」
男の指が妖怪――息子、優の姿を持つ――に食い込んでいく。
「俺にはな、いらねえんだよ。霊力なんてな」
「お、ごぉ……」
「心配すんな。てめえはゆっくり、丁寧に殺してやるから……!」
とどめを刺そうと右腕に力を入れた瞬間。
彼の脳に流れてきたのは、かつての想い出であった。
〝ぱぱ、こえおいちーの! えおんたん!〟
〝えおんたんじゃねえよ、メロンパンだ。メ・ロ・ン・パ・ン〟
〝ゆう、ちゃんとゆったよ? えおんたんでちょ!〟
〝……くくく、そうだな〟
〝もー!〟
〝あんた、優をからかうんじゃないよ。優だって少しずつ言えるようになってきてるんだから〟
〝すまんすまん〟
「……!!」
思わず指の力を緩めた隙に、妖怪は男の呪縛からぬるりと抜け出す。
そしておもむろに数歩後ずさり、潰れかけた声で言った。
「無様だな、拝み屋。ええ? ちょっとこのガキの頭探りゃあ、こんな
「……クソが」
「あとよう、てめえの女。アレはだめだわ。頭ん中がこのガキとてめえのことしかなくてよお。それも大切だ、自慢だ、愛してるだ、どうしようもねえことしか出て来やがらねえ」
「……」
「その点ガキはいいぜえ? どんどん新しいことを吸い上げて、色んなことを考えてやがる。――教えてやろうか。このガキ、てめえの母親と結婚してえんだってよお!!」
ギャハハハハ、と腹を抱えて馬鹿笑いをする妖怪に、男は静かに言葉を紡ぎ出す。
「……そうか。そいつは良かった。教えてやるよ化け物、人間の男ってのはな、最初に惚れる女はてめえの母親なんだよ。おかげで優がすくすく育ってたのが分かった。そこだけは感謝してやるぜ」
「はあ!? 馬鹿かてめえ、俺に女も子供も喰い潰されて、とうとう頭がおかしくなったのかおい!? こちとら、こうやって最高の霊力と俺の妖力を混ぜて、最強のあやかしになったんだぜえ? おら、もっと恨め、もっと憎めよ! 霊力もねえくせに最強の拝み屋を名乗るてめえをぶち殺すためにここまでやってやったんだからよお!!」
苛立ちを隠さず、妖怪が言葉を吐き散らす。それはある種の呪詛となって、彼らにまとわりつく空気を澱ませていった。
「……のせいか」
「あ?」
「あいつらが死んだのは、俺のせいなんだな。てめえのような屑に喰われて。ずけずけと頭ん中覗かれて」
「ああそうだ、ぜぇんぶてめえのせいだよ、拝み屋。てめえさえいなけりゃ、ガキと女は今も幸せに生きてたんだぜ? どうだ、死にたくなっただろ?」
「――そうだな」
男はそう言うと、軽く握った拳をゆっくりと上げる。
「付き合えよ、化け物。……この世からもあの世からも、てめえを消し去ってやるからよ」
「……やってもらおうじゃねえか。てめえの可愛い息子の身体手ェかける度胸があるならなあ!!」
叫ぶと同時に、妖怪は舌を長く伸ばし、男の肩を貫いた。
「……ちっ」
「ギャーッハハハハ!! ガキの霊力はすげぇぜ! 俺の舌が鋼鉄より硬くなりやがる!!」
肉眼では見えぬほどの速度で舌を打ち込んでいく妖怪に、男の身体は赤く染まり始める。
だが彼は、まるで意に介さぬように、構えた拳を下ろさない。
「……」
「おら、どうした拝み屋! 一丁前に拳構えても、なぁんにも出来てねえじゃねえかあ!?」
肩に、腿に、脇腹に、胸に、次々と突き刺さる妖怪の舌が止まる。
男の腕が、妖怪の舌を握りとめていた。
滑る舌のはずだったが、妖怪が力を入れてもビクともしない。
「どうなって、やがる……っ!」
困惑する妖怪に、男は言った。
「俺には霊力がない。そう言ったな」
「ねえじゃ……ねえかっ!」
「その通り、俺には霊力がない。……だが、何の力もないとは言っていない」
「な……にぃ」
「
「ごう……?」
「受けた攻撃を業として受け止め、それを力にした。餌はオマエの舌だよ。てめえに抗えるわけがない」
「て、めえっ」
「確かに俺は、優の身体を傷つけることは出来ない。例え中身は殺され、化け物に乗っ取られているとしてもな」
男は静かに言葉を紡ぐ。それは懺悔のような、哀しい響きだった。
「俺に家族を傷つけることは出来ない。それは俺の甘さであり、ある意味で罪でもある。あいつらを先に取り込んだのは正解だったかもな、化け物――いや、妖怪あかなめ」
「て、てめえ、俺の名を……!」
「俺の業力が教えてくれた。お前ら妖怪は、その本当の名前を知られない限り死ぬことはない。だが、一度知られれば……」
その言葉に妖怪あかなめは戦慄する。
そして舌を掴まれたまま、地べたに這いつくばって土下座してみせた。
「ひ、ひぃっ! や、やめてくれぇ! 謝る、謝るから! な、この通りっ!!」
「……そうか」
男の腕に、更に力が入る。ギリギリと舌を締め付ける痛みに、あかなめは悶絶した。
「ああああああっ!! 謝るって、言ったのにぃぃぃ!! ただ喰っただけじゃねえか! てめえらだって魚でも肉でも喰うだろ!!」
「そうだな」
男は落ち着いた様子であかなめの悶絶を眺めている。その瞳には一切の熱が感じられなかった。
「だからいつも思ってるよ。……あの魚や肉の身内は、殺したいほど俺を憎んでるだろうなってな」
「ああああああ!! いてええええええ!!」
「だが、それは今は関係ねえな。お前は今この場で消滅するんだ。……この世からも、あの世からもな」
「ひぃぃぃぃいいい!!」
「死んで生まれ変わるなんざ許さねえ」
「ひぃあああああゆるじでゆるじでええええええごべんなざいいいいいい!!」
「――消えてなくなれ」
あかなめの舌を握る腕が、一瞬赤く光る。それは美しいなどとは程遠い、どろりとした殺意の色。
「…………」
そして、あれほど喚き散らしていたあかなめの声が、この世界全てから消え去った。
――――
とある古寺に、小さな墓石が佇んでいる。
その墓石には小さく、真名が彫られていた。
〝優美子〟〝優〟と刻まれた墓石の前にはメロンパンが2つ。
そこには男が一人、じっと佇む姿を見たものがいたという話だ。
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