優しい人


 乗っ取り


 意味

 奪い取って自分の物にする事。

 奪い取って自分の支配下におさめる事。

 



「おばあちゃんできたよー!」


 ブクブクと少し沸き始めた鍋を見て、女性はコンロの火を止めた。火を止めればブクブク音は止まり、代わりに湯気が立ち昇った。

 赤髪を後ろにまとめた女性がキッチンであちこちと忙しなく動く。


美里みさとちゃん、ありがとうね〜……」


 皿と茶碗を出してご飯を乗せてと、準備している美里に優しい声が届く。物凄く平和的で聞いている人が和むぐらいに優しい声が。

 そんな中でも美里の手の動きは緩まない。茶碗にご飯を、皿には焼いた魚を、汁椀にはさっき温めた味噌汁を。

 ついでに箸と温かい飲み物も用意する。


「いいのいいの。私は孫娘だからこれぐらいするのは当然でしょう?」


 そう言って美里はお盆に乗せて、おばあちゃんの所へ持って行った。


 ベットに座ったままでいるおばあちゃんに。


「美里ちゃん、私の介護をしてくれるのは嬉しいんだけど、貴女はいいの?」

「問題ない。私はお婆ちゃんと一緒にいる方が好きなのよ」


 場所はとあるアパートの一部屋。

 そこでお婆ちゃんと孫娘が暮らしていた。


「うーん。美里ちゃんが作ってくれる料理はどれも美味し石、私が大好きな和食も毎日作ってくれて……私は幸せ者ね」


 ベットの上には物を置くための板が設置してある。

 そこに置かれた暖かい飲み物を前に両手を合わせ、朝ご飯を用意した美里もおばあちゃんのベットの近くに来て両手を合わせる。


「「いただきます」」


 鳥の囀りが空いた窓の隙から入ってくる。

 そうして部屋の中は箸を動かす音で少し騒がしくなり、二人のいつもの朝が始まった。






「お婆ちゃん、今日は肉じゃがだよ!」

「いいねぇ、肉じゃがは好きだわ」


 時にはいい肉を奮発して料理したり。


「ごめんなさいお婆ちゃん。ちょっと用事があって帰ってくるの少し遅れる!」

「大丈夫よ美里ちゃん。私はゆっくり待っているから、気にせずにお仕事頑張って」


 美里が少し遅れても、お婆ちゃんはのほほんとしていたり。


「美里ちゃん、ありがとうね。私、本当に助かってるし幸せ者だわ。本当ならずっと美里ちゃんとは会えないと思ってたから」

「……そう? 私もお婆ちゃんが幸せなら嬉しい」


 たまに遠い目をしながらお婆ちゃんがそんな事言ったり。


「ハァ……痛い……痛いわ」

「お婆ちゃんちょっと待ってて! すぐ楽になるからね!?」


 たまに悲しい事も起きたりして。


「お婆ちゃん、その写真見てるんだね」

「えぇ、私が初めてデートした日の写真よ。ほら、この頃の秀吉さんってこんな姿だったのよ」

「そうね。その時のおじいちゃんってカッコよかったもんね」


 よくお婆ちゃんは楽しそうにたった一つの写真を見ていたり。そんな日々が過ぎていった。










「ねぇ美里ちゃん。私、和食が好きな事は美里ちゃん知ってると思うけど」

「そりゃあ何回も作ったからね…………それがどうしたの?」


 ある日の朝だった。

 美里はいつものように朝食を作り、おばあちゃんはいつよものように感謝していただきますをする。

 そんな日常が始まるはずだったが、今日のお婆ちゃんの声は少し元気がなかった。


「ごめんなさい美里ちゃん、私嘘ついていたの」

「嘘ついてた……?」

「私ね、洋食というか和食以外も大好きなのよ」

「……あぁそんな事、別にいいけどどうしたの? お婆ちゃんがそういう時って何かお願いがあるでしょ?」


 美里は長い間の付き合いで、お婆ちゃんの癖というものがなんとなく分かっていた。

 美里は別に洋食とか和食とかそんな嘘は大した事ない。


「……えぇ、私はメロンパンが食べたいのよ」


 それはどこにでもある普通の願望のようで。


「でもね、私はワガママでね。カズヤマ遊園地のメロンパンを食べたいの」

「………………」


 美里は静かに目を見開いた。

 だってお婆ちゃんがそのお願いを言った時の表情は、酷く覚えている。今のは死ぬ直前の人の表情そのものだった。

 すぐにではない。けれど一ヶ月も経たない内には確実に。いわゆる死期を悟った顔だ。


「でもおばあちゃん……」


 美里は最後になるかもしれないおばあちゃんの願いを叶えたい。だが問題があった。カズヤマ遊園地は遠い場所にある。今の足が自由に動かせないお婆ちゃんでは無理だ。


「分かっているわ。ごめんなさい。これは私のワガママなの……無理だとわかっていても」


 お婆ちゃんもその事は理解している。

 だからこそ、優しくけれど少し寂しそうな笑顔を浮かべだ。


 そう、これは無理な事なのだ。

 もう足が動かなくなってベットの上でずっと過ごす生活をして数年。そんなお婆ちゃんが電車で行がなければならないほど遠い場所に行くなんて。

 普通は無理だ。

 

「……………………」


 普通なら。

 でも彼女は、美里は違った。

 美里は悲しい表情で何かに耐えるような、けれども覚悟を決めて言う。


「お婆ちゃん、その願い、私なら叶えられるよ」

「美里ちゃん……?」

「だけどごめん。私も嘘ついてた」


 美里は一歩ずつ近づく。

 けれどご飯を持って行くような、気軽な足取りではない。とても丁寧でゆっくりで気品のある歩き方だった。

 そして美里がお婆ちゃんに近づいていく内に、美里は美里じゃなくなった。


 赤髪は黄金のような長髪に。後ろにまとめていた髪が解かれて床まで届く。その神秘的な姿はまるで巫女のようだった。

 けれども決定的なのは腰あたりから生えている尻尾。いかにも暖かそうなそれは狐の尻尾だった。


 そう。美里は人間じゃない。というより妖怪が美里に成り代わっていたのだ。


「お婆ちゃん、私はね……妖怪なの」


 美里は……いや狐の妖怪は数年間騙していた事実を告白した。


 



 数日後。




「ありがとうね美里ちゃん」

「お婆ちゃん、私は美里ちゃんじゃあ……」

「そうだったわ。いつもの癖でつい……けれど私は貴女のこと、別に偽物だとは思ってないわ」


 二人はカズヤマ遊園地にいた。

 厳密には、狐の妖怪がお婆ちゃんの体の中に入ってサポートをしている。ようは体を乗っ取っているのだ。

 

 でもお婆ちゃんの意識や五感は残してある。

 だって目の前に立っているお店。そこに売ってある懐かしのメロンパンを味わなければないないのだから。


「あの〜……メロンパンを一つ」

「はい! メロンパンを一つですね!」


 元気な若い店員さんはハキハキしながらメロンパンを渡した。そして渡されたメロンパンは……お婆ちゃんの遠い記憶で見たものと全く同じだった。


「……あぁ、これだわ」


 お婆ちゃんは静かにそう言った。


「美里ちゃん、貴女は嘘をついていたと言ってたけど、私は知ってたわ」

『…………え』


 美味しそうにメロンパンを食べながらお婆ちゃんは言う。


「秀吉さんはね、人助けをよくしていたわ。私、その部分が好きで結婚したの。そして初めてのデートで食べたのが……このメロンパン」

 

 お婆ちゃんと秀吉が少ないお金で、デートに来たのがこの場所だった。本当ならもっと良い食べ物が欲しかったが、貧しかった彼らはメロンパンで限界だったのだ。


 でもそんな時だった。


「その時に出会ったのよね。貴女と」

『お婆ちゃん……』


 怪我していた狐と出会ったのは。

 酷い怪我だった。血を流していた狐が木の影でひっそりと倒れていたのだ。

 

「光秀さんはすぐに助けたのよね。まぁ怪我からして少し治療して、助けを呼んだんだけど、その時に消えちゃって」

『……うん、おばあちゃん。その時の狐が私だよ』


 嘘偽りのない妖怪の声を聞いて、お婆ちゃんは優しく微笑んだ。


「やっぱりね。消えちゃったから心配したんだけど、貴女が生きていて良かったわ……ありがとう」

『…………うん、私の方こそ』


 それから二人は言葉を発さず遊園地を巡った。

 けれど二人の表情は……優しい笑みで溢れていた。






 そうして。


「お婆ちゃん。数十年前に助けてくれてありがとう。私の恩返しはしっかりできたでしょうか?」


 狐の妖怪はお婆ちゃんの墓参りをしていた。

 お婆ちゃんの名前が刻まれた墓の前でお祈りをして、懐かしむように話し始める。


 あれから狐の妖怪は人助けをしていた。

 街で別のお婆ちゃんが困っていたら影ながら助けたり、子供が怪我しそうになったら妖術で助けたり。


 お婆ちゃんに言われてやったことではない。

 狐の妖怪が自発的にやってる事だ。それは過去にちょっとした親切心や優しさで助けられたからだ。


 狐の妖怪がやった事は世界に大きな影響なんて与えていない。世界が悪の組織から救われたとか、大勢の命を助けたとかではない。


 けれど狐の妖怪は確かに。

 お婆ちゃんの生活を少し変えたのだ。

 一人でひっそりと消えていくお婆ちゃんを、最後まで笑顔にする事ができた。


「私には大層な夢とかはないけど、あの時助けてもらった恩を、返していこうと思います」


 そうして墓の前には、最初から誰もいなかったように人がいなくなる。残るのはゆっくりと落ちる小さな葉だけ。


 その後から。

 日本のどこかの街で、困った人を助ける妖怪がいると噂されるようになった。

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