第一章 朝食

一面の雪景色であった。


家々の屋根も道路も、普段は押しつけがましく目立っているドライブイン・レストランのカンバンも、全てが白い毛布に覆われ眠るような静けさが支配していた。


窓を開け、冷たい空気にさらされながらも沙也加は尚もじっとたたずんでいた。

身体は芯まで冷えて足が微かに震えている。


ただ、涙の暖かさが。


先程から止まらずに、頬を濡らす暖かさが沙也加の心をほんの少しだけ温めていた。

泣く事がこれほど心を安らかにすると今、改めて気づく沙也加であった。


雪はシンシンと降り続け、彼女の目に映る全ての世界を白く染めていく。

頭の芯がぼんやりと霞み、この世界に溶け込んでいく。


考え悩みすぎて疲れた心を涙が癒していた。

マンションの前方の木から滑り落ちた雪の音に、沙也加は現実に引き戻された。


窓を閉め、テーブルの席に座ると、部屋はすっかり冷えきっていた。

コーヒーもスープもパンも、全て冷たくなっている。


カップを引き寄せると、黒い液体に天井の照明が映っている。

涙がわずかに軽くさせた沙也加の頭に、今朝の出来事がボンヤリと浮かんだ。


※※※※※※※※※※※※※※※


和男は朝から不機嫌であった。


せっかく作った朝食にも殆ど手をつけず、気ぜわしくネクタイを結んでいる。

一度結んだネクタイのバランスが気に入らず、もう一度結び直したが、今度は短か過ぎた。


「ええい、もうっ・・・いいや。

じゃあ、行ってくる・・・」


沙也加が玄関に送りに来るのも待たずに、コートを中途半端にはおりながら出ていった。

ドアの閉まる音が少し遅れて聞こえた。


この頃いつも・・・こうであった。


二人が結婚してから、まだ半年。

沙也加が短大を卒業してから一年と経たぬ頃、伯父の強い勧めから和男と見合いをした。


一流会社のエンジニアであるこの若者は、ハンサムで背も高く、収入も安定し、結婚の条件としては申し分がなかった。


沙也加は中学二年生の時、両親を事故で亡くしていた。

責任感の強い伯父は沙也加をきっと健康に育て上げ、幸せな結婚が出来るよう兄の遺影に誓っていたのだ。


叔母といえば過ぎるほどに気を遣う沙也加を我が子のように愛し、この早すぎる結婚に複雑な思いを抱くのであった。

二人は沙也加に何の不自由もさせず、短大にもあげてくれた。


やっと就職して、少しでも日々の生活費を出そうとしても受け取ってくれない。

それどころか、亡くなった父の遺産はそっくり残してあるという。

そんな伯父と叔母に対して自分に出来る事といえば、せめて早く結婚して安心させてあげる事しかないと思い、見合いを承諾した。

 

若く美しい沙也加を一目見て、和男はもう夢中になっていた。

青春時代を受験勉強に費やし、大学に入ってからも男が圧倒的に多い理系では中々恋人も出来なかった。


何度か、はかない恋に手を出してもみたが、根が不器用なのか長続きはしなかった。

会社に入ってからも、忙しさに流されていつの間にか二十八才になっていた。

このままではなんの潤いもない二十代が終わってしまうと思い切って見合いをしたが、こんな美しい女性に出会えるとは夢にも思わなかった。


二人は幾度かデートを重ねた。


和男の朴訥ではあるが誠実な人柄もあって、沙也加はプロポーズの言葉に顔を赤らめて小さくうなずいた。

結婚して新しい2LDKのマンションに居を移しても、和男は変わらぬ優しさを新妻に与え続けた。


このまま平穏な日々が続く、と思われたのだが・・・。


沙也加のため息でコーヒーの水面が揺れ、現実に戻された。

そして、もう一度小さなため息をつくと、ゆっくり立ち上がりテーブルの上を片づけるのであった。

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