第11話『セレーネ港の赤ワイン』


 船首楼に上がると、その先には、白く長い髪を後ろで括っている陶器のような肌の男が居た。

 その風貌は異国の血を引いているように見える。髪と肌もそうだが、目が異様に白い。瞳孔が、白色なのだろうか? まさか盲目というわけはないだろうが、目線がどこにあるのかよくわからない。

 とにかく異様な雰囲気を持った男だった。その男の足元には、レオナルドが手足を縛られ、うつ伏せで転がっていた。その身体はぴくりとも動かない。


「レオ…」

「生きている。一度縛ったのにすぐ縄抜けされて、あっという間に五人ほど味方を殺られた」

「それはお気の毒に」

「貴様はウィリアム・グレイだな?」

「なんのことだ?」


 軽い口調で話しながら、僅かずつ間合いを詰めてくるウィリアムに、白髪の男はふう・と憂鬱そうな息を吐いた。

 そして素早くその場にしゃがむと、レオナルドの襟首を掴み、ぐいと引き起こして首元に短刀を突きつけた。

 ウィリアムは一瞬息を止め、黙って男の動向を見守った。


「こちらも時間がない。グレイ、この男を殺されたくなくば、引け。湾の封鎖も解除し、戦艦も撤退させろ」

「おいおい。そう焦るなよ。そもそも、お前はレオナルドを殺せないだろう? 誘拐することが目的なんじゃないのか?」

「失敗するくらいなら殺す。さあ、早く選べ。引くか、スタンリーの死か」


 男はレオナルドを片手で抱きかかえて立ち上がり、首元の短刀を更に深くレオナルドに当てた。


 この男はかなり焦っている。おそらく、想定外の事が多かったのだろう。

 外洋への唯一の出口である湾口は、ウィリアムの指示があった直後、驚きの速さで封鎖された。湾口の両端から出てきた数隻の船が一列になって完全に出口を塞ぎ、砲門を湾内に向けて開き、ピタリと停泊している。港からは武器を携えた大なり小なりの舟がぞろぞろと出てきていた。

 この男は、こんなにも早く、港が戦闘態勢を整えるとは予想していなかったのだろう。

 シャーロット号の不審な出港準備からのすべてが、この男が計画したレオナルドを誘拐するための作戦だったのであれば、完璧だ。必ず成功する作戦だったであろう。


 それが、セレーネ港以外の場所であったならば。


「…お前を見逃せば、その後、レオナルドを解放すると約束するか?」


 ウィリアムは眉根を寄せて尋ねると、男はすんなりと答えた。


「約束しよう」

「信用していいのか? …そうだ、俺も一緒に同行させてくれ」

「だめだ」

「頼む。武器はすべて捨てる。このとおりだ」


 ウィリアムは左手に持ってる短剣と右手の長剣を男によく見せるように高く掲げ、ひらひらと振ると、短剣の方は落として左手を開いた。

 一瞬その短剣を投げつけてくるかと警戒した男は、レオナルドを盾にするように自身の前に抱え直した。

 甲板に転がった短剣を一瞥してから、男は最後の警告と言わんばかりにレオナルドに突きつけた刃物を見せつけて言い放った。


「ウィリアム・グレイ。貴様は油断がならん。大人しく下船して、さっさとこの船の周りの武装を解け」


 男の言葉にウィリアムは両手を上げたまま深いため息を吐いて「そう言うと思ったよ」と呟いた。


「では、うちのワインを楽しむといい」


 そう言ったウィリアムは、高く掲げていた長剣をビョウと下に振り下ろした。

 その瞬間、男はぐらりと前のめりに倒れ、レオナルドを手放した。

 男と一緒に崩れそうになったレオナルドを、素早く駆け寄ったウィリアムが抱きかかえて、倒れ込んだ男から数歩後ずさり、距離を取った。


「…な…に…」


 男が、身体のそこかしこから血を流しながら呻いた。


「わからなかったか? 俺のさっきの合図で、狙撃されたのさ。聞こえた銃声は五発分だったが、すべて命中したようだな」


 ウィリアムは、自分が落とした短剣を拾ってレオナルドを縛っていた縄を切りながら、男にそう言った。


「…馬鹿な…」

「ウチの狙撃手は優秀なんだ」


 男が撃たれたのは、左目付近のこめかみと、両の二の腕と脇腹と太腿だった。


 わけがわからない。

 周囲に集まってきたセレーネ港の自衛船の上から撃たれたにしても、命中率がとんでもない。銃弾の飛距離もおかしい。

 そして、太腿に被弾するとはどういうことなのだろう。船縁が邪魔をして太腿などに当たるはずがないのに、一体どこから狙撃したらこんな場所に命中するのだ。


 男は被弾したショックも重なり、ひどく混乱していた。

 その時、だいぶ距離が離れてしまったシャーロット号の甲板から大きな歓声があがった。


「ああ、五発のうちの一発はあそこから打ったのか」


 シャーロット号を振り返ったウィリアムの声に、男は顔を上げてなんとかウィリアムの視線の先を追った。

 シャーロット号から一筋、発砲の火薬煙が上がっていた。その場所を見て男は目を見開いた。


 ―――主檣檣楼(メイントップ)…!?

 揺れる船の、一番高いマストの上からこの距離を命中させただと…

 …滅茶苦茶過ぎて笑えてきた。


 男はくっくっと小さく喉を鳴らした。ウィリアムは男の考えていることを察した。


「フォックス社は外国から武器も輸入していてね。最新の物はうちで試験的に使用しているんだ。弾丸の飛距離はいままでのマスケット銃とは比べ物にならないほどに素晴らしい。興味があったら購入を検討するといい」

「ふ…、なるほどな。 …『ワインを楽しめ』とはどういうことだ」

「ああ、まあ、狙撃の合図のようなものかな。うちの狙撃手の訓練方法は、洋上で船の上から、遠く離れたいかだの上に置いたワインの口を銃弾で命中させて開封できたら、そのワインが飲めるという遊びを用いていてね。ちなみにワイン瓶を粉々に破壊させたらそいつが弁償だ」


 男は痛みに耐えながら喉の奥の方で小刻みに笑った。

 甲板にゆっくりと血溜まりができていく。まるで上質の赤ワインが溢れたように。


 …ああ、完全にセオ島を甘く見ていた。


 男は震えながらゆっくりと身体を起こすと、船縁に身体を預けるようにして座った。


「おい動くな。額の出血もひどいが、特に脇腹の方は命に関わるぞ」

「…お優しいことだな」

「お前には聞きたいことが山ほどある。大人しくしていろ」


 ウィリアムは周囲を取り囲む味方の船に合図を送った。それと同時にゆっくりと小舟や中型の舟が近づいてくる。その気配を感じながら、男は小さく呟いた。


「…どれだけ巻き添えにできるかな」

「なんだと?」


 何と言ったのか聞き取れなかったウィリアムが男の不穏な気配に一歩近寄ると、男は首から下げていた小さな笛を咥えた。

 ピィ―――と高い笛の音が周り中に響き渡ると、甲板の水夫達が一斉に悲鳴を上げた。


「何だ?!」


 突然の騒ぎにウィリアムは男から目を離した。その隙に男は、力を振り絞って駆け出し、甲板の縁を蹴って海に飛び込んだ。

 一瞬の出来事に追うこともできなかったが、そんなことはもはや問題ではなかった。身震いする程の嫌な予感が、ウィリアムの身体を走ったのだ。

 甲板にいた水夫たちが「逃げろ!」「急げ!」と悲鳴を上げながら次々と海に飛び込んでいく。


「――火薬庫…!」


 ウィリアムは目を見開いて叫ぶと、横たわったレオナルドをがばっと抱きかかえて、転がるように駆け出し渾身の力で船縁を蹴った。

 同時に、船の後方にある火薬庫が爆音を上げた。


「ぅがッ…!」


 火傷しそうな爆風と大量の木片がウィリアムの背を襲い、吹飛ばされるようにウィリアムは海に落ちた。腕にはレオナルドをしっかりと抱いていた。



 突然の、全身を殴られるような凄まじい水圧に、レオナルドは意識を取り戻した。海水が肺に入り込もうとしている。

 もしや縛られて海に沈められたのかと驚き目を瞠ると、眼の前に見知った銀髪が揺れていた。


 ――グレイ?!


 よく見ると縛られてはいない。ウィリアムががんじがらめに自分を抱いている。

 グレイは自分と一緒に沈んだのか?

 何故だと思い、身体をよじると、ウィリアムがバッとレオナルドの身体を離し、腕を掴んだ。そして驚くレオナルドと目を合わせ、人差し指を上に向けた。

 『上がれるか?』という合図だと瞬時に察したレオナルドは、力強く頷いて重い身体をなんとか動かし、明るい海面を目指して進んだ。

 勢い良く海面へ顔を出し、大きく息を吸い込ってむせこんだ瞬間、大きな手に襟首を掴まれて、ボートに引き上げられた。


「…ッ…ジャック…」


 ゲホゲホと飲み込んだ海水を吐き出しながら、自分を引き上げた男の名を呼んだ。


「レオナルド君。ウィルは?」

「…え?」


 一緒に上がったのではないのか・と、まだ落ち着かない呼吸に胸を抑えながら、レオナルドは船縁に寄り掛かり、自分がさっきまで身を沈めていた海面を見た。

 ――まさか…と思ったその時、「ぶはっ!」と水飛沫を上げてウィリアムが海面に顔を出した。


「グレイ!」

「ウィル!お前何やってんだ!」

「ジャック…頼む、お叱りは後で…」


 力なく差し出される左手を掴んだジャックは、ぐいっと引っ張りウィリアムを抱きかかえ、船へ引き上げた。


「怪我はどこだ?」

「右腕。どでかい木片が刺さっちまってな。抜いてから浮いてきたから遅れた」

「怪我をしたのか?!」


 ウィリアムの上腕からどくどくと血が流れ出ている。他にも額の横や至る箇所に裂傷ができていた。


「グレイ…」


 なぜこんな…と周りを見渡して、レオナルドは更に顔色をなくした。辺りは大騒ぎになっていた。

 すぐ目の前にあったのは、船尾側が大破して燃えている護衛船。そして大怪我をして海に浮いている水夫やそれを救助するセレーネ港の者たち。それはまるで戦場のようだった。


「一体なにが…」

「説明は後にさせてくれレオ。ジャック、レオを攫った白い肌の男がまだ生きているかもしれない」

「顔は見たよ。狙撃したローラたちや他のピッグも、あの男が海に飛び込むのを見てる。救助する際に気をつけるよう、伝令はできてるから安心しろ」


 ジャックがてきぱきとウィリアムの腕に布を巻いて止血しながら言った。


「ピッグに被害はないか?」

「大きな被害はない。怪我人が少々程度だ」


 ローラとかピッグとか、何を言っているのかレオナルドには解らなかったが、それよりもウィリアムの方が心配だった。止血が間に合わないような酷い出血で、顔色がどんどん悪くなっていく。


「ジャック、グレイの手当をせねば。早く陸へ」

「うん、他の漕ぎ手を呼び寄せよう」

「それよりレオ。大丈夫か? 怪我は?」


 よたよたしながら他の心配しかしないウィリアムに、ジャックとレオナルドは顔中に怒りの表情を見せて


「黙って大人しくしていろ怪我人!」


 と、周りの船が振り向くほどの怒声を響かせた。

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