第8話『不穏な気配』
報告書を書いていたことなどすっかり忘れ、長い間、その時のことを思い出していたレオナルドは、更に深く、ウィリアムのことを考えた。
…グレイは、今まで会ったどの人間よりも真っ直ぐで、大きい。いつでも、言葉に真実がある。
グレイは、私を、信頼していると言う。護ると言う。大切だと言う。…好きだと、言う。
私はまだ、立場上、その言葉をどこまで信じてよいか解らぬ。だが、相手の誠実な心には、誠実な心で返さねばならぬ。
私もグレイを信頼したいと思う。
私もグレイを、好…………―――
レオナルドは、そこまで考えて、突然思考を中断させた。
…違う。報告書だ。仕事を終わらせねば。 いかんな。近頃、雑念が多いようだ。ぼんやりと考え込む時間も多くなっているようだが…何故だ?
…気を、つけねば…―――
レオナルドは、ふう、と物憂げにため息をついて、再びペンを執り、報告書に向かった。
その時、港の方に不穏な気配を感じ、窓をちらりと見た。
「…?」
港がざわついている様子はない。気のせいか…。
…だが、
どうにも気になって立ち上がり、窓の外を見る。
「……」
しばらく何の変化もない港を凝視していたが、おもむろに海軍のジャケットを羽織って剣を携えると、屋敷の外へ出た。
すると、士官の制服を着た部下の一人が息を切らせながら港の方から走ってくるのが見えた。
「アレックス、何かあったのか」
尋常でない様子に駆け寄ると、アレックスと呼ばれた若い士官はゼイゼイ呼吸をしながら「失礼ながら、お尋ねします、艦長」と声を絞り出した。
「艦の出港命令をお出しになりましたか?」
「何だと?」
「レオン海尉から、艦長よりご命令を受けたとお聞きしました。緊急で出港準備をせよと」
「馬鹿な。私はそのような命令を出した覚えはない」
「艦長直々のご命令も書簡もないので不思議に思いましたが、レオン海尉からのご伝達でしたので信頼を置き、皆命令に従い速やかに乗艦して、出港準備はほぼ完了しております。ですが、ついさっき、当のレオン海尉のお姿が見えなくなりました。それで私が直接艦長に確認に」
「…」
眉間に皺を寄せてレオナルドは考え込んだ。レオナルドが乗ってきた軍艦シャーロット号は、レオナルドが勅任艦長として指揮しているものである。今回は戦闘もなく停泊しているだけなので、その間の艦のことは副艦長という立場にあるオブライアン一等海尉に任せている。レオン海尉も、信頼を置ける男だ。一体、何が起こったのだろう…。
レオナルドは港に向かって駆け出した。
「艦長!」
「無理をせずともよい!お前はゆっくり追いかけてこいアレックス!」
セオ島最大の規模を誇るセレーネ港は、巨大な円の形をした湾になっており、その湾の入り口では、湾港役人が出入りの船を検閲し、毎日何十隻もの船が出入りしている。その出入りの船の多さから、荷の上げ下ろしが必要ない船は湾の中央か、または外で錨泊している。
レオナルドの艦であるシャーロット号も湾の真ん中辺りに錨を下ろしていた。
僅かに息を切らせながら船着き場に到着したレオナルドがそれを見ながら、近くの手漕ぎボートに乗っていた男に声を掛けた。
「すまない、軍艦シャーロット号の艦長だが。艦に戻りたいのだ。舟を出してもらえるか」
「ああ、レオナルド・スタンリー様ですね、お安い御用ですよ。お急ぎなら漕ぎ手を追加しますが?」
「そうだな…」
本来であれば、旗艦に乗り込む艦長はこんな小舟ではなく何人もの漕ぎ手を乗せた艦長専用艇(ギグボート)で運ばれるべきである。
そして艦の乗組員は勢揃いして艦長を迎えるのが規則なのだ。
…しかし今はそういうわけにはいかぬ。むしろ目立たないよう乗艦したい。
レオナルドが考え込むように目線を揺らしたとき、背後から知った声が名を呼んだ。
「レオ!」
「グレイ」
駆け寄ってきたウィリアムは半ば焦ったように質問を投げかけてきた。
「シャーロット号が出港準備をしていると聞いて、駆けつけてきたんだ。どうしたんだ? 俺に何も言わずに出港なんて」
「ああ、私も今知って、驚いて駆けつけたところだ」
「なんだと?」
「勝手に出港準備が成された。どう思う、グレイ」
それを聞いたウィリアムは、シャーロット号を見やりながら眉間に皺を寄せた。
船着き場から数百メートル離れた海上に錨泊している艦は、至って穏やかそうだ。整然と出港準備がされたのであろう、帆はいつでも降ろせるようになっており、不穏な静けさも異常な慌ただしさも見受けられない。
「…お前の部下が裏切るような奴らじゃないことは知ってる。というか、裏切る理由がない。艦が賊に乗っ取られたのなら戦闘になってるはずだ。そんな騒ぎは必ず港の誰かが発見するから、それは断じてない」
「うむ。全乗組員が謀反を起こすようなことはありえぬ。おそらく将校の誰かが何者かに脅されて、間違いを犯しているように思う」
「何にせよ、何かの罠だな。艦に近づくのは危険だ」
「やはりそう思うか。ではすまないがグレイ、鉤縄と盾を貸してくれ」
レオナルドの言葉に、ウィリアムは大きなため息を吐いて「言うと思った!」と項垂れた。
「待て待てレオ。罠だと承知で行く気なんだな? 俺はさっき危険だって言ったよな?お前が標的である可能性が一番高いんだぞ?」
「ここで艦を眺めていても何もならぬ。お前も行くしかないと解っているだろう」
「いやうん解ってるけどさ! 近づいた瞬間にマスケット銃で一斉放射も有り得るだろうが! しれっと一人で行こうとするなよ。いいか、俺も行くからな! 今準備するからちょっと待ってろ」
「いや、これは私の問題だ。おい、グレイ、お前は…」
ウィリアムはレオナルドの言葉を無視して背を向け、近くにいた者数名に指示を出しに行った。
するとそこへ、部下のアレックスがようやくレオナルドに追いついて船着き場に駆け込んで来た。
「艦長!遅くなり申し訳ありません!」
「アレックス」
「艦長、私もお供します! 艦に敵がいるなら近づけば狙撃されます。きっと狙われるのは艦長です!必ずお守りいたします!」
「アレックス。艦内の情報を知りたい。お前が艦を離れるまで、不審な動きはなかったのだな?」
「はい、レオン海尉が行方不明になった以外は、他の乗員には何事もありませんでした」
二人の会話に「あの〜」と遠慮がちに舟の漕ぎ手が入ってきた。
「このアレックスというお方を陸までお運びしたのは俺ですがね、その後、あの艦に異常はありやせんでしたよ」
「人の乗り降りも?」
「はい、一切ありません。間違いねぇです」
「ふむ、ならば艦に敵が潜んでいたとしても数名程度だな」
「だからって油断するなよ?レオ」
背後からそう声を掛けたウィリアムが数点の武器を抱えて舟に乗り込むと、漕ぎ手に向かって言った。
「ジム。聞いた通り、少々危険な渡しだが、頼めるか?」
ジムと呼ばれた漕ぎ手はニヤッと笑って「任せてくだせぇ」と言った。
「マーカスとサムにも、別の舟で距離を取って付いて来てもらう。異常があった場合、陸からも援護してもらう準備も頼んだ」
「わぁ!素晴らしい!なんと手際のよい!流石はフレディ・フォックス殿ですね!」
はしゃぐアレックスがウィリアムを『フレディ・フォックス』と呼ぶのを聞いて、レオナルドは頭を切り替えた。アレックスの前では彼を『グレイ』と呼んではならない。
シャーロット号の乗組員には、彼が海賊ウィリアム・グレイだと明かしていないのだ。
彼は海賊などではなくフレディ・フォックス。フォックス家の次男で、商売人であり、このセオ島の警備責任者という立場にある者だ。
「頼もしいフォックス殿の協力が得られるなら安心ですね、艦長!」
はしゃぐアレックスにジムが乗ってきた。
「だろう?!ウチの大将はすげぇお方なんだよ!頭が切れる上に見目もいいだろう!」
「ええ、フレディ・フォックス殿の外見の華麗さは、ウチの乗組員の間でも話題になっておりますよ。特に、お美しいスタンリー艦長とお二人並ばれたときなど麗しさが倍増されて、それはもう五〇ポンド砲の破壊力があると評判でして! 実際私も、今日、近くでお目にかかれて…ああ、光栄です」
半ばうっとりとしながらため息混じりに言ったアレックスの言葉にジムは大喜びした。
「アレックスさんあんた!分かる男だな!今度一緒に飲もうぜ!」
二人のテンションに気圧されていたウィリアムとレオナルドだったが、レオナルドのほうが先に我に返ったようで静かにアレックスを窘めた。
「無駄口を叩いている状況ではないぞ、アレックス」
「も、申し訳ありません艦長!」
「はは、素直な青年で気持ちいいな」
「そうなんすよ、フォックス船長! シャーロット号の船員は軍人にしちゃ気のいい奴らばかりでしてね、陸に上がって来たときにゃ、俺も港の仲間もそいつらとしょっちゅう一緒に飲んでますぜ」
「へえ、そうなのか」
「何? そうなのか?!」
ウィリアムとレオナルドが同時にアレックスの方を向いて言ったが、叱責にも似たレオナルドの声色にアレックスは色を失って「申し訳ありません!」と謝罪した。レオナルドはため息を吐いて
「よい。詳しい話は後で聞く。今はそれどころではない」
「そうだな。とにかく行こう。二人とも乗ってくれ」
そう言って自ら櫂を取るウィリアムに、レオナルドとアレックスは慌てた。
特にアレックスは大慌てであった。
「お待ち下さいフォックス殿! 私が漕ぎます!」
レオナルドは「いやアレックス違うそこじゃない」と心の中で呟いた。
「おいフォックス、船から降りろ。先程も言いかけたがお前は関係ない。有事の際の援護はありがたいが、お前自らが行くことはないだろう」
「俺も行くよ。急ぐんだろう? いいからさあ乗って」
「同行は許さん。危険なのは解っているだろう。お前に何かあったらどうするのだ」
「俺がフォックス船長を守りますぜ!」
ウィリアムは「ありがとうジム」と笑ってレオナルドを見た。
「レオ、俺も同じセリフを返すよ。お前に何かあったらどうする。陸でお前の危機を見ているのは真っ平だからな」
「艦長は、私がお守りいたします!」
「アレックス、すまないが黙っていてくれ…」
レオナルドは眉間に深く皺を寄せて額に手を当てた。ウィリアムはくすくす笑って「お互い部下に恵まれたなぁ」と言って続けた。
「レオ、お前もそろそろ俺の性格が解ってきただろう。俺は、お前の危機を前にして黙って送り出すなんてことはできないからな。時間が惜しいと思うなら、諦めてこのまま乗ってくれ」
憎めない笑顔を真っ直ぐに向けて、「ん?」と乗船を促すように首を傾げるウィリアムにレオナルドは本日何度めかわからないため息を吐いて、「全く!」と言いながら乗船した。
「ジャックが怒るぞ」
「この程度で怒るなら、俺は今頃ジャックの手で海に沈められてるよ」
「…ジャックに心から同情する」
ウィリアムは笑って櫂で桟橋を押した。
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