第7話『プラトン「国家」』


 ウィリアムの自室では、レオナルドが元通りにデスクに置いた書類から離れ、部屋を見回していた。

 書類の存在を忘れさせるような何かを探すように、うろうろと視線を巡らしていたが、ふと部屋の隅にある本棚に目を留め、近づいて中を覗いた。

 本棚には、小説から専門書まで、多様な書籍がぎっしりと詰まっていた。レオナルドはそのひとつひとつを興味深そうに目で追っていた。


 …ソクラテス、プラトン、アリストテレス…あの男は古代ギリシャ哲学信奉者か…。

 …各国の歴史書が多いな。史記と孫子の兵法書…東方マニアか?

 こっちは…、バイブル、仏法蔵、論語? …あいつは多信教者か?


 訝しげに本の背表紙を見ていたレオナルドが、背後で豪快に扉を開ける音に振り返った。


「すまん。待たせたなレオ」

「いや、構わん」


 扉を開けるなりいつもの笑顔でそう言い、急いで駆けつけてきた様子のウィリアムは、そのままレオナルドの近くに歩み寄ってきた。


「何か、気になる本があったか? よければ貸すぞ」

「そうだな…興味深い書物ばかりだが、今、私が気になる最たるものはお前だな」

「…え?」


 レオナルドの言葉に、ウィリアムは口を半開きにしてレオナルドを見た。

 そんなウィリアムの顔を横目でちらりと見て「なんて顔をしている。阿呆みたいに開いているその口を閉じろグレイ」と言い、本棚に目線を戻して続けた。


「航海術や兵法や天文学の研鑽は海に出る男として必須だが、一介の海賊であるお前が何故、ここまでの本を読む必要がある? 歴史、哲学、宗教、心理学。グレイ、お前は作家にでもなるつもりなのか?」

「ああ、そういうことか…」


 ウィリアムは拍子抜けしたような、ほっとしたような顔をしてから、気を取り直すように頭をかりかりと掻いてから、ゆっくりと口を開いた。


「そうだなぁ…。何故、本を読むのかと問われたら…人間を知るため、と答えたらいいかな?」

「…?」

「最初はな、平和について探求しようと思ってたんだ。俺もジャックも、戦で家族と故郷を無くしてるからな。だから、平和な世の中を作るにはどうしたらよいかと、色々な本を読み始めたんだ」

「ほう、興味深いな。それで? 平和の方途は見出せたか?」

「ああ。それが、『人間を知ること』だと解ったよ」

「………」


 レオナルドは、じっとウィリアムを見た。もっと深い説明を促しているその眼差しに、ウィリアムは優しく微笑んで、続けた。


「人間というのは、様々だろう?レオ。一人一人の生き方も、境遇も、千差万別だ。まったく同じ人間なんかいやしない。人それぞれ、思いが違って、価値観が違う。それ故に、それぞれが共存する小社会の中で、諍いや争いが生じるんだ。 親子夫婦においても、時折、相互不理解が生じるというのに、他人同士、または民族・国家間などにおいては尚更だ。そうだろう? …一対一の友人同士においても、国と国の相互関係においても、如何にして争いをなくすかといえば、その手段は、互いを理解し合うという一点しかないと思うんだ」

「正論だが、夢物語だな」


 レオナルドは、きっぱりと言い放った。


「この広い世の中をよく見ろ。お前の言うとおり、多くの人間がいる。良識を持つ者もいれば、無知な者もいる。そして善人もいれば、悪人もいる。 お前の論説は、この世の悪のすべてを根絶させ、正しい人間ばかりで世界を統一しようという、現実から目を背けた理想主義に他ならぬ」

「ははっ。理想主義か。そうだな、確かに俺の主張は、俺自身の理想から生まれたものだが、俺だって世の中の現実もしっかり直視してるさ。不可能な理想論だということは解ってるよ。だが、それで諦めてしまったら、人間は、悲観的な運命に流される未来しか望めないだろう? すべての人間は、決められた運命に従って生きているんじゃない。自己と他者の幸福を目指し、そして未来の人類の幸福を確立する使命を担って、生きてる。 …そう、俺は思ってる」

「それはどこまで行っても理想論だ、グレイ。人間は、愚かな生き物だぞ。悩み、迷い、妬みや憎悪や欲の感情を具え持っている。その感情を持った人間に、自由な生き方を尊重させれば、その愚かさの故に、他者を害することもある。 すべての人間が、お前の言うような、慈愛と献身の心を持って生きるなどと、出来るはずがなかろう。どこにでも、悪人と愚人はいる。どうしたって、犯罪も戦争も無くならぬ。それが世の中だ」

「うん、ならば、どうする? 一国の…世の中の平安と秩序を保つには、どういう方法をとればいいと思う?」


 ウィリアムの問いかけに、レオナルドは間髪を入れずに、凛として答えた。


「強大な力での支配。それしかあるまい。人間は、畏怖によってしか、従わせることができぬ。そういった独裁制を、非人道的だと訴える者も居るが、絶対的権力による民衆の支配によって、世の中の平和と秩序が護られるなら、そうした全体主義思想を用いるしかないであろう?」

「全体主義か…。すべての民衆の個別性を許さず、思想を一つに統一させ、権力の監視下で民衆を支配するのか?」

「平和と秩序は、それで護られる。 違うか?」

「いや。違わないよ。一国を一つの権力で統治する上では、その方法が最良であると思われる。正直、規模は違うが、俺もずっと、海賊行為で多くの暴漢を黙らせてきたからな。このセオ島を護るにはそれしかなかった」

「そうであろう。一国の安定を保つためには、どうしたってそれしか方法がない」

「うん。だが、そうした権力での統治国家は、一時は栄華を誇っても、長続きはしないだろう。 人間は、考える生き物だよ、レオ。自由を奪う圧政に反発し、立ち向かう者は必ず現われるだろう。人間は愚かだと考え、支配できると思った時点で、すでにその国の滅亡は始まっているんだ。

人間を、大多数の物として考えては、必ず間違う。民衆一人一人が、尊い、『生命の個』だと考えなければならないと思う」

「…『個』…?」

「人間一人一人の個性と自由を奪うような全体主義では、真の平和は生まれない。歴史が、それを証明している。一人一人に、光を当て、個性と可能性を養い、正しく自由な教育の流布で、平和な社会の実現を目指す。一人一人の民衆が、それを目指すんだ。限られた権力者が独断で決めるのではない」

「…つまり、民衆を主体にした、民主主義政治こそが、平和を作ると?」

「そうだ」


 レオナルドは一呼吸置いて、少し考えてから、ゆっくりとウィリアムに語りだした。


「グレイ。プラトンの『国家』は、読んだな?お前の本棚にあった」

「ああ、読んだよ。正義と悪、人間と国家のあり方について深く語られている。まさしく大著だな」

「ならば知っているだろう? あの書では、理論的に民主主義を批判している。

 紀元前、民衆一人一人の自由を尊重したアテナイの民主政治は、プラトンの師であり、大哲人であるソクラテスを死刑に追いやった。それは、平和に安穏とし、堕落して移ろいやすい人間の愚かな心が作った衆愚社会が、人間の善悪の判断を狂わせ、そうさせたのだ。

 人間の精神は、自由と平等な社会においては、揺れ動き、愚かになるものだ。そのことも、歴史が証明していよう?

 その揺れる民衆の心を放置してしまえば、安定して健全な民主政治など期待できぬ。エゴイズムが蔓延し、堕落した若者が増える。そんな衆愚社会を生み出すことは目に見えている」

「確かに、そうだな。だからこそプラトンは、正しい制度の在り方としては、最後から二番目の、第四位に、民主制を位置づけている。 だが、レオ。その下に位置づけた、最悪とされた制度は何だった?」

「…僭主制だ」

「そう。全体主義的思想を基調とした、僭主制だ」

「だから、私のほうが間違っていると言いたいのか?」


 睨むように見つめながら言うレオナルドに、ウィリアムは困ったように微笑みながら言った。


「そうじゃないよ、レオ。真に平和と正義を目指すには、方法は色々ある。人間は長い歴史の中でそれを必死で追求してきたが、未だに確固たる方途は掴めていない。それは、最初に言ったように、人間の思いは一人一人違って、千差万別だからだ。お前にはお前なりの正義があり、俺には俺の理想と主張がある。それを否定し合い、反発してしまうから、戦争になるんだ。…だから、理解し合うことが必要なんだよ。 語り合い、お互いの主張の中から、相互性と調和を見いだすんだ」

「そんなことが、可能か?」

「今、俺とお前がやってるだろう? 不可能に思えるか?」

「…わからぬ」


 半ば混乱しているようなレオナルドに、ウィリアムはゆっくりと、諭すように言った。


「プラトンの話に戻ろうか、レオ。 『国家』は、俺が読んでも難解な書物で、作者の真意がわからないことも多いが、プラトンは、制度の在り方、社会の在り方よりも、人間という永遠の謎の解明を追及している。

 『人間は、いかに生きるべきか』 その一点だ。 お前は、どう思う?レオ。人間は、いかに生きるべきなのだろうか?」

「善と正義を重んじた人道主義により、平和と幸福の確立を目指す。それが正しい人生だと、私は思う」

「ははっ。難解な答えだな。だが、真理だ。正しい。…俺は、簡単に言えば、自己の幸福に加え、他者の幸福のために生きることが正しい人生だと思う。なあ?どうだろう?お前の主張と同じ意味合いだな?」

「ああ、…そうだな」

 ウィリアムは、優しく微笑んで言った。

「ソクラテスは、対話を重んじた。プラトンの書も、ソクラテス的対話形式で書かれている。人間同士の対話の中にこそ、理解と、平和と、真理が生まれる。そう、説いているんだ。

 例えば、釈迦も、キリストも、すべての人類と世界の平和を祈り、対話による宗教哲学の流布を行じた。 気の遠くなるような迂遠な方法に思えるが、一人一人の人間の心を開き、正道に向かわせることが出来るのは、それしかないと思うよ。そうじゃないか?」

「……」


 レオナルドは、混乱していた。

 ウィリアムに同意したかった。思わず、「そうだ」と言いかけた己がいた。しかし、次の瞬間レオは自分の立場を思い出した。


 …違うのではないか? それは、普遍的真理なのか?私とお前の間には、その論理は通用するのか?…


 レオナルドは、少し考えてから、ぽつりと言葉を発した。


「海賊と、海軍同士の対話で、本当に真理が生まれるのか…?」

「……」


 ウィリアムは一瞬口を噤んだ。

 レオは、いつも、素直だ。常に真理を追究する、純粋な人間性に溢れている。

 だが、ある瞬間に、頑なに心の扉を閉じてしまうようなときがある。その理由は、立場と責任があるせいなのであろう。それが、レオの枷となって、自由な思想を開くのを躊躇しているのだろう。


 …可哀相に…。


 ウィリアムはそう思いながら、レオナルドに言った。


「俺は、海賊として、海軍のお前と対話をしているんじゃない。人間対人間として、話をしているんだ」

「……」

「俺は、海賊である前に人間だ。お前のことも、そうだと思っている。…お前は、そう思ってはくれないのか? お前にとっては、一個の人間である前に、非道な海賊としてしか、俺を見ることは出来ないか?」

「そんなことは…!」


 レオナルドは何か言いかけて、思いとどまったように口を噤み、ウィリアムを真っ直ぐに見つめながら、少しの間、発言の是非を思い悩んでいるようだった。しかし、真剣に見つめるウィリアムに、やがてゆっくりと口を開いた。


「私は、話がわからぬ人間ではない。…お前は、海賊だが、私はお前との対話の中でしっかりと、お前の話の本質を理解し、真実を見極めたつもりだ。お前の、人格もな」

「…俺も、お前がとても純粋でいい奴だということを知ってる」

「……」

「レオ。お前の言ったとおり、この世には善人もいれば悪人もいる。立場で言えば、俺とお前がそうだ。価値観も違って、思いも性格も違う。だが、理解し合える。そうだろう?」

「……」


 レオナルドは、完全に口を噤んでしまった。


 …グレイは、正しい。

 だが、私たちが理解し合って、その先に何があるというのか。私たちはどこまでいっても海軍と海賊だ。その中に和平が見出せるとでも?

 …お前は理想を求め、私は正義を求める。そして目指すべきは同じ、…平和。

 同じ…。そう、同じなのだ…。

 だが、どうあっても…。


「立場が…違うではないか…」


 そう言ったレオナルドは、真っ直ぐにウィリアムを見ていた。その目は、ひどく悲しそうに見えた。

 ウィリアムは、レオナルドが悩んでいるのを知っていた。

 レオナルドは、誰よりも正義感にあふれ、それゆえ常に真実を求めているのだ。そのけなげな姿に、ウィリアムは抱きしめたい衝動に駆られた。


「……俺は、お前が好きだよ、レオ」


 ウィリアムは優しく微笑んで言った。そして、それと同時に、心の中で自分に言い聞かせるように思っていた。


 …そんなのじゃ、ない。

 そういう、意味じゃない。

 レオは、いい奴なんだ。友人として、こんなにいい奴はいない。立場と責任を重んじながらも、俺を理解できる方途を見出そうと必死で悩んでくれてる…。

 放っとけないんだ…


 ウィリアムは、そう思ってからにっこりと微笑んで、一段と明るい声でレオナルドに言った。


「なあ! 俺は、まだまだお前と語り足りないんだよ。お前をもっと知りたいと思ってる。お前の良いところも、悪いところもな。 …何かの、結論を出すのはまだ早い。そうじゃないか?」


 ウィリアムは、レオナルドの肩をポンポンと叩いて、言った。

 レオナルドは少しだけ驚いたように目を見開いてウィリアムを見ていたが、ふとその目を細めて、頷いた。


「…ああ。そうだな」

「よし! じゃあ、座って、もっとゆっくり話そう。…おっと。仕事の話が先だったな。すまん、俺のせいで時間がかなりズレてしまったな。ちゃっちゃと終わらせよう。掛けてくれ、レオ」


 嬉しそうにそう言いながらレオナルドの肩に手を置き、優しくソファへ促すウィリアムを、レオナルドは柔らかな眼差しで見つめていた。


 レオナルドの心が、心地よく、温かかった。

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