第6話『ウィリアム・グレイという男』



 それは数日前のこと。

 レオナルドは、戦備の打ち合わせの為に、かねてより決められていた時間に港の近くに位置するフォックス社の屋敷を訪れた。

 ウィリアムの私邸はもう少し内陸に入った静かな場所にあるが、忙しい彼は自分の屋敷にはたまにしか帰らず、執務がしやすいこの屋敷で寝泊まりすることが多い。そのためここにはウィリアム用の部屋が完備されていた。

 すでに半開きになっていた部屋の扉から中を覗くと、ウィリアムは忙しそうにデスクに散らばった書類をかき集めていた。

 初めて出会ったときは、航海から帰ってきた直後で全身汗と埃にまみれて不衛生な印象だったが、いま、清潔そうな白いシャツに上品なウエストコートを着てフォックス社の事務仕事をする様は凛々しい大商人のご子息そのものであった。ただ、つい目を奪われる美しく長い銀髪だけはどうしても商人には見えない。

 来室したレオナルドに気付くと、ウィリアムはぱっと笑顔を見せて「ようレオ、来てくれたのか」と嬉しそうに言ったが、すぐに思い出したように焦りの表情に戻り、困ったようにわしわしと頭を掻きながら、戸口に立っていたレオナルドに歩み寄った。


「すまん、レオ。少々雑務の処理にてまどっちまってな。すぐ終わらせて戻ってくるから、ここで適当に待っていてくれ」


 そう言ってウィリアムは、レオナルドの横をすり抜け、「必ずすぐ戻るから、絶対待っててくれ」と、憎めない笑顔で念押しをして、早足に部屋を出て行った。


「………」


 ウィリアムのペースに乗せられて、一言も発することが出来ないまま部屋に一人残されたレオナルドは、少しの間、何か考えながら部屋を見渡していたが、やがてその表情に怒りの色を浮かばせた。

 約束の時間をウィリアムが違えたことや、一人放っておかれた事を怒っているのではない。互いに忙しい身で、過去にも今回のようなことはあった。二人で夜遅くまで語り合った時などは、ウィリアムは酒を取りに立ったりして、よく中座していったものだ。

一人で待つことなど、どうということはない。


「…私が、腹が立つのはこれだ…」


 レオナルドはそう言いながらウィリアムの執務用のデスクに歩み寄り、その上に積まれた幾束もの書紙に乱暴に手を乗せ、覗き込むと、心の中で叫んだ。


 …やっぱり!ここにあるものはほぼ、内部機密文書ではないか!

 何故あの男は、こうも無防備なのだ。本来敵である海軍将校を残した部屋に、こんな大切なものを晒しておくな!馬鹿者!


 レオナルドは、この部屋に一人残されるたびに、無造作に置かれたこういった文書を目にしていた。今回もまた、不愉快な顔をしながら、目を通す程度にパラパラとその書類をめくり、その内容を確認した。


 …ミラー一味に破壊された都市の、復旧作業の進捗報告書か。

 …以前に見た報告とは違う都市だな。この地にも手を伸ばしていたのか。

 あとは…、材木の発注書。…各地で起こった暴動の情報。

 …こちらは武器の輸入品の見積書…か、これは見捨て置けぬな。軍の認可を得た商品かどうか確かめる必要がある。


 レオナルドはふいに、険しい顔をして目線を書類から離した。


 …これを、私が軍に証拠として提出すれば、どうなると思っているのだ。私と交わした紙一枚の契約書や証文など、戦が終われば容易く反古になるに決まっている。軍が、グレイ一味の確かな罪状の証拠を押さえておけば、公然と逮捕し処刑することができる。それが解らぬ男ではなかろう。

 …グレイは一体、私に、どう、させたいのだ…。


 レオナルドは、持っていた書類を握る手に力を込め、辛そうに眉をひそめた。


 …いや、違う。私が、どう、したいのか。それが問題なのだ。海軍としての私がどうすべきかは解りきっている。そうではなく、私個人がどうしたいのか。グレイを、罪人として処刑したいのか。それが、問題なのだ…。


 レオナルドが腹を立てる理由はそこにあった。

 自分がどうしたいのかが解らない。 いや、どうしたいのか、もう、答えは出ているのかもしれない。だが、それを認めることは、レオナルドの立場上、できないのだ。


「………」


 レオナルドは、閉じていた目を薄く開き、冷静な頭で考えた。


 …そう、私は海軍として、今手にしている書類を持ち出し、上に提出するべきなのだ。私は間違ってはいない。

 そもそもこれは、無防備に私の前に重要書類を置いていたグレイの失態だ。グレイの責任なのだ。

 私が、思い悩む必要など、ないのだ。

 …いつもあの男は、こんな風に、私の前でも何の秘密もなく…


 そう思ったレオナルドの脳裏にふと、屈託のないウィリアムの笑顔が浮かんだ。そしてそのときに、今まで考えるのを避けていた事実に思い至った。

 ウィリアムは、海軍という立場のレオナルドに対して、無防備で考え無しなのではない。


 …私は、信頼、されているんだ…


 レオナルドは、胸の中に暖かい感情が宿るのを覚えた。だが、それと同時に、身が裂かれそうなジレンマが心を冷たく襲った。


「…海賊の、くせに…!」


 レオナルドは顔を歪めながら、手に持っていた書類を、乱暴にデスクに置いた。




 レオナルドがそうしている間、ウィリアムは屋敷の中で慌ただしく動き回り、同じ屋敷内の自室で仕事をしているアルフレッドに書類を渡して早口で業務の報告をしていた。

 そして一段落ついたときにチラリと壁時計を見た。


「まずい。結構待たせたかな。怒っていないといいが…」

「また、スタンリー大佐を待たせてるのか、ウィル」


 アルフレッドが呆れたように言うと、たまたま部屋に来ていたジャックが割り込んできて口元に笑みを浮かべてウィリアムに訊ねた。


「で?また、レオナルド君を試すようなこと、してんの?」

「試すとはなんだ。人聞きが悪いな」

「はいはい、ごめんよ。けどさ、海軍に海賊の内部事情を晒しまくるのって、やっぱどうよ? 見てるこっちはハラハラだよ。大丈夫なのかい?」

「大丈夫さ。レオは、いい奴だよ」


 屈託なく笑って言うウィリアムを見て、ジャックはふうん・と感心したように返した。

 ウィリアムは、やや自慢げにレオナルドの話を続けた。


「確かに、海軍特有のギスギスした感じはあるな。だが、どうやらそれはレオの性格的なものもあるようだ。レオ自身は、海軍の洗脳的な規律に囚われすぎてはいない。ちゃんとした己の意思をもっていて、他の者の話や意見を聞く耳と、理解する心を持っている」


 そうなのだ。レオナルドはまさに絵に描いたような、徹頭徹尾『大貴族』で『軍の高官』なのだ。

 高い地位と身分を鼻にかけ、高圧的で己の意思を曲げない頑固者。『大義』を振り翳して権力を行使する冷徹な軍人。

 そう、きっとレオナルドに初めて出会う人間のほとんどが、同じ印象を受けるはずだ。実際にウィリアム自身も抱いた第一印象はそんなものだった。

だが、ウィリアムは印象で人を決めつけるとひどい誤解と失敗を生むということを知っていた。その人を知るには、胸襟を開いて対話するべきだと思い、多くの時間をレオナルドとの談義に費やした。

 その結果、レオナルドは、尊敬するに値する人間だということがウィリアムにはわかった。

 彼は、身分や美貌といった生まれつき与えられていたものを、甘んじて享受してはいない。貴族という身分を、人を見下し虐げる権利を与えられた高貴な立場だと思ってはおらず、弱者を護り国を支える礎だという信念を持っており、他者のために労力を惜しまない優しさを持っている。

 …これには驚きを隠せなかった。世の中に、己は選ばれた人間だと勘違いをして富と名誉を貪る貴族のなんと多いことか。そんな中で大貴族に名を連ねるスタンリー家の嫡子が、人道を重んじる信念を抱いているとは…これはウィリアムにとって思ってもみない、嬉しい発見だった。

 そして、ウィリアムが一番に心を打たれたのはレオナルドの強さであった。レオナルドは、とんでもない努力家だった。類稀なる剣の腕と機転が回る頭脳と叡智に、彼を天才と称する者が多いと聞いていたが、そうではなかった。彼は自分自身が天才と呼ばれるような優秀な人間ではないということを理解している。だが、大貴族の嫡男として、完璧な人間でなければならぬと己を律し、彼は努力して、努力して、ひと時のため息すらも飲み込んで努力を重ねてきた。他人に弱さを気取られるのを恐れ、近しい人間をつくらず、顔に無表情の仮面を貼り付けた。

 やがて、それが彼の『自分』になった。

 辛く悲しい、孤独な生き様だと思った。

 きっと、彼に『好きなものは何か?』と尋ねても、一般的な貴族が好みそうな娯楽を形式的に答えるのだろう。

 ああ、彼は、貴族社会で、軍の規律の中で、ひたすら優秀に生きなければならなかった。『優秀』以外は認められない。甘えなど許されなかったのだ。

 それに気づいた時、ウィリアムは胸が締め付けられる思いがした。


 …レオナルドは、真っ白だ。狭い社会の中での常識しか知らず、ひとつの正義のみを信念として生きている。その信念は些か独善的なものだ。しかし彼自身は素晴らしい人道的な思想を持っている。若い彼は、これからその思想と信念を持って軍や国の中枢で活躍して行くことだろう。

 …足元が、不安定にならなければいいのだが…


 レオナルドを取り巻く窮屈な組織社会の中で、彼の純粋でまっさらな人間性はちゃんと保たれるのだろうか? いつか、何かを見失って崩れ落ちるようなことになりはしないだろうか?

 ウィリアムは、レオナルドが心配でならなかった。

 あんなに努力家でひたむきで、優しいレオのことを理解してくれる人間は誰もいないのだろうか?

 あの綺麗な瞳が落胆の影を帯びることがないように、自分が、側に居て彼の支えになれたらいいのに…。

ウィリアムはそう考えるようになっていた。


 アルフレッドとジャックにもレオナルドのことを知ってもらいたいが故に、彼の人柄の説明に自然と熱が入る。

 

「誤解されやすいが、根本的にレオは柔和で優しいんだ。俺が話す言葉の一つ一つを、綺麗な青い瞳を真っ直ぐに向けて、真剣に、聞いているよ」

「へぇ。俺とは会話どころか目も合わせてくれないけどねぇ。…っていうか、彼の瞳の色は青かったか? 黒じゃなかったっけ?」

「ああ。黒に見えるんだけど、不思議なんだ。髪の色もそうだが、光の加減で青みを帯びる。深い海のようにキラキラしていて、本当に、とても綺麗なんだ」


 ウィリアムがその瞳を思い出してうっとりと目を細めた。


「レオが許せば、今度一緒に話してみるといい。彼の内面と外面の美しさがすぐに分かるぞ。…所作のひとつひとつが芸術的に綺麗で、見ていて心地いい。ああ、天才的に頭も良いんだろうなぁ、…落ち着きのある凛とした声で明快に受け答えして、純粋な心で、俺を理解してくれようとしてくれて…。…うん、レオは、すごく純粋で、…いいよ」

「…いい、か…」

「ん? ああ。うん…いい、よ」


 ジャックとアルフレッドは、話しているうちにだんだんと変化していくウィリアムの表情をじっと観察していた。ウィリアムもそんなふたりの視線に気付いたのか、最後のほうの言葉はかなりたどたどしかった。

 きまりが悪そうに口を噤んでしまったウィリアムに、アルフレッドはやや真剣な口調で言った。


「だが、海軍といい仲になれるか?」

「立場は関係な…! …いや、…そんな、ことじゃない。アルフィー、違うんだ。レオのことは、そんなのじゃ、ない」

「……」

「…そんなのじゃないよ」


 ウィリアムは少し困ったように笑って、「じゃあ俺は行くから、後は任せた」そう言い残し、逃げるような態度で去っていった。


「冗談半分、カマ掛けてみただけなんだけどなぁ…」


 そう言ったアルフレッドに同調するように、ジャックは常に下がり気味の眉尻を更に下げ、困ったように頭に手を乗せて「そりゃ、マズいよ。ウィル」と呟き、アルフレッドと顔を見合わせてふたり同時にため息を吐いた。

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