書店の青年
金子ふみよ
第1話
その書店はショッピングモールのテナントの一つだった。初めて訪れたそこで平積みに横たわる青年を見た。一つ離れた棚の前ではキャンプの雑誌を立ち読みしている男がいる。あたりを見渡してみたが、青年の友人たちはいないようだ。距離を取って動画を撮影している構えの人はいないし、腹を抱えて笑いをこらえている人もいない。青年は一人肘をついた横向きの姿勢で本の上に乗っていた。エプロンをつけた店員がいる。レジからは声がする。中年の店員が近づいて来た。目の前を通り過ぎる時ネームプレートが揺れた。店長だった。店長は横になっている青年の前を素通りした。あっけにとられたまま店長の背が棚を曲がって見えなくなると、目を落とした。青年は瞑目したまま微動だにしていない。棚を周回することにした。盛大な錯覚を及ぼしたのかもしれないと思ったからだ。なにせ休憩をはさんだとはいえ5時間車の運転をし続けた後だ。この後もまだ3時間ほど運転が待っている。昼食を食べすぎたせいか。水分の補給が少なかったせいか。そもそも本が欲しくて入ったわけではないじゃないか。新刊の発売は明後日だし、それはすでにネット注文してあるから家に届けられる。たまに見る週刊誌とて昨日コンビニで立ち読みしている。気にしないでおこう。いや、気になる。周回をしてみると、やはり青年は平積みに横たわって瞑目している。いびきも寝息も聞こえない。が、腹は動いている。生きている。もうわけがわからない。書店を出る決意をした。レジ横の、万引き防止用のセンサーを通り抜けようとしたとき、呼び止められた。振り向くとあの店長だった。
「あのー、失礼ですが、本の上に寝ている青年を見られましたか?」
わかっているならなぜ注意をしないと、わけのわからぬ熱が頭と胸に着火した。
「これを渡せと」
店長は四つ折りにした紙を渡してきた。眉根を寄せたまま差し出されるまま受け取って開いた。メモ書きだった。
「振り返ってはいけない」
メモをぐしゃぐしゃに丸めて叩きつけるようにして床に捨てた。
むしゃくしゃした感情のわりに頭は冷静で3時間の道中をあっという間に終えた。運転し終わるとやたらに疲れてしまって休憩をとるのをなぜ忘れていたのかとさえ反省をすることになった。
ホテルに泊まって翌朝テレビをつけるとニュースをやっていた。昨日事故があったらしい。それはショッピングモールからこのホテルの途中で、事故発生の時刻を聞いて血の気が引いた。それはバイパスを一本脇道に入った休息の予定を入れていたところだった。
二日後、帰りの車中。ずっと迷っていた。あの本屋によろうかどうかと。立ち去り際のぶしつけを思い出すと寄りにくい。けれども気になって仕方ない。ここに来る用事なんてそうそうあるわけでもない。意を決して、あのショッピングモールに車を入れた。
恐る恐る書店に近づいた。レジ係の店員に気さくそうに声をかけていたのは店長だった。背筋が伸びる気がして、後回しにするよりかはとあの時の非礼をわびた。店長は狐につままれたような顔と声をして、「そんなことございましたか?」と答えた。そこで慌ててあの青年のことを話した。すると店長は「そのような方はいらっしゃいませんでしたが」と困惑気味に答えた。当惑するのはこちらである。あれは見間違いだったのか。書店を出て、食品コーナーでパンと炭酸飲料とブラックコーヒーを購入して、車に向かうことにした。土曜日の午後、ショッピングモールは家族ずれ、恋人たちなどと買い物を楽しむ、時間をつぶす一太刀であふれていた。なんとも釈然としないながらも力なく歩いていると、あの青年と同じ色のトレーナーを着た人とすれ違う瞬間、そうっとこう聞こえる声が耳元にあった。「よかったですね、振り返らなくて」。冷え冷えとした声に振り向こうとした。が、あまりの唐突さにただ歩みが止まるくらいにゆっくりになるだけだった。
書店の青年 金子ふみよ @fmy-knk_03_21
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