死にたがりは何を願う
氷魚
死にたがりは何を願う
――君だけにあたしの秘密をあげる。
バイト帰りで通るネオン街の中、聖は歩いていた。右を見れば、酒に酔い、幸せそうにふらふらしている者。左を見れば、キャバクラやホストクラブに入っていくサラリーマンや若い女性。
今日も皆は、何かに耐え、その苦しみを解放するために、あるいは救われるために、ネオン街にやってくる。
そんな皆の様子を観察するように、聖はじっと見つめていた。時間は止まることなく、流れ続けている。誰かがいなくなっても、世間はその人に目を向けることはない。思ったよりも、人間は冷酷で薄情なのだ。
聖のバイト先である雑居ビル・・・アダルトビデオ制作会社も、そのような人間が数多く存在している。
清掃員をしていると、色々な話が耳に入るし、人間の弱くて脆い面も目に入るのだ。
パーカーのフードを深くかぶる。もうすぐネオン街から出る。なぜだろう。ここの空気は汚くて息苦しいはずなのに、居心地がいい。人間たちのそのような醜い面を見ることによって、世界はこんなにも小さいのだと思えるからだろうか。
「はは」
自分を嘲笑うような、そんな笑い声が自然とこぼれた。
ネオン街の曲がり角で、二つの声が聞こえた。フードからちらっと見てみると、見覚えのある女子と三十代ほどだろうか。くたびれたスーツをまとうサラリーマンがそこにいた。
どうやらもめているらしい。
俺には関係ないことだ、とそのまま通り過ぎるようにして歩こうとした瞬間、
「あんたみたいなクズ、ヤらせてあげたんだから、感謝しなさいよね。あんたのこと、飽きたからさっさと消えてくれない?」
女子のそんな冷たい言葉はサラリーマンの心に深く刺さる。サラリーマンは侮辱された、そんな気持ちになったに違いない。
サラリーマンは女子の細い首を絞めた。今、目の前で殺人が起ころうとしている。女子はわざと怒らせたのか、首を絞められている彼女の顔は嬉しそうだった。――いや、目の前にいる、殺そうとしているサラリーマンの醜い姿にうっとりしているようにも見えた。
聖はスマホを取り出し、
「もしもし、警察ですか?***街**丁目で、男の人が女子高生の首を絞め、殺そうとしています」
二人にも聞こえるように、わざと大きな声でそう言った。サラリーマンは首から手を離し、逃げるようにその場から去った。
むせるように咳き込む彼女に、手を差し伸べることをせず、ただ黙って見つめていた。
「・・・本当に110番したの?」
か細い声だった。
「フリだよ、フリ」
スカートに付いた土の汚れを落とし、鞄を肩にかけて、彼女は聖を睨んだ。
「どうして、邪魔したの?」
その問いかけを無視し、「さっきの男。どうせ援交相手とかだろ」と男が逃げた方向を見た。
「あたしの質問に答えて!」
声を荒げる彼女。
「お前が、死のうが生きようが、興味はねえ。ただ、目の前で人が死んだら、面倒だろうが。それに、人が殺されるのを黙って見てられるほど、俺は図太くねえよ」
「じゃあな」と、この場から去ろうとしたが、腕を掴まれる。振り返ると、妖艶に微笑む彼女がいた。
「君、面白いね。―――ねえ、あたしの話聞いてくれる?」
「断る」
「セックスしてあげるから」
「もっとない」
この時の、聖の腕を掴む彼女の手は震えていた。
「・・・10分だけだからな」
聖と彼女は少し歩いた先にある河原に座っていた。
「君、名前・・・」
「思い出さなくていい。お前は、桜井里奈だろ」
「嬉しい。知ってたんだ」
「目立っていたからな。クラスのムードメーカーのようなもんだろ。お前は」
「それは表の顔よ」
「表?」
「うん」
ちらっと横顔を見ると、里奈は哀しそうな表情をしていた。
「――君だけにあたしの秘密をあげる」
そう言って、里奈は立ち上がり、聖の目の前に立った。彼女の黒く長い髪が聖の頬に落ちてくる。そして、触れるだけのキスを。
「あたしね、“死にたがり”なの」
「・・・死にたがり?」
「うん。誰かに殺されたい願望があるの」
それはひどく脆くて、儚くて、醜い秘密だった。
「・・・だからか」
「え?」
「さっき、お前わざと怒らせてたんだろ」
「うん。どうして?」
「――嬉しそうだった」
「・・・」
「ああ、死ねるんだって。そんな顔をしていた」
里奈はふふっと笑う。
「君はすごいね。あたしのこと全部分かっているみたい。仲間なのかしら」
「はっ。お前と同類なんて死んでもイヤだね。人間観察が得意なんだよ」
聖は今度こそ、と立ち上がり、フードを取った。
「じゃあな、死にたがり」
遠くなってゆく、聖の大きな背中をじっと見つめ、里奈は、
「ああ。*****」
その囁きは風にかき消された。
「ねえ、あたしとセックスして」
「断る」
このやりとりはもう何度目だろうか。あの日をきっかけに、里奈は聖を見かけると、周りには聞こえないように、聖の耳元でこう言うのだ。
「気持ちいいよ。あ、童貞?」
「違うわ。好きでもない奴とやれるか」
「見た目と違って、誠実なんだね」
楽しそうに笑う彼女に、思わず大きなため息を吐く。
教室にいる時は、話さないというルールを作った。里奈は友達と楽しく話をする。聖は一人で本を読むか、音楽を聴くか、寝るかだ。これは暗黙のルールのようなものだ。里奈は自分の裏の姿を知られたくなかった。聖は目立ちたくなかった。利害の一致でこのような関係になったのだ。
それに、はたから見れば、正反対な二人が実は秘密を共有する者同士だとは思わないだろう。
聖は、なぜ里奈が“死にたがり”なのか。なぜ殺されたいのか。それが理解できなかった。
里奈はいつでもクラスの中心にいて、いつも笑っていて、この人生に不満なんかありませんというような顔をしていた。そんな彼女が夜になれば、殺してくれそうな人を探しては、セックスをし、わざと怒らせて、殺されようとしている。それを繰り返している。生きていると実感したいのか。【死】を知りたいのか。里奈のことは里奈しか分からない。
里奈の秘密を知っているのは、俺だけ。
なんとも言えない気持ちになる。面倒だなと思いながらも、心のどこかではどうしたら止められるのかと、里奈の死を望まない自分がいた。
夕日が暮れ始め、部活動に参加している生徒が多く学校に残る中、聖はバイトがなかったため、図書室で本を読んでいた。
本は好きだ。本独特の香り。ページをめくる音。文章からどんな話で、どんな場面なのかを想像する。それが楽しくてたまらない。
『男は泣きながら、愛しい一人娘の首を絞めた。』
この一文に、あの日見た光景がフラッシュバックする。本はあくまでもフィクションであって、事実ではない。現実で見ることなど、0に等しい。そう、思っていた。
あの日、聖は見たのだ。人間の殺意というものを。人の手によって人が殺されようとしていたのを。
・・・しばらくこの手の本を読むの、やめよう。
バタンと本を閉じ、本棚に戻した。別の本棚から、ガタンという音がしたので、本が落ちたのかと思い、その場に向かった。
「あっあん・・・」
――女の喘ぎ声。
まじかよ。ここはヤり場じゃねえんだよ。神聖な場を汚すな。
「おい、何してん・・・だ」
そこにいたのは、里奈だった。もう一人の男は化学を教えている教師、如月だった。
「ヤるなら、ラブホに行けよ」
軽蔑するような目つきで、二人を見た。見下ろすように如月を睨む。
「誰にも言わないから、さっさと去れ」
慌ててズボンをはき、ベルトをカチャカチャと音立てて、汗だくのまま、如月は図書室から出て行った。
着崩れたセーラー服を直そうともせず、ただ座っている里奈に「お前もだ」と告げた。
「ねえ、あたしのこの姿見ても興奮しないの?」
里奈の言葉に覆いかぶさるように、「するわけねえだろ」と冷たく言い放った。
里奈は乳房を露出したまま、聖に近づく。里奈の細い首から滴り落ちる汗。女の匂い。その全てが気持ち悪かった。
「ねえ、あたしとセックスして」
そう言う里奈の目はどこか虚ろで。
「お前のセックス依存症は、殺されたい願望を抑えるためか?」
里奈の目が大きく見開く。
「さっきの如月とは、セフレとかだろ。だから、学校にいる間は正気を保っていられたんだな」
自分でも恐ろしいくらい冷静だった。冷静に里奈を分析していたのだ。
「ここは人智の詰まった、神聖な場だ。お前らのような奴が使っていい場所じゃねえんだよ。セックスするなとは言わん。だが、時と場合を考えて行動しろ」
聖は学ランを里奈に渡した。
「目立つから、これ着てろよ。ったく、迷惑な奴だな」
聖は図書室から出た。もう、時刻は夜。街頭に照らされた聖の顔は、苛立ちの色を表していた。顔を上げた。さっきの光景をかき消すように首を振り、家に着くまで走り続けた。
次の日。綺麗に折り畳まれた学ランが机の上に置かれていた。里奈を見ると、友達と一緒に居た。
―――もう関わりたくねえな。
聖はそう、心の中で呟く。
いつもと変わらない日々の中で、一つだけ変化したことがある。それは里奈と知り合ったことだ。
里奈はあれから、何度も援交相手に殺されようとしている。それも聖の帰り道で。
その度に止める聖。この繰り返しに、いつかは終わりが来るのだろうか。俺はいつまであいつを止めればいい?
里奈は聖に止められる度に、嬉しそうに笑う。子供が親にかまって欲しくて、わがままを言って怒られる。まるで、純粋な子供のように。
「痛いから、おんぶして」なんてわがままなことを言い出す。断ると面倒なので、聖は里奈を背負って、帰路につく。
背中から伝わってくる温もりに、鼓動に、
「里奈は今日も生きてる」と。
「なあ、どうして俺と関わるんだ?」
聖はそう尋ねた。
「君といると、本当の自分でいられるからかな」
「本当の自分?」
「うん。汚くて、弱虫で、セックスが好きで・・・“死にたがり”なあたしでいられるからかな」
そう話す里奈の声は酷く小さかった。
「そうか」
聖はこれ以上、何も言わなかった。
何も言わない、聖の大きな背中に預けるようにして、里奈は目を閉じた。
―――あたしは一人が嫌だった。だから、常にセックス相手を探して・・・。
でもなぜだろう。今のこの時間、長い沈黙が続く…。全然嫌じゃない。
里奈は口元を上げた。
そろそろ、けじめつけないとね。
河原の上で、歩く二人。月の光に照らされ、川がきらきらと煌めく。川の穏やかなせせらぎ音に耳を傾けながら。川は流れを止めることなく、ゆらゆらと揺れ続けている。
最近、帰り道で里奈が誰かともめているのを見かけない。
まあ、止める必要もなくなったから、楽にはなったな。
まだ、完全に日が昇りきっていない早朝。大きな欠伸をかましながら、聖は歩いていた。淡い白の太陽が向こうで顔を出し始めていた。
「朝の散歩はいいわ」
綺麗な空気を吸い、深く吐く。真っ白な息がすうっと消える。散歩してから、学校に向かう。これが聖の日課だ。
この時間は人がいなくていい。通勤時間になれば、楽に歩けなくなるくらい、人が増える。
人混みはあまり、好きではない。皆は「また、今日が始まるのか・・・」というような顔をして、今日を生きている。
そんな当たり前な日常の中に俺はいる。里奈はその日常とはかけ離れたような生活をしている。
それは皆が常に“何か”を我慢し、今日を生きているからだ。しかし、里奈は違う。里奈はいつだって、自分の欲求に忠実で、本能に逆らうことなく、生きている。里奈は自由なのだ。人間という理性に縛られることなく、本能の赴くままに生きている。
だからこそ・・・危うくて、脆い。
里奈と知り合ってから、一つの季節が過ぎた。
ほどけたマフラーを巻き直す。
学校近くの歩道橋に、里奈はいた。それも傷だらけで。
「どうしたんだ」
近くまで歩くと、里奈のその傷がどれだけ酷いかがよく分かる。里奈のその姿は痛々しかった。
頬には大きな痣を作っており、瞼の上にはおそらく切れたのだろう。血を止めるための絆創膏が貼られていた。
――いつだったか、聖は里奈に「自殺はしないのか?死にたいんなら、一人で死ねばいいだろう」と聞いたことがあった。
すると、里奈は、
「違うんだな、これが」
と、屏の上に立ち、バランスを取りながら歩く。
「あたしは一人で死ぬなんて、絶対イヤ。誰かの目の前で死にたいの」
「なぜだ?」
ニタリと口元を上げ、目を細めて笑った。
「そうすれば、【死】は身近にあるって周りに思わせることができるでしょう?それに目の前で死ねば、永遠にあたしはみんなの心の中で生き続けるでしょ。悲劇のヒロインとして」
狂っている。こいつは【死】を恐れていない。むしろ、【死】は善いものである!とアピールしているみたいだ。
そんな里奈が初めて、【死】を恐れているような目をしていた。痛々しい姿から伝わってくる、恐怖がビリビリと聖の体まで響いてくる。
「あたしね、援交相手を全部切ったの。そしたら、殴られちゃった」
自分を嘲笑うように微笑む。
スマホを見せられ、そこには家族や友人、そして聖を示す「君」だけが表示されていた。
この短い間に何かがあったのか。どういう心情の変化なのか?
「どうしてだ?」
「あたしを殺して欲しい人ができたの」
殺して欲しい人。
それは一体、誰だろうか。
前まで、里奈は誰でもいいから、殺して欲しいと願っていた。
それが、たった一人の“誰か”に殺されたいと願っている。
聖は「じゃあ、しばらくは死なないな」と里奈の肩に手を置いた。
殺されたいという願望に変わりはなかったが、殺されたい人ができただけでも良かった。なぜなら、しばらくは死ななくて済むからだ。それに、普通の人は人を殺そうとは思わない。当然だろう?殺して欲しいと頼まれて殺したとする。結局罪になるのは、殺した人なのだから。それって、おかしいだろ。お願いされたから殺したのに、死んだ人はただ運の悪い人間として悲しまれ、殺した人は人間のくずとして、世間から厳しいバッシングを浴びせられることになる。理不尽だろう?
「ねえ」
「あ?」
「すっと君のそばにいてもいい?」
その言葉の意図は分からなかったが、まあ、俺の前で死のうとしないんなら、別に問題はないだろう。
「勝手にしろ」
「――!ありがとう!!」
この時の里奈の笑顔は今まで見た中で一番いい笑顔だった。
どうして、里奈が「殺されたい」と思うようになったのか。それは決して、今の生活に不満があるわけでもなく、辛いことでも、幼少期のトラウマでもない。ただ、「殺されたい」だけなのだ。
「殺されたい」という欲求を、どうしても聖には理解できなかった。
大雪の日。しんしんと雪は降り続けている。雪の日は妙に明るくて、そして驚くほど静かだ。
この静けさが俺は好きだ。この世界に存在しているのは、俺一人だって思えるから。
大雪の日でもバイトは普通にあって。聖はいつものように清掃の仕事をこなす。女優さんや男優さんに声をかけられ、軽く挨拶をする。
ここで働く人たちは、里奈のように殺されたいという欲求を抑えるために、セックスするのではなく、仕事のためにやっている。中には、セックスが好きでこの仕事に就いた人もいるかもしれない。
けれど、里奈のような人はいなくて。
「今日も偉いわね」
女優の一人、茜にそう言われ、聖は「普通っすよ」と答える。
茜は人気女優で、彼女が出演しているAVを見たことない人はいないだろう。彼女のビデオは妖艶で、美しくて、人間の欲望を全部出しているようなそんなセックスをする。
「好きな人でもできた?」
そう言われ、聖は「はっ?」とまぬけな声を出す。
「だって、前よりも人間らしくなったじゃない。前の聖くんはね、ロボットみたいだったもの」
確かに。その通りかもしれない。里奈と出会ってからの俺はおかしい。
「でもそれは悪いことじゃないわ。自分の感情に振り回される。それが人間だもの」
茜はふふっと微笑み、「じゃあね」と撮影場所に向かっていった。
汗をかき、少し肌寒くなったので、つなぎのチャックを一番上まで閉めた。
窓から外を眺める。しんしんと雪は降り続けている。
「聖くん」
清掃員のリーダーである、荒木に声をかけられる。荒木は優しくて、穏やかな人だ。年齢関係なく、丁寧な敬語を使っている。
「雪、降り止まないようだから、帰れなくなる前に帰っていいですよ」
そう言われ、
「では、お言葉に甘えて」
と聖は頭を下げ、ビルを後にした。
真っ白な息が浮かび出ては、すうっと消える。ほどけないようにマフラーをきつく巻き、フードを深くかぶる。手袋はしないので、ズボンのポケットに手を突っ込み、「寒、寒」と小走り気味で駅に向かった。
ヴーヴーとLINEの通知音がしたので、開くと里奈からのメッセージが来ていた。
〈たすけて かわらにいる〉
漢字でなく、ひらがなで打たれたそれ。今、里奈の身に何かが起こっている。電車を待つが、雪のため少し遅れていた。
待ってる暇などない。
駅から飛び出し、走る。走って、走って、里奈と帰る時に必ず通るあの場所へ。
息をするのを忘れるくらい走った。河原が見え、そこには里奈がいた。そして、もう一人の男が。見覚えのある男だった。ただ、唯一違うのは、スーツを着ていないことだった。
初めて、里奈と話したあの日にいたサラリーマンだった。あの時はちゃんとした服装だったが、今は違っていた。ひげを生やしており、髪はぼさぼさであった。
男はナイフを手にし、里奈に詰め寄る。男の目は焦点が合ってなく、正気ではないことが分かった。
「俺はな、俺はな、エリートだったんだよ!社長の娘と結婚して、副社長になるはずだったんだよ!それなのに、お前のせいで全て失ったんだよ」
男の言い分も分からなくはない。ただ、未成年に手を出した時点で、お前の人生は終わってたんだよ。
そう、聖は思った。
「あたしは何も悪いことはしてないよ。あんたがあたしに手を出したんだよ。あたしはあんたが可哀想だと思ったから、セックスさせてあげた。それの何が悪いの?」
男はカッとなり、ナイフを振りかざした。聖は男に体当たりし、押し倒した。手足を拘束し、ナイフを奪う。
「諦めろ!」
遠くから、パトカーのサイレン音が聞こえてきた。それが分かったのか、男は暴れるのをやめた。
「お前も里奈もどっちも悪い。どんな事情があったとしても、人が人を殺していいはずない」
息切れしながらも、聖は決して力を緩めなかった。
警察がやってきて、男を引き渡す。里奈はまた事情を聞くために、明日警察署に行くことになった。
大きなため息を吐き、聖は里奈の頬を叩いた。とても寒い中だったので、軽く叩いても痛いだろう。
目を大きく見開かせ、聖を見つめる。
「さっきの言い方はよくねえ。あんな奴でも人権はあるんだ。人権を陥れるような言い方はするな。人は人で在るべきだ」
聖の言葉に里奈は唇を噛んだ。
ナイフを振り回され、怖かっただろう。辛かっただろう。
それでも、人を傷つけていい理由にはならない。
「――むしろ、止めない方が、良かったか?」
ずっと俯いていた里奈が顔を上げた。
「お前は殺されたかったんだよな?なら、どうして俺に助けを求めた?」
沈黙が続く。聖はじっと里奈を見捉え、離さない。そして・・・
「言ったでしょ。殺されたい相手がいるって」
哀しくも、切なく微笑む里奈。今の男は殺されたい相手ではなかった。だから、【死】を拒絶したのだ。【死にたくない】と思ったから、聖に助けを求めたのだ。
今、里奈は人生で初めて我慢しているのだろう。今すぐにでも殺されたいが、殺されたい相手がいるために、死ねない。里奈にとっては苦痛なんじゃないか。
「・・・そいつに『殺して』とは言わないのか?」
という言葉を呑み込み、再び、大きなため息を吐いた。
いつの間にか、雪は止んでいた。
また一つ、季節が終わった。季節は春。終わりと始まりの季節だ。
淡いピンクの桜の花びらが始まりを告げるように、舞っている。
花びらの向こうで、里奈は微笑む。
今にも消えてしまいそうな笑みに、思わず腕を掴んだ。
「どうしたの?」
「・・・いや」
聖は掴むのをやめなかった。
里奈がどこかに行ってしまわないように。消えてしまわないように。
それは予感めいた確信だ。
あの事件をきっかけに、登校と下校は聖と一緒にいるようにと、担任に言われた。
だから、今日も聖は里奈と共に学校に向かうための道を歩いていた。
「去年の今頃だったら、ありえなかったよね」
楽しそうに話す里奈。
「君とこうして歩いているなんて」
「そりゃそうだろ。住んでいる世界が違うからな」
「そういう意味じゃないけど・・・。ま、いっか」
里奈と俺は住んでいる世界が違う。里奈は日に当たる所で生きて、聖は日の当たらない所で生きている。
それぞれに合った環境ってものがあるだろう。
無理して、合わない環境で生きるのは、自殺行為だ。魚が陸の上で生活するように。
すぐに息尽きて、果てには、死ぬ。それは人間にも同じことが言えるのではないか。人間の場合は、身体的に死ぬのではなく、精神的に死ぬのだ。
「俺も、お前とこんなに話すとは思わなかったよ」
空を見上げる。雲一つない青空が広がっている。
大きな道路を渡り、ふと振り返ると小さな男の子が、ボールを追いかけて、道路に吐いてしまう。幸い、車はまだ来ていない。男の子を助けようと向かうが、里奈に止められる。
「あたしが行くよ。君のその顔じゃ、怖がられるよ(笑)」
腹が立ったが、本当のことなので、ここは素直に従う。
聖の手からすり抜けて、里奈は歩き出した。
優しく微笑み、「危ないから、あたしと一緒に戻ろう」と里奈は男の子に手を差し伸べた。「うん!」と男の子は片手にボールを抱え、もう片手を里奈の手に乗せた。
「はい、お兄さんのところにいてね」
里奈は男の子を聖に渡すと、通学路に戻らず、そのまま道路の真ん中で立った。
「何してんだ」
聖は男の子の手を離すわけにはいかなかったので、できるだけ、腕を伸ばし、戻るように言う。それでも、里奈は一歩も動かずに、立っていた。
「見てて、聖くん」
初めて、聖の名前を呼び、そして微笑む。その瞬間、里奈の体は大きな衝突音と共に空を舞った。
聖はただ、男の子の目を塞ぐのに必死だった。声にならない叫びを上げながら。
そして、聖はある事に気がつき、膝から崩れ落ちた。
紅い、紅い血の華が舞う。里奈の死に顔はとても幸せそうだった。
里奈の葬式を終え、聖はただ、里奈の遺影を見つめる。遺影の中の彼女は笑っている。
人間の死って、あっけないんだな。
里奈の死を目の前で見て、【死】というものが、現実じみていて。あれだけ、死にたいと言っていた彼女はもういない。
―――殺されたい相手というのは、あの車の運転手のことなのだろうか。だが、警察の話では、運転手は里奈を知らないという。
なら、あれは嘘だったのか?俺を安心させるために。
分からない。俺は里奈が分からない。
歯を食いしばって、里奈への怒りを堪える。
「・・・あなたが聖くん?」
里奈の母親が、遠慮気味に、聖にあるものを渡した。
「これ・・・。里奈が聖くんに、あげてって、あの日の朝言われてたの」
それは日記だった。
「なぜ、俺に?」
「里奈ね、あなたの話をする時、楽しそうで、幸せそうだったの。里奈のそばにいてくれて、ありがとう」
赤く充血した母親の目から、涙がこぼれ落ちる。母親は深く頭を下げた。聖も同じように頭を下げた。拳を握りしめて。
自分の部屋で日記を読み始める。日付は去年の四月からだった。
2019年4月12日(金)
よく通学路で見かけるあの人と同じクラスになった。嬉しい。
話したいけど、あたしの本当の姿を見られたくない。
5月13日(月)
河原で、空を見上げるあの人を見た。あの人はあたしと同い年なんだけど、どこか大人びていて、あたしたちとは違う世界を見ているみたい。
5月20日(月)
あたしは変だ。殺されたい。あの人に。でもそれはいけない。あの人に迷惑をかけることになるから。
里奈は自分がおかしいことに気がついていた。日記に出てくる【あの人】に迷惑をかけないように、援交相手を作っては、殺されようとしていた。
6月4日(火)
あたしは汚い。汚いから、清廉なあの人に声をかけられない。どうしてあたしは普通じゃないの?どうして?
聖はページをめくりつづける。そこには“死にたがり”である自分に苦痛を感じる彼女がいた。
7月10日(水)
ああ、やっぱり、あたしはあの人に殺されたい。
11月13日(水)
あの人に援交相手ともめていたのを見られた。汚いあたしを。見ないで。軽蔑しないで。でも、自分で自分を止められない。
・・・辛い。
11月20日(水)
あの人に怒られた。それがとても嬉しかった。あの人はあたしをちゃんと見ていてくれている。
12月2日(月)
あたしはもう、あの人以外に殺されないと決めた。それでいい。
たとえ、殺されなくても、あの人のそばにいるだけでいい。
12月24日(火)
あたしは、君に殺されたい。
あの人から、君に変わっていることに気がつき、「まさか・・・」と聖は更にページをめくる。
1月17日(金)
あのサラリーマンに殺されるかと思った。殺されるって、こんなにも怖いことなんだね。
でもね、君になら怖くないよ。
あの事件のことだ。やはり、里奈は「怖い」と感じていたのだ。
3月12日(木)
吉本聖くんへ
この日記を見ているということは、きっとあたしは今、この世にいないでしょう。
君にはたくさん迷惑をかけました。ごめんなさい。
でも、嬉しかった。あたしと離れずに、そばにいてくれて。
どれだけ、君に救われたか。
初めて話した時、あたし言ったよね。
「君だけにあたしの秘密をあげる」
って。
あれね、本当の秘密じゃないの。君との関係を作るための口実として、言ったんだよ。
あたしの本当の秘密は、君、聖くんのことが好きで、聖くんに殺されたかったことなの。直接的じゃなくてもいい。間接的でもいい。ただ、聖くんの目の前で死にたかったの。
すごく、迷惑でしょ?だから、言わなかったの。
あ、でも、これ見ているってことは、あたしの願いは叶ったんだね。
これで、あたしは聖くんの心の中で永遠に生き続けられる。
ありがとう。
好きになったのが、
殺されたい人が、
あなたでよかった。
さよなら。
桜井里奈
日記に書かれた真実に、聖は何も言えなかった。里奈の死の直後に、里奈の本当の秘密に気づいたからだ。
里奈はずっと、聖だけを想っていた。
俺はもっと、里奈に何かしてやれたんじゃいか。
後悔と怒りの感情がグチャグチャになり、枕を投げた。
許せなかった。
本当の秘密を告げなかった里奈に。里奈だけでなく、あの時、里奈の手を離してしまった自分自身にも。
「あーーーーーっ!!!」
叫んだ。ひたすら、叫んだ。次第に声が枯れ、毛布を握りしめ、嗚咽をもらした。
次の日。聖は向日葵の花束を抱え、事故現場に訪れた。
――なあ、里奈。
お前はずっと前から、俺のこと知っていたんだな。
お前にもらった秘密は墓場まで持ってくよ。だから、安心しろ。
お前の秘密は守られた。きっとこれからもお前の秘密を知る者は現れないだろう。
お前の死は、子供を救った勇気ある少女として、語り継がれている。
全てはお前の計画通りだったんだろ。
お前のそのドロドロとした感情は俺だけが知ってればいい。そうだろ?
お前は純潔な少女のまま、死んだ。俺に殺されたかったんだろ?俺の目の前で死にたかったんだろ?
それがお前の本当の願いだったんだな。
でも、俺はお前を止めなかったことを後悔している。
だから・・・もし・・・
お前のような奴が再び、俺の前に現れたら・・・
その時は、
止めてやるし、助けてやる。
――もう、秘密はお前のだけで十分だ。
聖は、里奈の亡くなった事故現場で、里奈の好きだった向日葵の花束をそっと置いた。
周りには、たくさんの花束やお菓子が置かれてあって、里奈が人気者であった証がそこにはあった。
聖は唯一、里奈の汚い部分を知る男だった。
唯一、里奈の弱さを知る男だった。
唯一、心の拠り所になる男だった。
唯一、愛した男だった。
聖は多くの花束を見て、何を思ったのか。
口元を上げて、こう呟いた。
「じゃあな、死にたがり」
向日葵の花びらがひらひらと揺れた。
背中を向け、しっかりとした足取りで歩いて行く。
雲一つない満天の星が広がっていた。光がどんなに小さくても、弱くても、輝きたいともがき、足掻くようにして、煌めいていた。
そして、聖の流した涙は月だけが知っていた。
了
死にたがりは何を願う 氷魚 @Koorisakana
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