第3話 通学③

 秀矢は顔から両手を離すと、カバンから白いマスクを取り出して装着した。

 変装のためだ。近年の流行り病のおかげで、年中マスクをつけた一般人は珍しくない事もあって、いざという時に人相を隠すのにうってつけの小道具である。


「秀にぃ!? 何でマスクなんてつけてるの? ここから早く逃げようよ!」


 パニック寸前なのだろう。青ざめた芽衣の声音には余裕がない。

 凄惨な現場を目の当たりにしたのだから無理もない。

 この場合、事態を把握した上で、平然とする秀矢の方が異常に映るだろう。

 歩道に倒れてる女性の顔が苦悶で歪んでる。

 男の方は、肩が激しく上下に動いてる。

 己が引き起こした事態に高揚してるが、理解が追いついてないのだろう。

 その場から逃げる様子も、女性にトドメを刺す素振りも見せない。おそらく今回の犯行は、衝動的なものと考えられる。


(無敵の人って奴か)


《リミッター解除の準備はオッケー。最後に、音声認証よろしく》


「何それ? そんなの昨日やってないだろ」


《ダンジョン以外では、本人確認が要るのよ》


「刃機みてえだな。――で、何て言えばいいんだ?」


士道開眼しどうかいげんよ。いい? かいがん、じゃないからね》


「昨日、じいさんが言ってた奴か」


《ちなみに、私は何度か言い間違えた事あるわ》


「……気を付けるよ。――士道、開眼!」


 程なくして、イヤホンから《認証、通ったわ》という亜由美の声が流れた。

 全身の血液、細胞、筋肉、組織――肉体を構成する全ての組織が僅かに震えた。


《オーケー。やっちまいな、チャンプ》


 亜由美の掛け声と共に、秀矢は地面を蹴った。

 瞬く間に、無敵の人に詰め寄る。比喩でも誇張でもなく、一瞬の出来事。時間にして一秒もかからずに、物理的に無敵の人の真後ろに近づいたのだ。

 そのまま、加減を意識しつつ、延髄に手刀を当てる。


「がぁっ」と短い声に、キィン、とコンクリートと金属がぶつかる小さな音が鳴り、無敵の人は膝から崩れ落ちた。


「亜由美、こっちは片付いた」


《はいよ》


 亜由美の声と共に、視界が一瞬だけ真っ白になった。

 同時に秀矢は芽衣の元に駆け寄る。

 両目の内側がぞわぞわする。二つの眼球の全域に無数の小さな虫が蠢く感覚。あまりの不快さに背筋が冷たくなる。

 悪寒と共に、両目の不快感が消えた。


「秀にぃ、何時の間にマスクつけたの?」

「お前がぼうっと歩いてる間にな」

「何よ、それ。私、秀にぃと違って、朝強いもん――って、ええええ!? あそこに人が倒れてるよ!? 二人も……」


 歩道に倒れてる二人の人間を見て、驚きの声をあげる芽衣。

 その様子は、凄惨なものを目の当たりにした恐怖や動揺と言ったものは、微塵も感じられない。


「こういう時は、救急車よね。ええっと、ええっと199――」

「119な」

「わかった――って、呑気な事、言ってないで知ってるなら、さっさと呼んでよ」

「とっくに連絡してるよ。――ほら、サイレンの音が聞こえるだろ?」

「ほんとだ」


 サイレンの音が大きくなる。


「ん? 救急車のサイレンって、ピーポーピーポーだったような」

「警察の方が先だったか。まあ救急車も直に来るだろうし、ほら、お前はさっさと学校に行け」

「秀にぃもね」

「警察と救急車の応対が終わったらな」


 亜由美は倒れてる二人には目もくれず、スタスタと歩いて行った。


「記憶を消せるって本当なんだな」


《私も去年、結構使ったからね。効果は実証済み》


「周囲100メートルってことは、あの二人の三分以内の記憶も消えてるんだよな」


《そうね》


「ということは、被害者は怪我の原因を、加害者は被害者を刺したことすら忘れてる可能性は?」


《事件が三分以内に発生したなら忘れてるわね。でも安心して。外出時の私達は、常に法龍院ほうりゅういん家の連中に監視されてるから》


「説明であったな」


《任期が終わるまで勤務時間外の行動は常に、シノビ衆の目視とAIによる衛星軌道の両面から監視。身の周りだけでなく、目の届かない所もね》


「で、そいつを警察に渡すわけか」


《うん。雇用主の法龍院家は、司法、行政、立法に加えてメディア、ネットインフラにも顔が利くからね。私達の事は公共の電波にのらないし、当事者の二人の記憶が無くても警察が事件として処理してくれるわ》


「でもよ……今の時代、スマホ一つあれば動画や写真を撮られるだろ?」


《大丈夫、ネットインフラにも顔が利くって言ったでしょ? 事件と私達に繋がる画像と音声は発見次第、削除してくれるわ。それがクラウド上にあるものなら、強制的にスマホと同期させて証拠隠滅よ》


 秀矢と亜由美が話してる間に、パトカーがやってきた。

 その直後、ピーポーピーポーというサイレンと共に、救急車が続いた。

 パトカーから下りた警察の一人は、気絶してる無敵の人の側に。

 救急車から下りた救急隊員達は素早く女性の元に駆けつける。


「それじゃ警察と救急隊員に事情を説明するか……緊張するなぁ」


《まあ、このバカデカスマホから通報してるから、すぐに解放されるわよ》


 秀矢は渋々、警察と救急隊員が忙しく動く事件現場に向かった。











「本当にすぐ解放されたな」


《でしょ? 特権は有効活用しないとね》


 秀矢が警察と救急隊員に話したことは、通報者として事件の詳細とスマホの電話番号を伝えただけだった。

 そこから警察が訝し気に電話番号を照会をすると、「失礼しました! ご協力ありがとうございます」と態度が急変したのがとても印象的だった。


 思わぬ道草を食ってしまったため時間が心配になり、左腕に装着してる安物の腕時計に目を向ける。

 今の時代にはそぐわないアクセサリだが、時刻を確認するためにデカいスマホを取り出すのが億劫なため渋々、装着してる。

 残り時間は、走ればギリギリ間に合う――かもしれない微妙な数字。

 秀矢は高校生なので自転車通学が可能なのだが、高校は徒歩圏内なのと途中まで妹の学校と通学路が同じ、ということを芽衣から力説されて渋々、徒歩で通学する事態になった。


「これで明日も芽衣は安心して登校できるな。警察もこの辺りの巡回を強化するって言ってたし、もしかすると芽衣の学校の教師も見回るかもしれないし」


《最近の教師は、ブラックって聞くけど、そんなことまでするのね》


「芽衣が通ってる中学は、私立だからな。学校の方で何か手を打ってくれるだろ。それと、法龍院家の方でもアフターケアサービスがあるから頼んでみるか」


《秀矢って人がいいのね》


「亜由美に言われたくない。俺は……これ以上、俺の目の前で人が死んでほしくないだけさ」


《へえ》


「俺がこうして生きてるのは亜由美のおかげだ。だから、今度は俺の番だ……必ず、君を生き返らせる」


《ふふ、そんなの気にしなくていいのに。今は、私の事よりも学校に遅刻する心配した方がいいわよ》


「しまった!? つい話し込んじまった」


《ちなみに、リミッターは復活してるから、本当に急がないと遅刻すると思うよ。一応、アスリート並の運動能力はあるけど》


「わかってるよ。遅刻しないようにせいぜい全力で走るさ」


 秀矢はスマホをカバンに入れてから、全速力で高校に向かった。

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