心臓の声
遠藤みりん
第1話 心臓の声
屋上のベンチから空を眺めていた。雲ひとつない手をのばせば届きそうな程青い空だった。
手を伸ばして空を掴もうとする。もちろん空を掴む事なんて出来ない。
どこまでも真っ青な空とは正反対に今、大きな悩みを抱えている。
俺は今、生命保険の営業をしている。大学を出たばかりの小僧が自分より年上の客を相手に生命保険の商品を売るのは至難の業だ。
毎日ノルマに追われるばかりで成績は一向に上がらない。
今月は新規の契約は取れずに、会社でのランキングはついに最下位となってしまった。
同期は順調に成績を伸ばし、今や会社でもトップだ。それに比べると自分が情けなくなってしまう。
仕事の昼休み、会社のビルの屋上で空を眺め、現状に頭を抱える。それがいつもの日課になってしまった。
現状にパニックになり心臓の鼓動がバクバクと激しくなる。
鼓動が激しくなるとどこからか声が聞こえてきた。
「ねぇ、大丈夫?」
俺は辺りを見渡した。屋上には誰も居ない。懐かしい声だ。俺は胸に手を当てる。
心臓が俺に語りかけてきた……
こんな事を言うとおかしな奴だと思われるだろう。
俺の心臓は幼い頃から、語りかけてくるのだ。
親には話していない。幼いながらこんな事を言っても信じてもらえないと思ったからだ。
幼い頃は一体どこから声がするのか不思議だった。頭の中から聞こえるのだろうと思っていた。
俺はある日、声に直接聞いてみた。
「君は一体、誰だ?」
「僕は君の心臓だよ」
声はそう答えた。声の主はこの脈打つ心臓からだったのだ。
確かに、声が聞こえてくる条件は心臓の鼓動が早くなる時だった。
俺はずっと、心臓の声と共存してきた。
小学校のマラソン大会の事だ。俺は昔から運動が苦手で、コースの終盤にもなると体力が限界に達して歩いてしまいそうになる。
マラソン中だ、心臓の鼓動が早くなり立ち止まってしまおうと思った瞬間に心臓は語りかけてくる。
「もう少し、もう少し、頑張って、君なら出来る」
心臓の声に後押しされるように腕を振り、足を上げ、力を振り絞りなんとかゴールができた。
ゴール出来たのも心臓の声におかげとも言える。
他にも大学受験の時だ。散々勉強したはずなのに席に座ると急に緊張してきた。テスト問題の文章が頭に入らない。手の震えは止まらずに鼓動がまた早くなる。その時だ。
「落ち着いて、あんなに勉強したじゃないか。君なら大丈夫」
心臓の声を聞いていると次第に落ち着きを取り戻してくる。
手の震えも止まり、冷静さを取り戻した俺はなんとかテストをこなし、見事に志望校へ合格が出来た。これも心臓の声のお陰だ。
友達と些細なことで喧嘩をした時、初めての失恋、怪我をして入院した時。
数えられないほど心臓の声に助けられてきた。この声はいつも俺の味方だった。
気付けば心臓の声はかけがえのない俺の親友のような存在になっていた。
しかし社会人になってから声の回数は少しずつ減っていく。
これが大人になると言うことなんだろう。俺は寂しく感じつつも現実を受け入れていった。
「おい、こんな所で何しているんだ?もう昼休みは終わりだろう」
振り返ると上司が立っている。事あるごとに俺に突っかかってくる嫌な奴だ。
「はい、すいません。もうこんな時間でしたか、今戻ります」
俺は適当に頭を下げ、上司に答えた。上司は俺に返答もせずに会社のフロアに戻って行った。
本当に心から嫌な上司だ。同じ会社で働いていると考えると嫌になってしまう。
俺の心臓の鼓動は少しずつ早くなる……
更に伸びない仕事の成績を考えると頭が痛くなる。俺は頭を抱え、髪を掻きむしった。
心臓の鼓動は更に早くなり、俺はパニックに恐怖を感じた。
「ねぇ、大丈夫?」
俺は胸に手を当てる、心臓の声がまた語りかけてきた。
「こんな屋上で何をしているの?」
俺は胸に手を当てたまま、久しぶりの心臓の声に答えた。
「久しぶりだな。もう聞こえないと思ったよ」
俺の心臓は答える。
「いつも君を見ていたよ。仕事で悩んでいるようだね」
「あぁ……学生時代とは違うよ。同僚は出世していく、それに比べて俺は何をしているんだか」
「そんなに落ち込まないで。さぁこんな所に座ってないで立ち上がって」
心臓の声は俺を励ましてくれる。俺は声に従いベンチから立ち上がった。
「そう、一歩ずつ進んで行こう」
俺は心臓の声に従いベンチから一歩、歩き出す。
「そう、一歩ずつゆっくり歩いて行こう」
心臓の声はいつも俺の味方だ。
「そう、もう一歩、もう一歩」
この声に従っていれば間違えない。俺は一歩ずつ歩き出した。
「諦めないで、頑張って、乗り越えて行こう」
そうだ、俺は乗り越えていく……
「もう一歩、あともう一歩だよ」
そう、あと一歩……あと一歩……
俺は喋る心臓に身を預け、声に従った。諦めずに一歩ずつ進んでいこう。
「もう一歩、もう一歩、もう一歩」
心臓の声は俺の背中を押してくれる……もう少し、頑張ろう。
「あと一歩、あと一歩、あと一歩」
こうして俺は柵を乗り越え、屋上から身を投げた。
地面が血に染まる、そして心臓の声は消えた……
心臓の声 遠藤みりん @endomirin
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