第3話 触れ合い

翌日、王は再びルリの居室へ足を運んだ。


「一日中動かないのでは身体に悪い。来い」


そう言って、膝をつこうとしたルリを掬い上げた。

彼女の身体は羽根のような軽さで、突然掬い上げられたルリよりも、掬い上げた王の方が驚いた。


ルリを右の前腕に座らせた王は、ズンズンと大股で部屋を出て、広い廊下を歩く。

ルリが慌てたように床を指差した。


「降ろせと言いたいのか?」


ルリは急いでコクコクと首を動かしたが、大きく揺れ動く腕の上で、バランスを崩して王の肩に手をついた。

王はグィと腕を引き、ルリの身体を引き寄せる。


「お前が歩くより早い。このまま行くから掴まっておれ」


王が歩く速度を上げると、ルリは戸惑いながらも、そっと細い腕を王の厚い肩に添わせた。

軽く小さな身体から、仄かに新緑の青い香りがする。

王は密かにその香りを吸い込み、昨日から波立ったままの胸が凪いでいくのを感じていた。




中庭に出ると、昨日と同じように冷たい風が吹く。

王には好ましいものではないが、ルリはどうなのだろうか。

王が視線を向ければ、肩に手をついたルリは、大きく目を見開いて、雲一つない澄んだ空を見上げていた。

黒曜の瞳は空を映し、キラキラと光を弾く。 

彼女の背にある瑠璃色の翼が、風を求めるように僅かに開いているのに気付き、王は尋ねた。


「飛びたいのか?」


パッとルリが王の顔を見た。

その反応に、王の胸が弾む。


「飛ぶのは、好きか?」


ルリの表情だけで肯定だと分かり、王は思わず腕を振り上げた。


「ならば飛べ!」


振り上げられた腕の浮遊感で、ルリは反射的に両翼を開いた。

風を受けた翼がブワと広がり、力強く二度羽ばたくと、ルリの身体は上空に舞い上がる。


見上げれば、ルリは優雅に、しかし強く羽ばたきを繰り返し、細い身体はくうを切る。

地に膝をついた時はあれほど儚げに見えたのに、青い空を飛ぶルリは靭やかで、自信に満ち溢れていた。



広げた翼から陽光が透け、青い輝きを王の上に散らす。


ああ、何と美しい生き物だろう。


王は見惚れた。

しかし、その王の側に、王がルリを連れ出したと聞いた狐が駆け寄って来て言った。


「陛下、人質をこのように自由に飛ばせるなど、逃げろと言っているようなものではありませんか」

「問題ない。仮に逃げたなら、約束を破ったとして森にいる同族を滅すれば良いだけ……」


言った途端に、上空を旋回していたルリが急降下して地に降り立ち、膝をついた。

光を弾いていた翼はキツく畳まれ、震えながらこうべを垂れる。


空にいても、ルリには今の会話が聞こえたのだ。

仲間を守る為、こうして急いで降り、恭順の意を示している。


王は顔をしかめた。

彼女に逃げる意思はないと、既に分かっていた。

それなにの、聞こえないと思ってひどいことを言ってしまった……。


そこで、ふと、王は我に返った。


“ひどいこと”とはなんだ。

これまで獣王国に取り込んで来た多くの種族に、同等のことはしてきたはずだ。

それを“ひどいこと”と思ったことはないはず……。


「……満足したのなら、部屋に帰れ」


言い様のない気分の悪さが込み上げて、王はきびすを返した。




数日後の深夜。


その日も一日中窓から空を見ていたルリは、ようやく窓から離れ寝台に向かおうとして、居室に忍び入っていた王に気付いた。

驚きに飛び退しさり、そのまま床に伏せてふるふると震えた。


「ああ……違う。違うのだルリ。私は話があって来ただけなのだ」


ルリが誤解していることに気付き、王は慌てて、しかし小声で言った。

王が深夜に娘の部屋に忍び入れば、どう受け取られるか、なぜ気付かなかったのかと悔いる。

だがどうしても、二人きりで話したかった。


怯えて身を抱いているルリに近寄れず、しかし小声で話をするには近寄らねばならず、王は逡巡してそろりと膝をついた。

気配でそれを察し、ルリは怯えながらも顔を上げ、ふるふると首を振った。

王が誰かの前で膝をつくなど、あってはならぬことだ。


「良いから、話を聞いてくれ」


ルリが顔を上げてくれたので、王は安堵して少しだけにじり寄った。

ルリの警戒が増したのを感じて、すぐさま止まる。


「この前のことを謝りたかった」


低く発した言葉には、深い後悔が滲む。


「決してお前や小鳥族を害そうと考えているわけではなかったのだ……」


あの言い様もない気分の悪さは、ずっと王の中に残っていた。

そして、それを今まで感じなかったのは何故なのか、考えれば考える程に、気分の悪さは増した。



自分がであることを当然と思い、その力を振るうことに何の疑問も持っていなかったからだ。

力のない者が力のある者に従うのは、世の道理。

道理に背くものを排除することもまた、当然の権利だと思っていた。


何という傲慢。


力なき者も、力なき者にしか出来ない生き方を持っているというのに。


空を飛ぶルリの姿は、どれ程に力を持っていても届くことのない世界を、王に見せてくれた。

そして、もしかしたら、今まで力で取り込んで来た多くの種族が、同様の何かを持って生きていたのかもしれないという事実を。


「………すまぬ」


絞り出された言葉は、確かにルリに向けられたものだが、多くの意味を持っていた。

だからといって、それがルリに伝わるものでもないだろう。

それなのに、謝罪せずにはいられなかった。




いつの間にか側に寄っていたルリが、膝の上で握られた王の手に、そっと指先で触れた。

王が視線を上げると、彼女はスウと息を吸い込み、薄い唇を開いた。


その唇から細く優しい声が溢れ、さえずりのように軽やかな抑揚が付くと、王の耳に複雑な音色となって届く。

それは、聴いたことのない歌であったが、とても心地良いものだった。


重く澱のように沈んでいたものを溶かし消すように、ルリの歌声は王の胸をすく……。




歌を終えたルリを、王は見つめた。

黒曜の瞳から怯えは消え、気遣うように見上げている。


王の苦悩の理由を知らずとも、それを軽くしてやりたいという思い遣りの心が、彼女を歌わせたのだ。



大きな手を、王はそっとルリの滑らかな頬に寄せる。

尖った爪が近付いても、ルリは震えはしなかった。


愛おしい……。


頭の隅で呟かれた言葉を、王は黙って飲み込んだ。

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