ハルノヒ
水萌
春の日。
私たちはしばらく何も話さないまま、ゆっくりと歩いていた。
ユウトは隣にいるはずなのに、とても遠くにいるような気がした。距離、を感じた。
「ユウトの方はさ」
「うん」
「サークル、どうなの。楽しい?」
その距離がユウトにも悟られてしまわないように、私は尋ねた。誰に急かされている訳でもないのに、焦って少し早口になった。
「うん、まあまあ。同期がいい奴ばっかりでさ。先輩は優しくないけれど、その悪口で早くも一致団結したっていうか。早くも今度、みんなで旅行行こうみたいな話になってる」
「へえ、楽しそうじゃん」
「まじでいいサークル入ったわ」
ユウトは横にいる私ではなく前を見つめていて、歩いているから当たり前なのに、それがとても寂しい。
「私、あんまり大学楽しくなくてさ」
言うつもりではなかったのに、ふと口に出てしまった。
「おお、そうなん」
「ユウトが、ちょっと羨ましい」
羨ましいのはユウトだけではなかった。今を楽しんでいる全ての人が羨ましく、何より今の自分を、自分が好きにはなれなかった。
「ごめん、なんか俺、無神経に楽しいとか言っちゃって」
ユウトは優しかった。
「ううん。私が上手くいってないだけ」
ユウトの前だと、安心して弱音を吐ける。
「でもサクラが悲しんでたら、俺も悲しくなるから」
「ありがとね」
ちょうどそのタイミングで、電話が鳴った。
「ユウトじゃない?」
私の携帯にユウト以外から着信があることは、滅多になかった。
「え?俺じゃないよ」
鞄の中を見ると、鳴っていたのは私の携帯だった。
「あれ、ナツミからだ」
「ほら佐々木さん、やっぱ怒らせちゃったんじゃないの」
佐々木ナツミ。中学・高校と六年間を共にした親友だ。
「もー、それは大丈夫だって」
ナツミとご飯を食べている最中、ユウトから「今から会える?」と電話がかかってきたのだ。さっきの焼き肉屋に、忘れ物でもしたのだろうか。
「もしもし、ナツミ?」
電話に出ると、ナツミの切れた息が聞こえた。
「ナツミ?どこにいるの?」
「………」
返答はなく、ただ彼女の切れた息だけが耳に届く。
「もしもし、聞こえてる?」
「……」
「ナツ」
「………きゃあああああああああああああああああ」
プー、プー。
叫び声の残像を大きくするために作られたような、静かな、静かな音だけが響いた。
突然起こった出来事に、しばらく放心状態になっていると、気を遣って少し離れていたユウトが近づいて私の顔を覗く。
「ナツミが……」
「ん、え?」
「ナツミがね…急に、大きい声、出して」
「大きい声?佐々木さんが?」
「うん、そう。急に。」
あまりの衝撃で何も考えられなかったけれど、何か異常が起きていることだけは理解出来た。
反射的に走り出し、ユウトと一緒に電車に飛び乗った。
「久しぶりにこんな走ったわ」
「ほんまに」
電車は仕事帰りのサラリーマンと、大学生で溢れていた。つり革にさえ捕まれない。
「俺に捕まっとき」
「うん」
いつもだったらありがとう、くらい言えるのに。動揺して何も言葉が出てこない。もしナツミに何かあったら、という考えが離れず、悪い想像が膨らんで止まらない。考えていたら、あっという間に駅に着いた。
ナツミ、お願い。無事でいて。
改札を出ると、さっきまで見ていた景色だったはずなのに、知らない駅に降りてきたような、不安な気持ちに駆られた。
「佐々木さん、どこにいるんやろな」
「聞いてみる」
もう一度、ナツミに電話をかける。
ナツミが好きな、あまり人気のない、けれどカッコいいロックバンドの曲。この着信音を、今まで何度聴いただろう。
「…もしもし、ナツミ、聞こえる?」
「…」
「ねえ、今どこにいるの。心配で中野まで来たんだけど」
「…」
「返事してよ!」
「さっきの、焼き肉屋にいる」
ナツミの声は、核の部分がごっそり抜け落ちたように、儚く、消えてしまいそうな声だった。
「今行くから。そこで待ってて。」
焼き肉屋のテーブル席にあるソファに、ナツミは横たわっていた。
私たち以外の客はもう誰もおらず、焼肉の香ばしい匂いと、網に残された牛タンだけが、ついさっきまでこの店に客がいたことを示していた。
「ナツミ…?」
「寝てるね」
ナツミは、テーブル席のソファで、気持ちよさそうに眠っていた。私の知るナツミは、公共の場で、こんなことをする子ではなかった。私と一緒にいないと、店員さえ呼べないような、臆病な子だった。
そんな私の友達が、今、焼肉屋のソファで寝ている。
「おお、良かった。あんた、さっきまでいたよね。この子の友達?」
店の奥から、いつものおじいちゃんが顔を出す。
「そうです。あの、ナツミは、どうしちゃったんですか」
「親御さん探したんだけどねえ、携帯電話から見つからなくて。救急車は呼ぶなって言われたから、好きにさせておいたんだよ。意識はあるし、もう元気そうだしな」
「救急車?」
「あれ、知らないのかい。君が出ていった後、何かを思い立ったように突然店を出たんだよ。支払いが終わってなかったもんだから、食い逃げされたと思って追いかけたら、突然叫びだしてね。それでそのまま、大量の薬を飲み始めたように見えた。遠くから見ていたから私も最初は何か分からなくて。薬だと気づいて走って駆け寄ったよ、やめなさい、って。あんたには未来がある、って。それでも聞かずに抵抗されて、最後には近くを通りかかった人が腕を抑えてくれて、事態が収まった。本当に良かった。もう私もおじいさんでね、何もできなかった。」
「ナツミが……薬を?」
「うん。でも不幸中の幸いと言うか、私がすぐに気付けたから良かったよ。飲んだ薬も風邪薬だったし。もし私が気付いていなかったら、ね。」
彼女は体が弱く、いつも風邪薬を持ち歩いていた。その薬を彼女は、一気に体内に取り込もうとした。馬鹿だ。
「ナツミ…」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくり目を開けた。
「ナツミ、心配したんだからね。突然叫びだして。何があったの。どうしたの」
彼女はもう一度目を閉じた。
「ねえ、聞いてんの」
ナツミの柔らかい手を握る。
「何もないよ」
か細い声だった。
何もない訳ないじゃん、と言いかけて、やめた。彼女の目に、何か光るものが浮かんでいたのが見えた。
「…あの男に、何かされたの」
「とっくのとうに別れたよ。サクラも知ってるでしょ」
「じゃあなんで」
「あんたが…あんたが」
「ん、なに?聞こえない」
彼女の顔に耳を近づける。
「本当はサクラが、好きだったの」
「え、?」
空気が、止まったように思えた。
ナツミが…私を?
ナツミの声は小さかったけれど、ゆったりと、強く、その場に存在していた。
「急にこんなこと言って、驚くよね。しかも、ユウトくんの前で。高校の時は、ユウトくんにあんまり嫉妬みたいな感情を抱いたこと、なかった。ユウトくんよりサクラと一緒にいる自覚も、サクラのこと知っている自覚もあったから。でも今日、久しぶりにサクラに会えて、そのサクラが、私との時間を遮ってまでユウトくんに会いに行って、なんか色んなものが溢れて、止められなかった。サクラにどこにも行ってほしくなくて、心配してほしくて、気が付いたらこんなことしてた。恥ずかしいね、私」
言葉が、出なかった。
「サクラといると、幸せな気持ちになれるけど、それと同時に、醜い自分と出会うことになるの」
ナツミは目を閉じながら、話した。
「馬鹿みたいだけど、その時、気づいた。サクラのこと好きなんだなって」
私は。私は、この大切な人を。佐々木ナツミという人間を、何度傷つけてしまったのだろう。
「ごめん、本当に、気づかなくて…」
「ううん、謝らないで。私も気づかれないようにしてたから。ユウトくんと出会ってから、サクラは本当に幸せそうだった。今まで分かっていたはずなのに、叶わない、って、今日やっと気づいた。そんなこと、前から分かってたのにね、ごめんね、恥ずかしいね。」
「ナツミ…」
もう、何を言っても間違いだった。
「サクラには幸せになって欲しくて、でも、私を一番に考えて欲しくて。でもそれが無理で。一緒にいたら、私が壊れちゃう。」
ナツミは、今まで私に見せた表情の中で一番、哀しい顔をしていた。
「大学入ってから私は、この世にたくさん楽しいことがあるって知った。友達とのお出かけも、サークルも、毎日何もかも新鮮だった。でも今日久々にサクラの顔を見たら、この笑顔を一番隣で見ていたい、って、また思っちゃった。私は変わった気でいただけで、何も変わっていなかった。それに気づいちゃったの」
ふふ、とナツミは続ける。
「でも、風邪薬しか飲まなかった。いや、飲めなかった。心配してくれるサクラの顔、見たかった。そこで死んでしまうのは惜しいって。ほんとに馬鹿だよね、私」
これ以上、聞けなかった。
私もナツミに幸せになって欲しい。でも、私はナツミを幸せには出来ないのだ。
「女の子が好きとか、男の子が好きとか、多様性とか、ジェンダーとか、全部どうでも良かった。サクラのこと、どうしようもなく好きで、好きで、好きで、堪らなかったの」
ナツミの頬には、一筋の涙が流れた。
「会いたくない、もう、辛い」
目の前にいるナツミは、六年間、私の知らない日々を生きていた。いつも時間を共有していたと思い込んでいたのは私だけで、決して、同じ日々を生きてなんかいなかったんだ。
いつからだったのだろう。
六年前に出会ってから、私はたくさん恋をしてきた。その都度ナツミに報告し、相談していたと思う。すぐに恋に落ちる私を、それでも自分には振り向かない新田サクラを、彼女はどんな気持ちで見ていたんだろう。
「ナツミ」
抱きしめることしか出来なかった。
また会いたい。会えなくなるのなら、言わないで欲しかった。私にとってナツミは大切で大好きな親友だった。
でも、伝えたい言葉のどれもが間違いだった。私の気持ちを伝えることよりも今は、彼女に傷ついてほしくなかった。
「ありがとね、全部」
うん、と聞こえた気がした。ナツミの頭を胸で抱きながら、私は、店に残った煙の匂いを嗅いだ。
もう、会えなくなるのかな。
そう考えると、視界が潤んだ。
会いたいよ、私は。
「また、いつか、絶対。ね」
彼女は私の腕の中で、うん、と言った。ちゃんと、聞こえた。
ハルノヒ 水萌 @minam0-coffee
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