第2話:巨大ヒヨコ
そう言えば、巨大ヒヨコはもうネオネビュラに届いたはずだ。電話を入れて、まだ勤務中の青木理事と話す。「獣医さんが先ほど見てくださったんですが、ミルクを飲んでいても哺乳類じゃなさそうだとおっしゃってます。数日中に院の方で詳しく診てみますとのことです。うちとしては、おとなしくミルクを飲んでいるし健康そうだし、里親が見つかるまでお預かりしようと思っています」
もしかしたら、巨大ヒヨコは現代科学の常識を塗り替えるほどの大発見かもしれないとパメラは内心わくわくしている。AAAに採用される前、兵庫県の私設動物園でカモノハシを飼育していたパメラは「私も巨大ヒヨコの診察に立ち会ってもいいですか?」と尋ねる。かまいませんよとの返事だったので、三日後に獣医さんの院を訪れる約束をして電話を切る。
いや、この子象にしても大発見ではないのか。ただ、娘の詩伊奈が子象と理不尽に引き離される結果になるのは避けたい。科学的価値に目を向けず、詩伊奈の気持ちだけを尊重する方がむしろ「理不尽」かもしれないが、幼くして大好きな父を失った可能性がある詩伊奈の境遇を考えると、子象が引き離される事態は何としても避けたい。巨大ヒヨコは、子象を守るための「スケープゴート」になるのではないか。
詩伊奈が近所の児童と一緒に集団登校するより先に家を出たパメラは、AAA事務局がある夢洲へ向けて赤い愛車を西に走らせた。遷都なら二重行政も問題にならないかに見えたが、震災によるGDP下落への対策として強引に四区に改編された旧大阪市内の道路は相変わらず混みあっている。着信音が鳴り、カーナビと一体化された受話器に「鴻上」という名前が浮き上がる。翠の友人の写真家からの電話だった。
いつものようにタメ口で喋りだす。「ずいぶん御無沙汰してるね。今、千葉県に医療関係の撮影で来てるねんけど、運転中に翠にそっくりな男とニアミスしたので報告しとくわ。
「本当に翠かどうかははっきりせえへんけどな。軽い渋滞中に対向車線のクルマを運転してた男を『大池翠!』と大声で呼び止めたんやけど、無視されてしもた。今回の関東新震災では、大勢の人が病院に運ばれたんやけど、記憶を失くしていて家族と再会できてへん人もかなりいるという話を聞いたもんで、連絡しといた方がええと思った次第や」
そう、翠はまだ生きているのかもしれない。関東新震災発生時に翠は確かに千葉のホテルにいた。自ら捜索に向かいたいところだが、課長である自分が幼獣調査課から離れるわけにはいかない。
鴻上が続ける。「千葉県医師会に依頼された撮影をしているところなんやけど、記憶喪失のまま退院した患者で翠に似た人物がいなかったかを調べてもらえることになったよ。翠の写真を何枚か渡しておいた。今のところ千葉県下の病院が調査対象になるらしいけど、何かわかったら連絡するわ」
パメラの心が乱れていた。嬉しいのだが、予想外の展開に心が揺れている。
一昨年一月一七日の相模トラフ大震災は五万の人たちを家族から切り離し、残された人々の心を引き裂いた。直後の関西圏では、首都への行き過ぎた一極集中が最悪の結果を招いたとする論調が強かったが、より良い暮らしのために一極に集中した人たち個々人を責めることはできない。
AAA事務局に出勤したパメラは、午後二時からの獣医の診察に合わせて天王寺区のネオネビュラへ向かった。四月の物憂い昼下がり、夢洲から舞洲に架かる橋を昇り詰めると、大阪四区の空が霞んでいるのが臨める。
巨大ヒヨコは、確かに巨大だ。数日のうちにかなり成長したかもしれない。青木理事たちは中型犬の成犬用ケージに巨大ヒヨコを収納して獣医院に向かった。
獣医の井上氏は、巨大ヒヨコを見ると、「数日で一回り大きくなりましたね」と驚きを隠さない。「保護されるまで餌が足りなかったところに、ミルクをコンスタントに与えているからでしょう。鳥類でも、親が雛にミルクを与えることがあります。身近なハトなんかがそうでして、ピジョンミルクと呼ばれています。素嚢乳(そのうにゅう)とも呼ばれますが、ハトの出すミルクは非常に栄養価が高い。でも哺乳類じゃないので乳首から授乳するのではなく、胃の方から吐き戻して雛に与えます」
井上獣医は巨大ヒヨコを優しくケージから取り出すと計量器に乗せた。「五百グラムぐらい増えましたね。フクロウに似ていなくもないですが、雛が二千五百グラムというのはありえない。成体でも一キロとかいう体重ですから。飛べる鳥は体重制限が厳しいんです。ダチョウのヒナなら十分ありえる体重ですが、形態的にダチョウではなさそう。
「計量器に乗せるときに生殖器をチェックしましたが、総排出腔しか見えないので哺乳類ではありません。形態的には鳥類以外に考えられないところですが、〔鳥の先祖〕の可能性も完全には否定できない、というか否定したくないですね」と言って笑う。
青木理事が怪訝な表情で訊く。「先祖って何ですか?爬虫類じゃなくて?」
むしろパメラを驚かせたのは、以下のような井上獣医の言葉。「AAAの方がいらっしゃるので、あえて踏み込んだことを言いますが、恐竜のヒヨコかもしれません。この二年ほど、アメリカなど海外で恐竜の幼獣らしき生き物が見つかっているという報告が何件かあり、獣医学会では知られているんですが、国外・国内を問わずメディアでは伝えられていませんね」
海外のメディアが口を閉ざしている以上、AAAから圧力をかけて揉み消しいるわけではない。
「恐竜ってことは、『獣脚類』とかですか?」パメラも負けじと踏み込む。井上獣医が恐竜のような笑みを浮かべて反応する。「よくご存じですね。獣脚類の代表があのティラノサウルスですね」
「恐竜だったら肉食ですよね。困るわ。子犬や子猫が食べられちゃうかもしれない」と青木理事がうろたえた様子を見せる。「肉食とは限りませんよ。草食恐竜もいます。でも肉食恐竜の場合、将来的に餌代が大変なことになる。個人の里親を探すより、動物園や水族館に当たった方がいいかもいいかもしれませんね」と井上獣医がフォローする。
「AAAの現在の方針としては、珍しい動物の幼獣が見つかった話は公にしたくないんです。少なくとも当面は口外しないようにお願いいたします。動物園が秘密裏に飼育してくれるのならいいんですが…」とパメラは言葉尻を濁らせる。
§ § §
パメラは、幼獣調査課の人的リソースの貧弱さにも危機感を覚えている。この課は、課長の自分の下、四人の若者だけで構成されている。大卒後、国家公務員試験に合格したエリートたちだが、社会経験がない。
大卒後すぐにAAAに採用された彼らは、こういう従来の常識を超えた業務には意外と対応できているのだが、異常な事態に直面して困っている一般人への対応に懸念があった。
AAAが有罪なら死刑になる外患誘致罪の適用を謳っているのは、庶民を黙らせる効き目に優れていたのかもしれない。とはいえ、幼獣がらみの事案に外患誘致罪が適用されるケースは想像もできない。もっとも、外患誘致罪の規定はAAAの設立時に見直されている。司法関係者の間でのみ話題に上ったことだが、「外患」の定義が拡大され、外国や国内の反政府のうち、外国の支援を受けている組織が日本の特定の省庁の長およびそれに準ずる者を殺害する行為も含まれるようになったらしい。
§ § §
「ともあれ、遺伝子検査を実施しようと思います。AAAさんから費用を出していただくことが前提ですが…」と井上獣医が笑みを抑えながら言う。「ええ、もちろん負担します」とパメラは即答する。
「DNAが一致する現生動物が存在しないかもしれないんですが、その場合は恐竜の疑いがさらに強くなります」と井上獣医。「恐竜の種と同定する検査ではなく、あくまで現生動物の幼獣かどうかを確認する検査ですので、ご了承くださいね」
というわけで、巨大ヒヨコは依然として正体不明なままだ。推測では、恐竜の幼獣である可能性が高い。だが、恐竜のDNAはこの世にストックがないので照合ができない。
子象のマァモを検査する方が答えが出やすいだろう。いずれマァモの遺伝子検査が必要になるかもしれない。だが、結果次第で詩伊奈がマァモと引き離されることになる。
ここで、妙な考えが頭をもたげる。翠にそっくりな人物が完全に記憶を失くしているとしたら、DNA検査による本人確認が必要になるのだろうか。
二〇二九年三月一一日の相模トラフ大震災で関東地方が壊滅し、死者・方不明者が五万人に達して、京都・大阪への遷都を余儀なくされたのに対して、二〇三一年一月一七日の関東新震災では、五〇人の死者・行方不明者にとどまっている。しかし、関東一円に五分近くも轟いた大音響が数万の人々の自意識や記憶を奪った。翠は無事でいても自分がどこの誰かを一切忘れているかもしれない―とパメラは覚悟していた。
行方不明者ではなく、生存していることがはっきりしているのだが、どこの誰だかわからないID不明者が数万人いるのではないかと言われている。
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