狂奏曲の幕開け

第1話

 高校一年、初夏。

 喧騒から逃げ去るように。びっしょりと不快な汗を含んだハチマキを握りしめ、僕は水道場へと辿り着いた。ザラメ糖のように皮膚にへばりついたまだらな砂粒。額に巻いていたそれと同じ色の液体が、膝小僧からダラダラと流れ続けている。

 キュッ、キュッ。

 蛇口をひねり、流れる冷水と共に排水溝へと吸い込まれていく流血を眺めながら。

 僕は沁みる傷口なんかよりもずっと、胸の奥底に強い痛みを感じていた。

「またかよアイツ!」

「ったく! あそこでドジ踏まなければ、俺たちのクラスが勝ってたのによ!」

「せっかくみんなで繋いだバトンなのに」

「ホント、ヒラカタくんって……」

 体育祭前半が終了し、教室へと戻る同級生たちの会話が背後を素通りしていく。

 そう。その通りだ。

 彼ら彼女たちの言う通り。何も間違ってなどいない。

 全ては僕、枚方奏汰(ひらかたそうた)というどうしようもなく頼りない人間のせいだ。

 一年生による学級対抗リレー。クラス一丸となっての前半終盤、クライマックス。

 そこで僕は、盛大にやらかしてしまったのだから。

 持ち前の生まれつきな運動音痴と不健康さが際立つ、見るからに白くてヒョロガリな体型。さらに肩まで到達しそうな直毛に強度の黒縁メガネと、いかにもアッチ系な容姿。

 そんな僕はリレーの際、途中で大胆に転倒してしまい、クラスの順位は首位から一気に最下位へと転落。皆で数日間重ねてきた練習を、見事なまでに無下にした。ちなみに練習時にもやらかしており、全くもって学び取っていなかったのだ。だからが故の、クラスメイトたちからの冷たい視線。

 まあ、そうだよな……。悪いのは全部、僕なんだから。


 その後。たまらず逃げるようにして保健室へと駆け込み、僕は体調不良と偽り午後の後半戦全てを棄権した。

 結果クラスから反感を買ってしまった僕は、その日を境に完全に殻に閉じこもるようになっていく。でもいい。もう誰にも迷惑を掛けたくないし、不本意に傷つけたくもない。


『影・孤・静・遂(えいこせいすい)』――(他人とは関わるな、空気に化けろ)


 これが僕個人に課した、その後の校訓であり、確固たる座右の銘となった。

 そうして日々を過ごす中で、知らないうちにいつしか周囲に名付けられ、浸透していたあだ名。

 その名も名付けて――『オッツ』

「ヒラカタって、女みてぇな声してるよな。ッハハ」

 生まれつきひと際声が高かった僕は、男子にはしょっちゅう揶揄からかわれ、昔から音楽の授業の時には女性陣に交じりソプラノパートにあてがわれていた。加えて同級生の女子にも劣らずの抜きん出た肌の白さ。

 結果そこから「乙男(オトメン)」の「乙」を取り、さらに体育祭での遺恨から「乙(おつ)」=「オワッテる」という意味合いのネットスラングが掛け合わさって完成した、没キラキラネーム「オッツ」。

 邪推かもしれないが「乙」の用語自体既に古語と化しており、逆にその陳腐さがマッチしたと見られたのか、はたまた集団の輪にそぐわない皮肉なんかも込められているのだろう。そんな「オツ」の二文字の間に促音を加え、敢えてポップに装飾され生まれた何とも子どもじみた蔑称。それが僕の又の名だった。




 墓石のように自席で静止し、ただ時が過ぎるのを待つ。

 アオハルとはまるで真逆。灰一色なルーティンライフ。

 それをひたすらに繰り返し、ようやく迎えた高校一年の三月。

 春めく季節の到来と共にやって来た学期末最後、終業式の日。

 別名オッツは、自己暗示をかけながら学校生活を生き長らえ、どうにか一年を乗り切ることに成功した。やっと一年。でもまだ、あと二年か……。


 桜の花びらが咲き誇り、舞い踊る昼下がり。この日の終焉を告げるチャイムが鳴り響くと、式を終え、生徒たちでワイワイガヤガヤとごった返す下校時間へ。

 うるさい。やかましい。思春期の興奮が堰を切ったように三半規管を痛めつけてきた。

 哄笑こうしょうと破顔の相合傘。襲い来るメダパニ。いるだけで意識が混濁しそうになる。

 折角の午前終わりだ……早く消えよう。この偽りの学び舎からすぐさま退散すべく、僕は肩で息をしながら右に左に人波を掻き分け、教室から廊下、そして玄関を後にした。

「あ、あの……」

 が、校舎を出た、その時。

 暗褐色に霞んでいた僕の視界を――ひら、ひら。

 春風をまとった桜吹雪が眼前をかすめ、横切り、そして。

「その、よかったら……付き合ってください!」

 花びらに誘われた先で。みなぎったその声に、僕はつい足を止めてしまった。

 校舎の脇に揺れる、大きな桜の木。その真下に、見知らぬ二人の男女が。数十メートル先で今まさに、アニメやマンガで見るような青春の一ページが繰り広げられていた。

「ありがとうございます。お気持ち、とっても嬉しいです」

「ですが、その……申し訳ありません」

「わたくしには、すでに心に決めた人が……」

 なるほど。ある意味これも、テンプレートな展開。聞き耳を立てながら僕は、腹黒い感想を胸の内に留めた。敢えてテンプレと大きく違うとすれば、彼女の言葉遣いが驚くほどに丁寧な事だろうか。遠くて後ろ姿であるため、顔はよく見えないが、玉のように白い肌に透き通るような砂浜色の長い髪。そんな中でヒラリ、一瞬垣間見えた胸元に飾られた制服のリボンが赤色であることから、同じ一年生であることがわかった。

 両腕をグッと胸に当て、深々と一礼。その少女の佇まいは、まるで天に祈りを捧げる聖女のように見えた。

「そう、なんだ……。な、何か、時間取らせちゃって悪かったね……ごめん」

「いえ、そんな」


(……ごめんなさい)

(今のわたくしには、様のことしか……)


「えっ? 今何か言った?」

「いっ、いえ! 何でもありません!」

「そっか。……ありがと、今日は来てくれて」

「っ、それじゃあっ!」

 ほとばしる羞恥心を振り切るかのごとく、そう言って相手の男子生徒は走り去っていった。

 いけない。勇気を出した一大告白を、自分何かが生意気にも傍観するだなんて。

 意識を下校すること一点に集中し、僕は改めて一歩踏み出そうとした。

 バサッ。

 だが僕の微かな靴音に気づいたのか、その場に留まっていた彼女がタイミング悪くこちらへと振り返る。

 桜風になびく髪。ひらめくスカート。その刺激的な動きに、僕は瞬時に目を逸らした。

(っ、やばい……)

 彼女が僕に気づいたように。僕も桜の花びらほどに微細な彼女の声を耳元でキャッチした。

 まずい。ずっと傍観していたことがバレた。ドン引かれたか。それとも何か、悪しきセリフでも捨て吐くか。いずれにせよ、不快に思われたであろうことは目に見えていた。 

 そう。わかっているし慣れている。だからこういう時は、経験から培った先手必敗の「最善策」を使って……。

 プライドなど元々持ち合わせてはいない。だからこそ僕はひとまずメガネを外した。視界をぼやかすことで、現実逃避を自己演出することができる。これは僕に備わった処世術の一つだ。そして相手から何か言われる前に、土下座のポーズでもしてこの場を煙に巻こうと、肩にかけていたスクールバッグをバサッと地面に落とした。敢えて、ここは大胆に。

「……えっ?」

 小刻みな靴音が遠ざかっていく。顔を上げると、予想に反し彼女は恥ずかしそうにペコリとこうべを垂れ、小走りで駆けて行った。

 会ったことも、話したこともない彼女。思いもよらぬ、意外な結末だった。

 けれど。その瞬間に見せた気品高い所作と、対照的に感じた小動物のような可愛らしさに。おぼろげながらも、どことなく彼女が好かれる理由が手に取るようにわかった、そんな気がした。

(っ、何だ……この、感覚は)

 免疫の無い僕。そんな僕にとって、高校に入学して以降初めてされた丁寧な対応。だからこそ慣れてなくて、いなくなった後も尚、動揺が止まらない。

 と同時に、途端に胸を打ち始める謎の鼓動。まさか……。

 いいや、違う。誰かもわからない相手に、そんなわけ。心中で抗弁を繰り返す。

 自分がいかほどの人間かは自覚しているつもりだ。だからやめろ。あきらめろ。夢なんて見るな。そんな感情を持ったって、僕には一生涯縁遠いものなんだから。

 だからこそすぐさま。芽生え始めたその青い新芽に、真っ黒な蓋をするように。

「影孤静遂」「影孤静遂」「影孤静遂」……。

 自らに課したあの校訓を瞑想のごとく輪唱し、僕はその場をどうにか制して見せた。

 助かった。危なかった。

 何だったんだ、今のは。


 どうか、次の学年で。

 彼女とは、同じクラスになりませんように。

 僕はただそう、天に祈った。

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