第2話 宇多上皇が源融の霊に会った話

今では昔のことですが、河原の院は、元は左大臣源融みなもとのとおるが建てて住んでいた屋敷でした。


陸奥国塩竈しおがまの塩田を模した池に塩水を溜めるなど、優美の限りを尽くしたその屋敷は、源融みなもとのとおるが亡くなった後に、その子孫によって彼がかつて仕えた宇多上皇のお住まいとして献上されたのでした。


醍醐帝は宇多上皇の子でしたから、河原の院には天皇が度々訪れ、優雅な時を過ごされたとのことです。



さて、宇多上皇がお住みになられてからのこと、夜中に屋敷の西の物置部屋を開けて物音を立てる者がいるのに気がついて、上皇が人を遣って確認させると、内裏に出仕する時に着るような正装をした者がいるといいます。


その者は太刀を腰に帯び、しゃくを持って少し離れたところでかしこまっていました。


誰であるのか問うと、その者は「この屋敷の主のじじいにございます」と答えました。


とおるの大臣か。」


「さようでございます。」


なんとその者の正体は、かつてこの屋敷の主であった源融みなもとのとおるの霊であったのです。


「なんの用でここにいるのか。」


「この屋敷の主ですのでここに住んでおります。」


この霊は、この屋敷を自分の屋敷だと思って住み続けているらしいのです。しかし上皇が住んでいるのを知って、ありがたいやら、狭いやら、一体どうすれば良いのかと聞きに出てきたのだといいます。


「私が他人の屋敷を奪って住んでいるとでもいうのか。お前の子孫が献上したので住んでいるのだ。霊だとはいえ、物の道理をわきまえもせずになぜそのようなことを言うのか。」


上皇がこのように強く言うと、霊は瞬く間に消え失せ、二度と現れることはありませんでした。



当時の人々はこのことを聞いて、宇多上皇をたいそう尊敬したとのことです。


他の人だったら大臣の霊と出くわしてこのような適切な対応はできまいと、人々は語り伝えて来たのでした。





川原院融左大臣霊宇陀院見給語 第二


今昔いまはむかし、川原の院はとおるの左大臣のつくりすませたまいける家也。陸奥国の塩竈しおがまなりつくりて、潮の水を汲入くみいれて、池にたたへたりけり。様々に微妙めでた可咲おかしき事の限を造て住給すみたまいけるを、其の大臣おとどうせて後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院にたてまつりたりける也。


れば、宇陀の院、其の川原の院にすまたまいける時に、醍醐の天皇は御子みこおわせば、度々行幸ぎょうこう有て微妙めでたかりけり。


て、院のすまたまいける時に、夜半よわばかりに、西のだい塗籠ぬりごめを開て、人のそよめきて参る気色けしきの有ければ、院、やらせ給けるに、日の装束しょうぞくただしくしたる人の、太刀はきて、しゃく取りかしこまりて、二間ばかりきて居たりけるを、院、「あれは何に人ぞ」ととわせ給ければ、「の家の主にさうらおきな也」と申ければ、院、「とおる大臣おとどか」ととわせ給ければ、「さうらふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせまへば、「家にさうらへばすみさうらふに、ませば、かたじけなところせく思給おぼしたまふる也。何がつかまつるべき」と申せば、院、「其れはいと異様の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣おとどの子孫のえさせたればこそ住め。者の霊也と云へども、事のことわりをも知らず、何でかくは云ぞ」とたかやかにおおせ給ければ、霊かきつ様にうせにけり。其の後、亦現るる事無かりけり。


其の時の人、此の事を聞て、院をぞかたじけなもうしける。「猶、只人には似させ給はざりけり。此の大臣おとどの霊にあいて、此様にすくやかに、異人は否答えこたえじかし」とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。



源融みなもとのとおるは嵯峨天皇の子で、源氏物語の光源氏のモデルの有力候補の1人。融が六条河原院に塩竈の風景を再現しようとしたというエピソードは有名で、京都には今でも「塩竈町」があり、また宮城県塩竈市には融が住んだと伝わる「融ヶ岡」という地名が残る。

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