第4話「沼る」
次の日の土曜日
今日は祝日だ。
梅雨も終盤
しかし今日は生憎の雨だ。
だんだん暑くなってきて肌にまとわりつく雨が体を動きにくくする。
中学生1年生の堀田友樹(ほったともき)は
自分の住む7階のマンションから出ると、近くの店をぶらぶらと歩いている。
端正な顔立ちでスタイルの良い彼は、半袖の白シャツにピチッとした黒ズボン。
そのラフな格好でも若い女性が振り向いてしまうほど、顔が濃く、太眉が特徴。
駅で待ち合わせしていた時にモデルと間違われたこともある。
真っ黒な大きな傘をさし、キャリアウーマンの母に頼まれたクリーニング店に預けた母の冬のコートを取りに行かなかればいけない。
「最悪の雨だな…」
外出する天候ではない。
家でじっくり雨の通りを待ちたいような日だ。
憂鬱な気持ちを押し殺し、前へと進んだ。
クリーニング店はいつも学校までの道を利用する駅の奥にある。
歩いて15分ほどの場所で、その駅付近はファミレスや、個人店のラーメン屋や病院など細々した物がビルの中に入っている。
隣の駅はかなり栄えているため、この駅は人もよりつかず静かでその寂れ具合がいい。
「帰りになにか食っていくかな…。」
美味しそうな店が立ち並ぶ。
ラーメンが食べたくなってきた。
などと考えていると雨脚はまた強まってきた。
「なんだ!?」
駅前を通り過ぎようとしていた時だった。堀田は目の前の光景に驚いた
おもわず顎が突き出るほど異様な光景が広がっていたのである。
びしょ濡れで震えている自分と同じくらいの年代の少年がいる。
何故か傘もささずびっしょびしょの状態のまま、ふらふらとこちらに歩いてくるのだ。
「あれ…?なんかどっかでみたことあるな。」
と、まじまじと顔をみていると、それは同じクラスメイトの君野吉郎だった。
前から歩いてくるその光景は、雨の中恨んで事故で死んだ幽霊のようだ。
ゾンビのように、手を前に垂らし、前かがみで歩いてくる様子に正直ビビっている。
その状況に唖然として突っ立ってみていると、その冷たすぎる体はいつの間にか自分の体にくっついてた。
「おい!離せ!冷たッ!!!」
コイツの両手が俺の白シャツを透けさせ、肌まで透かして強く抱きついてくる。
「さむ~い…。」
そんな、甘えた声でグリグリとしっとり濡れた髪を胸に押し付けてきた。
水分を吸ったモップのように液体が広がる不快感が伝わっていく。
「うわあ!嘘だろおい…。」
最悪だ。Tシャツはぐっしょりと濡れ、ズボンも失禁でもしたかのようにびちゃびちゃになってしまっている。
「お前、どういうつもりだよ!俺に何か恨みでも…。おい。もしもし?は?寝た?」
君野は抱きついたまま離れなかった。
というか、どういう状況だよコレ…。
もうこうなってしまっては、引き返すしかない。
「なあ、それよりお前どうした?まさか、虐待か?家に入れてもらえてないのか?」
「えへへ。ママは優しいよ。僕ギューって抱きつくの大好きなの。」
と無邪気な顔で上目遣いで甘えてくる。
堀田とは身長差があり、
そのために下から見る君野の大きな目はより潤んで見える。
堀田はその光景に不覚にもドキッとしてしまった。
「とりあえず俺の家に来い。このままじゃ電車に乗れもしない。」
と、ビチャビチャな君野の手を引っ張って、もと来た道を戻った。
あれ?君野ってこんなやつだったっけ。
入学式後に数人の男子でアイスを食って交流を深めた仲の一人。
本当にそれだけの関係だ。
その頃はサッカーがうまくて、華奢のくせに野心があって、なかなかストイックだったのは覚えてる。
「うわ、ザーザー降りだ…。」
街頭も霞むほど雨はひどくなるばかりだ。
今見つけてよかったなんて思う俺はだいぶお人好しだよな…。
反吐が出そうになる。
マンションに着くと、君野をすぐに風呂場に連行した。
スペアの衣服を貸して、シャワーの簡単な使い方を教えてあげる。
堀田の部屋は、彼の几帳面な性格が表れており、シンプルで整った空間だ。
部屋の壁は明るいグレーを基調にしており、無駄のないインテリアが特徴的。
木目調のデスクには整然と文房具が並び、引き出しやペン立てにきちんと収められている。
観葉植物がベッドの横に一つ置かれ、サイドテーブルには本が数冊積まれているが、すべてが揃った方向で並べられている。
整然とした部屋には、堀田のしっかりした性格が伝わってくるようだ。
「はあ…。災難な日だな。」
そうだ。アイツをどうやって送り返せばいいんだ。
電車…まず親が先か?
とりあえず風呂から戻ってきたらだな…
ああ、腹減った…。
と、堀田は時刻をみた。
昼の12時だ。
その時だった。
「堀田くん堀田くん!!!」
君野が風呂場から大声で呼んでいる。子どものように甲高い声が響いた。
堀田が急いで廊下を駆けると、風呂場のドアがバン!と勢いよく開き、堀田の部屋着を着た君野が飛び出してきた。
「待ておい!どこ行くんだ!」
堀田の声を聞く間もなく、君野は両腕を大きく振り回しながら廊下をバタバタと走り抜ける。
「見て見て!すごい速いよ~!」
無邪気に笑いながら、君野は走り回る。その姿は、まるで遊びに夢中になる幼稚園児のようだった。
堀田が追いかけるも、君野は全くお構いなしで次の部屋に飛び込む。
「あっ、そこは!」
堀田が叫んだ瞬間、君野は子ども部屋のベッドに飛び乗った。小さな足をぱたぱたさせながら、ピョンピョンと跳ねている。
「見て堀田くん!ボヨンボヨンだよ~!」
ベッドの上で両手を広げ、大きな声で笑う君野。その無邪気さに堀田は目を丸くする。
そして拭いていないのか
髪の毛がじっとりと濡れていて、その滴が堀田の顔面に被弾する。
「水で濡れているうちはどれだけ動いてもセーフなの!汗かかないから無敵!」
「おい!いい加減にしろ!下の人にも迷惑だろ!」
と言ったその時だった。
「あ!」
ズルっと君野がベッドから足を滑らせた。
「危ない!!」
堀田はその君野を支えようとしたが、2人はそのままベッドの下の床に倒れてしまった。
「なんなんだよもう…。」
腰を打ち付け、苦虫を潰したような顔をする。
さらに押し倒すように馬乗りになった君野の髪の毛先から、雫がこぼれ、顔面に滴る。
「あのなあ!!」
堀田は覆いかぶさる君野の首に巻き付いたタオルを引っ張り
彼の顔を強制的に近づける。
2人は見つめ合う形になり
きょとんと目をパチクリさせる君野に堀田が吠えた。
「髪の毛はしっかり拭けよ!風邪引くだろうが!!!」
そのタオルを広げ、寝た状態のまま髪の毛を拭いてあげた。
「気持ちいいい…。」
君野の表情は、あまりにも無防備だった。
目を細め、気持ちよさそうにタオルに頭を預ける彼の顔は、前に見ていたストイックな姿とはまるで別人だった。
堀田の脳裏に浮かぶのは、入学式の後、サッカーの話で熱く語っていた君野の姿…
なんだコイツかわいいかよ!!!
堀田の心が踊る。
自分の心の中で浮かんだ言葉に驚き、慌てて意識をそらすようにタオルでゴシゴシと髪を拭く動作を強くした。
「いたあい!」
君野が小さく抗議の声を上げ、眉をひそめる。それすらも、妙に可愛く思えてしまう自分が嫌だった。
俺は普通だ。
堀田はそう繰り返し心の中で念じた。
「ほら、じっとしてろ。すぐ終わるから。」
無理にそう言って作業を続けるが、心臓がいつもより早く動いていることに気づいてしまう。
冷静になれ…。頭が冷えすぎてコイツがおかしくなってるだけだ。
けれども、君野の無邪気な笑顔が頭から離れない。
そして、拭き終わった頃、君野がぽつりと言った。
「堀田くん、ありがと……。」
その声が、いつもより少しだけ幼くて、少しだけ甘えた響きを持っていた。堀田の心臓は、さらに跳ね上がる。
「いいから、さっさと寝ろよ。」
ぶっきらぼうにそう言ったが、耳の奥まで熱くなるのを堀田は感じていた。
「お腹へっちゃった。」
「お前な…。」
といいつつ、堀田は玄関先にあったフォルダからあるものを取ってくる。
…出前表だ。
「僕コレ食べたい!」
「ラーメン?しょうがねえな。あ、そうだお前連絡先教えろよ。親が心配してるかもしれないしな。」
俺は一体何をしているんだ…
と思いつつ携帯電話で出前を取る。
そして君野からどうにか電話番号を聞き出し、
彼の親に連絡した。
でたのは可愛らしい声の君野の母親だ。
事情を説明すると
このガキンチョさの理由を説明してくれた。
幼児退行(ようじたいこう)
それは大人や子どもがストレスや心の負担を感じたときに、過去の幼い時期の行動や感情に戻ってしまう現象。
精神的な防御機制の一つで、問題に対処するため幼少期のような無力さや依存的な態度を取ることだ。
そういや、教室で桜谷の家で君野が事故を起こしたとかいうのを思い出す。
それが、サッカーができなくなったことが原因だとクラスメイトから聞かされたんだ。
2ヶ月前までコイツは深刻な幼児退行を起こしていたという。
君野の場合は今の自分のことがうまく思い出せなくなる、幼児退行で一時的な記憶喪失をするという。
今まさにその深刻な症状なのだということを知った。
「うわあ!」
堀田は座りながらスマホで電話をしていると
後ろから君野が堀田の背中にのしかかってきた。
「おいやめろって!…あ、お母さん、はい。ご飯一緒に食べるんで。はい。パート終わりの夕方で大丈夫です。駅まで連れていきます。いえいえ…。」
まるで営業マンのように答える彼の後ろで君野がじゃれてくる。
それを片手で抑えながらどうにか電話を続けた。
しかし病気といえど、堀田にはある出来事のせいでどうしても彼が愛しく見えてしまう。
「…あのなあ!!!!」
電話を切ってしびれを切らした堀田が君野の全身をくすぐる。
脇腹をくすぐられ大笑いする様子に一瞬、堀田の目が寂しげに変わる。
その目線の先は目の前の棚の上。
写真の中で微笑む小さな男の子。
その脇には立派な花とお菓子、好きだったおもちゃが並べられていた。
「友(ゆう)…。」
「誰?」
「ああ、俺の弟。ここはその弟の部屋なんだよ。」
「あの子?今いくつなの?」
「5歳で去年病死したんだ。だからこの部屋、時が停まったままにしたくて普段は開かずの間なんだよ。」
その言葉に君野が驚いた顔をする。
「ごめん!酷いことしたね。そんな気持ちも知らないで…。」
「お前も病気なんだ仕方ない。それになんか今のお前見てると懐かしい。弟見てるみたいで。」
「そうなの?僕似てる?」
「ああ。元気だった頃にそっくりだ。この収集つかない感じ。」
「そっか!えへへ!お兄ちゃん!」
「!」
君野はふざけて言ったのかもしれないが、堀田の心にはその「お兄ちゃん」の言葉が心にジンジンと響く。
まるで100年前に止まった大きな時計台の針が
重い腰を上げて再び時を刻んだようだった。
2人はラーメンが来ると一緒に食べ、お腹を満たした。
堀田が食器を洗い、玄関の前に置く。
そして再び自分の部屋に戻ってくると
「…お前な。」
と頭を抱える。
堀田のベッドの上で君野が大の字になって寝ていた。
「俺はお前のママじゃないんだぞ…。」
と言いながらも、そのブラコンを静かに胸の中で爆発させる。
人の部屋着を着て、人の金でラーメンを食べその上に人のベッドで大の字で寝る。
普通ならはっ倒しても仕方ないが
なぜかその全てが今は愛おしい。
「大丈夫か?俺…。」
そんな自分が本気で心配になった。
いくらなんでも他人を弟とするのは気持ちが悪い。
外はまだザーザー降り。
とりあえずこのまま寝かせてやろう…
と本棚の本を取り、
堀田は今日の気持ちを整理するように
寝入る君野のベッドの下で静かな時間を過ごした。
「じゃあな。」
「うん…本当にありがとう。バイバイ。」
気づいたら僕は、堀田くんのお母さんの車で僕の家まで送ってもらっていた。
どうやら僕のお母さんのパートが遅くなるのと、
クリーニング店によるとのことでその言葉に甘えさせてもらった。
堀田くんのお母さんは赤メガネの似合う綺麗な人でスーツ姿。
車も大きく、社会でたくましく生きるバイタリティの強そうな人だった。
その車を見送りたかったが、
雨が酷くすぐに家に入った。
中には誰もいない。
真っ暗な玄関の電気をつけ、2階の自室に向かった。
ものすごく迷惑をかけたみたいだ。
今はその罪悪感でいっぱいだ。
今着ている服も堀田くんのもの。
ちゃんと洗ってアイロンをかけて返そう。
そんな風に思う一方で
実際は嬉しさが勝っている。
あの憧れの堀田くんとこんな形で交流できたなんて…!
そう思うと着ているこの服さえもプレミアだ。
ずっと暗雲が立ち込めていた心に太陽がさし、真緑の芽が天高く芽吹いたよう。
事故に遭って幼児退行になってから、僕はずっと1人だった。
寂しかった。
だから、本当は弟くんが亡くなったと聞いていたあたりから
正気を取り戻していたとは言えなかった。
僕は途中で、幼児退行を演じていた。
「僕が弟くんみたいになれば、愛してくれるかな…。」
もう教室でひとりぼっちなのは嫌だ。
そうだ、服を返すんだ。
その時、どうにか友達になれないかな…。
と、
君野は罪悪感と嬉しさと寂しさを心で混ぜながら、外の激しい雨音を聞いた。
そして一向に脱ごうとも思わない
堀田の服をぎゅっと抱きしめていた。
続く。
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