第2話

二階の副市長室から洩れてくる光を確認してから、おれはそっと扉をノックした。


「はい」


「お疲れ様です。巡回です」


 少し開いている扉を開けると、中にあの人がいた。


「あ、すみません。もうそんな時間ですか」


 彼は目をこすってから、おれに笑顔を向けた。副市長付き秘書課の職員、天沼あまぬまさん。


 そう、この人の名前だけは覚えた。彼の名前を呼ぶことはないけれど、おれは名前を知っている――。


「この前はごちそう様でした。コーヒー、美味しかったです」


「いえいえ。少しばかりで……」


「今日は遅くなりますか」


「すみません。議会が近いんです」


 ――ああ、そうか。議会ってやつか。


 社会の仕組みなんて、おれはよく分からない。学がないからだ。『議会』なんて言葉、ここに来てよく聞くようになった。


 その『議会』というものが開かれる前や会期中は、残業する人がどっと増える。多分、繁忙期と呼ばれるものになるのだろう。


「おれ、秘書って女性のイメージだったんです。だから市役所に来て秘書係? の人たちが男ばっかりで驚きました」


 常日頃、思っていることを口にすると、天沼さんは「ふふ」と笑った。


「同感です。テレビでは美人な女性秘書が多いですよね。男のロマン? ってやつでしょうか」


 天沼さんもそんな男らしいことを考えるんだと意外に思っていると、彼は説明を続けた。


「市長と副市長のサポートって肉体労働なんですよ。現に今日もこうして残業ですし……。とても女性では務まりませんからね」


「綺麗な恰好で、さっそうと歩く女性秘書って言うのは幻想ってことですね」


「その通りですね」


 彼は笑ってから、それから話題を変えた。


「三島さん、夜勤慣れましたか」


 ――ああ、おれの名前、憶えていてくれたんだ。


 なんだか嬉しい気持ちになった。彼に促されて応接セットの椅子に腰を下ろす。懐中電灯のスイッチをオフにしてから、おれはぎこちなくフカフカの椅子に腰を下ろした。


「ええ。ずいぶんと。連日ではないので、体も大丈夫です」


「それはよかった。夜勤の仕事なんて、おれは難しいな」


「そんなこと言いますけど、天沼さんはほとんど夜勤みたいなもんじゃないですか。いや、日中も働いているし、24時間勤務に近いですよね」


「そんなことありませんよ。副市長がお休みを取るようにって厳しいです。ここのところ、週末はしっかりお休みしています」


 おれの勤務は平日の夜間が多い。週末に天沼さんが出勤しているかどうか、それは把握していないことだった。


「三島さんはお休み、なにをされているんですか」


 仕事の邪魔になるとは言え、彼との時間はおれにとったら嬉しい時間。少しでも長く共有していたいという気持ちが強く、勤務中だという戒めの気持ちはぐっと押し込めた。


「おれは独身ですよ。日中は寝ていることが多いです。オフの時は、友人と飲みに行ったり……テレビ見るくらいでしょうか。趣味もそうないので。そういう天沼さんは、なにをして過ごすんですか? やっぱり週末だし、その、こ、恋人とデートとか……でしょうか」


 おれの問いに、書類から手を離した彼はにっこりと笑顔を見せる。その笑みは魅惑的で、おれには刺激が強すぎる。


 緩んだ唇はいやらしい。その唇を塞いで、中の味を確かめたい。そんな思いに駆られた。


「そうですね。まあ、仕事がこんなですから。一緒にいる時間があまりなくて……」


 ――否定、しないんだ。


「天沼さんの恋人は、きっと……可愛らしいんでしょうね」


 だって天沼さん自体が可愛い。彼女はふわふわしたようなマシュマロみたいな子じゃないかと予測した。


 羨ましいと思った。天沼さんの舌が彼女の口の中を犯す様を想像すると下腹部がゾクゾクとするものだ。


 おれの中にも入ってきてくれないのだろうか。こんなに近くにいるというのに、おれたちは決して触れ合うこともなく、交わることもないのだろう。

 そう思ってしまうともどかしかった。


 天沼さんの膝に置かれたほっそりとした指は、彼女のしなやかな肢体を縦横無尽に這い回るのだろうか。


 ああ、羨ましい。羨ましい。おれの肌にも触れて欲しい……。


 しかし。

 可愛らしい女性との情事の場面を想像していたおれの耳に飛び込んできた彼の回答は意外なものだった。

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