第2話 深紅色の才能
本日の授業が終了し、一同が各々の放課後を迎えるべく席を離れていく。
今は五月中旬。部活動の新入生勧誘期間も終了して、俺たち二年生は正式に先輩になった。後輩にだらしない姿を見せるわけにはいかないのか、運動部に所属しているクラスメイトは、駆け足気味に部室棟目指して教室を去っていく。
部活に属さないリア充たちは、
「今日カラオケ行かない?」
「いいねー。めっちゃ歌いたかったんだよ」
などと取り立てて急ぐこともなく、グループで教室を去っていく。
それは別にリア充とか陽キャとか呼ばれる奴らだけの特権ではなく、多くの帰宅部は気の合う仲間と放課後を過ごすのは言うまでもない。
当たり前に帰宅部の俺も、誰に挨拶するでもなく教室を去る。しかし、目指す先は正門ではない。
◆
馬鹿と煙は高いところが好きで、リア充はドリンク飲み放題のファミレスとカラオケを愛する。
ボッチ愛好家の俺にも好きな場所は存在する。落ち着ける静かな空間だ。
集団生活嫌いな俺が半日以上教室で過ごすのは気が滅入る。だから、心身を回復する憩いの場、充電スポットが必要不可欠なのは言うまでもない。
今現在、文化棟四階にある空き教室の窓から、まんじりともせず空を鑑賞中。今日は天気がいい。
「坊主にうってつけの場所学校にあんで」と、とあるOGから誰も使用していないであろう空き教室の存在を教えてもらい、一年の頃からこっそりと使用していたのだ。昼休みとかに重宝している。
流れる雲がなんの形に見えるか――そんなどうでもいいことを考えていると、空き教室のドアが開いた。
「ごめんごめん、お待たせ」
そんな風に軽妙な謝罪と共に入ってきたのは、桜庭紅巴だった。
もちろん、招いたのは俺である。
「お待たせ」と言われて、しかし、「待ってないよ」と答えることは、俺にはできなかった。事実、少しも待っていないのだが、なんだかカップルの待ち合わせのような雰囲気が出てしまうのではと危惧して、言えない。
じゃあ、なにを言えばいいのか。
俺がまごついている間に、桜庭が口を開く。
「こんなところに自由にしていい教室があったんだねー。知らなかったよ」
厳密には、決して「自由にしていい教室」ではないのだが。
当たり前みたいに使っているが、実はしっかり無断なので、教師にバレると普通に叱られる。
そういう面でも、他人には話せないスポットだった。
では、なぜ桜庭を招いたかというと、それは悪魔について彼女に説明するためである。
誰かに聞かれたい話ではないので、人気のないところに呼びたかったのだが、校舎裏とか、そういう場所は基本的にどこもかしこも告白スポットなので、桜庭を告白スポットに呼び出す勇気が俺になかった。
「それで、昨日の……その、悪魔とかについて、教えてくれるんだよね?」
「ああ」
そういう約束だ。
「桜庭は……悪魔と契約してから、不思議な現象に身に覚えは?」
「悪魔に襲われたり、音穏くんが助けてくれたり、不思議なことばかりだけど?」
「そうじゃなくて、もっとこう……なんて言うか、なにか特殊な能力に目覚めたとかはないか?」
「? 力が強くなったとか?」
「それ以外で」
「それ以外だと……あっ、傷の治りが早かったかも。ちょっと擦り剝いて怪我しちゃったときも、すぐに治っちゃったんだよね」
「……なるほど。再生系の契約能力か?」
独り言のつもりで漏らした言葉だったが、もちろん目の前には桜庭がいて、当然のように聞こえているので、その独り言はしっかり拾われた。
「再生? 契約能力?」
「ああ……」
どう説明しようかな――と頭をこねくり回す。
そもそも喋るのが苦手なのに、説明までしなければならないなんて、本当に面倒だ。これだから他人と関わるのは疲れる。
「悪魔と契約すると、三つの能力が手に入る。ひとつは悪魔を視認できるようになる能力、ひとつは高い身体能力――そしてもうひとつが、固有の特殊能力」
「と、特殊能力!」
桜庭がわかりやすくテンションを上げる。
小学生男子かよ。
「そう、特殊能力――〝契約能力〟なんて呼ばれてる」
「音穏くんにもあるの?」
「もちろん。俺の契約能力は〝音速〟――発動した場所から十メートル以内、かつ、ひと呼吸の間だけ音速で動ける」
「音速⁉ 最強じゃん⁉」
「いや、別に最強では……デメリットもあるし」
「デメリット?」
「契約能力には契約対価って言って、能力を発動するために代償を払わなきゃいけない。俺の代償は〝動悸〟――能力を使うと心臓の脈が乱れる。乱用しすぎると不整脈を起こす」
「動悸……」
「………」
「………」
「まあ、どんなのかはわからないけど、そういう
「そうなんだ……じゃあ、私にも、特別な力が……」
桜庭が噛みしめるように呟く。
まあ、気持ちはわからないでもない。俺も最初は、降って沸いた特殊な力に欣喜雀躍したものだ――が、契約対価は想像以上に重い。
たとえば俺の動悸――地味ながらかなりキツい対価だ。
まあ、まだ桜庭の契約対価が重いものと決まったわけではない。契約対価がほとんどノーコストと称しても違いないくらいに対価が軽い契約者だって、いないわけではない。
なんにせよ、調べてみないことには始まらない。
「桜庭」
「ん?」
「和菓子は好きか?」
「んんん?」
◆
そんなわけで、俺は桜庭を連れ立って馴染みの和菓子屋を目指した。
さすがの俺でも、場所だけ伝えて現地集合で――とは言えず(言いたくはあった)、隣を並んで歩く。
その道中も、桜庭のコミュ力には驚かされるばかりだった。共通の話題など悪魔関連のことしかないのに――しかも、当の桜庭は悪魔についてたいして詳しくないのに――会話が途切れたり気まずくなることはない。
その尋常ならざるコミュ力には、脱帽のひと言しかない。
何より驚かされるのが、学校以外でも桜庭の愛され具合が尋常ではないこと。
桜庭が歩くと、人が寄ってくること寄ってくること。
老若男女、どんな人間にも話しかけられ、かつ、その全ての人のことを覚えているのだから、もはや驚異的だ――たぶん、桜庭の人気には地域密着型のアイドルでも勝てない。
「桜庭は」
「ねえ」
桜庭が遮るように割り込んできた。
「なんだ?」
「その、『桜庭』っていうのやめて。距離感じるもん」
「は……?」
「なにより、音穏くんも言いづらそうだし」
そうだろうか?
全然そんなことはないはずなのだが、桜庭があまりに自信満々に言うので、そんな気がしてきてしまった。
「じゃあ……」
「
「……いや、桜庭って呼ばせてもらう」
色々考えた結果、そこは固辞した。
「そう」
桜庭はちょっと残念そうな顔をする。それだけで、こっちが罪悪感を覚えなきゃいけないのだから、美少女っていうのはズルい。
「それで? 音穏くんはどこに連れて行ってくれるの?」
「ん……もう着いた」
顎をしゃくって看板を指し示す。
そこには『
◆
ドアを開けると、和菓子特有の優しい甘さの薫りがした。
ガラスケースに陳列された色とりどりの和菓子に、俺の一歩後ろから入店した桜庭が息を呑む。
そう、この店は和菓子のクオリティが高いのだ。
「おいでやす」
店の奥から、京都訛りの女性の声が響く。
出てきたのは、若草色の着物に身を包んだ若い女だった。
名前は
彼女は来店した俺のことを見ると、その顔を伏見稲荷の狐のように吊り上げる。
「おんやぁ――坊主が女の子ぉ連れてくるなんて珍しいなぁ。カノジョでも紹介しに来てくれたん?」
「違うってことくらいわかるだろ。なんでも色恋に結びつけようとするな。おばさん臭いぞ」
言い返すが、彩華さんのニマニマは止まらない。ノーダメージだ。
「――彼女は桜庭、ちょっと前に悪魔と契約したらしい――桜庭、この胡散臭い人は彩華さん。胡散臭いけど、悪魔関連の悩み事なら頼りになる――あと、和菓子を作るのが上手」
「本場の京都で修業したさかいね――悪魔の方は副業や。本業は和菓子職人。よろしゅうな、お嬢ちゃん」
「あ、はい。よろしくお願いします」
にこりと笑って返事をする桜庭。
こんな胡散臭い人にそこまでにこやかに挨拶できるのは、もうさすがとしか言いようがない。
「ほんで? 今日の御用件は?」
「解析と換金」
「解析? 換金?」
事情を知らない桜庭がおうむ返しに首を捻る。
「言い忘れたけど、彩華さんも悪魔と契約してるんだよ。契約能力は〝解析〟――悪魔関連の諸々を見ただけで把握できる――換金っていうのはこれのこと」
俺がポケットから取り出したのは、黒い結晶だった。
どことなく毒々しく、どことなく禍々しい。
「それって……昨日の悪魔の……」
悪魔は非生物。死んでも死体は残らない――が、代わりに、こういった黒い結晶を残していく。
「これは魔石。悪魔の核みたいなものだ」
「それ、売れるんだ?」
「需要があるからな」
「需要?」
「契約対価に使うんだ。契約対価は魔力っていうので代替できる――けど、人間は魔力がないからそれはできない……らしい」
間違った説明をしてないか、ちらちらと彩華さんの方を見ながら説明をする。説明している俺も、実のところ、この辺はちゃんとはわかっていない。
彼女が口を挟まないということは、間違っていないということだろう。
「その魔力を補充するため、魔石を取り込むんだ」
「取り込むって、どうやって?」
「食べる」
「……え?」
ぎょっとした目を向けてくる桜庭。
まあ、そりゃ、あんな異形から採取された結晶など、口に含みたいと思う方が稀だ。だが、そうしなければならない人だっている。
「契約対価は人それぞれだから。契約能力を使うと寿命が減る――とかなら、魔石を呑み込んだ方がマシだろ?」
「なんにせよ、魔石の需要は計り知れへんさかいな」
話を遮るように言って、彩華さんが俺の手から魔石を浚っていく。
電灯に透かすようにそれを眺めた彩華さんは、ひとつ頷いた。
「うん、状態もええなぁ。お代はどうしたらええ?」
「桜庭の解析費を引いて、残りは普通に現金でくれ」
「そら無理やな。足らへんさかい」
「えー」
「こっちも契約対価を払うてるんやさかい、これくらいは普通やわぁ」
これは値切れそうにない。
俺は諦めて財布を取り出した――紗琳堂はキャッシュレスに対応していない。
「いくら?」
「差し引き、五千円でええよ」
「高いな」
財布の中を覗き込む。五千円札は一枚しかなかった。渋々、津田梅子が肖像の五千円札を取り出す。
「ちょ、ちょっと、どういうこと?」
桜庭が慌てたように口を挟んでくる。
「今から桜庭の契約能力を彩華さんに解析してもらう」
「それなら、お金は自分で出すよ」
「いや、いいよ。俺が連れてきたんだし……」
「いいから。自分で出すから」
そこまで言うなら自分で払ってもらおうかな――と、財布をしまおうとしたら、
「あかんえ、お嬢ちゃん。男の子カッコつけてるときは、それ邪魔したら」
そう言いながら、彩華さんが俺の手から五千円札を奪うように取っていった――ちっ。
「ほな、お嬢ちゃん、こっちにおいで」
彩華さんが桜庭を手招く。
桜庭は恐縮しきった様子で、一歩前に出た。
彩華さんはそんな桜庭を尻目に眼鏡を取り出すと、それを掛ける――そして呟く。
「
彩華さんの解析は、独特の空気感がある。
息も忘れるような緊張感は、数秒続いた。
「お嬢ちゃんの契約能力は〝操血〟やね。契約対価は貧血。発動条件は出血や」
「そうけつ?」
「血液を操るタイプの能力やろうな。悪魔的やわぁ」
血液は古来から、あらゆる地域のあらゆる宗教において、穢れたものとされてきた。
それを操る能力だから、彩華さんは悪魔的だと評したのだろう。
もちろん、意図を図りかねて首を傾げている桜庭に、わざわざそんなことを教えてやるつもりはない。
古い風習や因習なんて気にする質にも見えないが、念のためだ――人間関係において、石橋を叩いて、なおかつ渡らないのが、ぼっちという生き物である。
「血液を操るって、具体的にはどういう能力なんだ? ――確か、傷の治りが早いとか言ってたけど」
話題を変えるように、そんなことを口にする。
「そこら辺は実戦で試してみたらええやん」
「実戦?」
「お嬢ちゃん、ちょいとお小遣い稼ぎしてみいひん?」
彩華さんは桜庭に笑いかける。伏見稲荷の狐のような顔で――或いは、悪魔のような顔で。
「悪魔を倒すだけの簡単な仕事なんやけど」
「彩華さん」
窘めるように名前を呼ぶが、暖簾に腕押しだった。
「やってみたない? ちなみに、お賃金はこのくらいなんやけど……」
彩華さんが桜庭に耳打ちをする。
桜庭の目が見開いた。
「やります!」
俺は天を仰いだ。
◆
夜。
俺と桜庭は立体駐車場に来ていた。
鉄筋とコンクリートで作り上げられた、縦長の建物。車は何台か停まっているが、人気はない。
古びた蛍光灯が明滅しているが、悪魔と契約した俺らは、暗闇というのを感じない。ただ、明滅されると雰囲気がホラーチックになってしまうのは、どうしても免れない事態ではあった。
「………」
桜庭の肩が力んでいる。呼吸も、心なしか浅い。
「………」
何か声を掛けてあげるべきか悩んで――でも、なんの言葉も出てこなかった。
俺がなにも言えないうちに、悪魔と契約して獲得した第六感に、得も言われないドス黒い感覚が引っかかった。
緊張のあまり気付いていなそうな桜庭の肩を叩く。
「お出ましだ」
振り向く。
そこにいたのは、芋虫だった。
もちろん、ただの芋虫ではない――幼魔だ。
その身体は軽自動車ほどのサイズがあり、肌は毒々しい紫。蚯蚓のような触角が、うねうねと動いている。
――気色悪い。
それ以外の表現のしようなど何もないほどに、醜悪な見た目だった。
桜庭が一歩下がるのを感じる。
「桜庭……俺が代わりにやろうか?」
俺がそう申し出るが、しかし、桜庭は頬をひきつらせたまま首を横に振った――頷きかけて、なんとか首を振ったという印象の拒絶だった。
「大丈夫……私にも、できる……」
一歩。
前に出る。そして通学鞄に着けていた安全ピンをひとつ外した。安全ピンで留められていたクマのぬいぐるみが、コンクリートの地面に落ちる。
桜庭は息を整えた。
吸って。
吐く。
酸素の循環を終えた桜庭は、一転、程よい緊張感の漂う、ピリリとした雰囲気を纏っていた。
安全ピンの針で、左手の親指の根元を突き刺す――珠のような鮮血が溢れ出した。
発動条件、出血。
「
溢れ出した血は、自然の法則には従わない。
ただ、桜庭の意志にのみ従って。
意のまま。
思うがまま。
――剣の形をとる。
言うなればサーベルの形となったそれは、赤黒く、弱々しい蛍光灯の光を反射して、妖しく深紅に煌めいていた。
「やああぁぁぁぁぁぁぁ‼‼‼」
気合一閃。
桜庭はよほど気合を入れて振るったようだが、結論から言って、そこまでやる必要はなかったらしい。
横一文字に振るわれたサーベルは、ほとんどの抵抗もなく、芋虫の姿をした幼魔を斬り裂いた――斬り裂いたというか、もう「スライスした」という表現が正しいように思える。それほど、見事な断面だった。
剣の扱いには慣れていないのだろう――まあ、むしろ、慣れていたらそっちの方がなんでって感じなのだが――桜庭の一閃は勢いが余り過ぎて、幼魔の左右に停車されていた車も斬り裂いてしまっている。
鉄の塊すら綺麗に引き裂いてしまう血の剣の斬れ味には舌を巻くばかりだが――それはあまりいいことではない。
斬れ味のいい剣と悪い剣――どっちが攻撃力が高いかというと、これが意外なことに、斬れ味に悪い方なのである。断面が綺麗すぎると、大したダメージにはなり得ないのだ。
そして。
もっと最悪なことに――最も悪いことに。
斬り裂かれ、そのままゆっくりと絶命するしかない運命だった幼魔は、何の因果か、はたまた試練か、そのタイミングで〝孵化〟したのだった。
「……っっっ‼⁉⁇」
斬り裂かれた芋虫の亡骸――それを棺に眠っていたかのようにそれは姿を現す。
青白い肌、オレンジの瞳、頭から生えた触角――それ以外は、若い男性の見た目。
悪魔だ。
成体の悪魔が、今、この瞬間に誕生した。
「■■■……」
悪魔がにたりと笑う。
先ほど、彩華さんの笑みを悪魔のようだと評した俺だが――本物の悪魔の笑みは、彩華さんのそれなど比較にならないほど、もっと悪魔的だった。
醜悪で。
攻撃的。
「……っっっ!」
桜庭の反応な悪くなかった――少なくとも、無様に惚けているだけだった俺よりは早かった。
悪魔の悪いところはその醜悪な見た目だが、逆に、悪魔のいいところは、その醜悪さのお蔭で、たとえ人間に近しい見た目をしていても、攻撃を躊躇わないで済むところである。
桜庭は手に構えていた血の剣を振り上げると、今度は、袈裟に斬りつける。
そして、その鉄すらも紙屑のように切り裂く血の刃は、あっけなく悪魔の手に阻まれた。
がしっ――と、鷲掴むようにして、血の剣が受け止められている。
よく見れば、その手を少し斬って食い込んでいるようだったが、なんにしても、その一撃は急所に届きそうになかった。
「桜庭!」
叫びながら、ヘッドホンに手を伸ばす。
同時に、桜庭の剣が形を歪ませた。
まさか悪魔に握り潰されたのかと――そんな勘違いをした俺だったが、それは全くの見当外れだった。
握り潰されたのではなく。
形を変えたのだ。
桜庭の意志によって。
血の剣という固体から、ただの血液という液体に姿を変えた桜庭の血は、悪魔の手をすり抜け、重力に従い滴る。そして零れ落ちた血液を、再度短剣という形で凝固させた桜庭は、それを逆手に持ち、全身の捻りを利用して悪魔を斬りつけた。
さすがに反応できなかったのだろう。
悪魔は、首を半分ほど斬り飛ばされる。
桜庭が勝ちを確信しているのが、後姿でわかった。
そういうのを、世の中では油断と呼ぶ。
人間に近しい姿をしていても、悪魔は悪魔。
首を半分ほど斬ったくらいじゃ、死んではくれない。
「■■■■……」
粘っこい、水気を孕んだ悪魔の笑い声が耳朶を揺らした。
その手が、無防備を晒す桜庭に向かって伸びる。
成体の悪魔の力をもってすれば、人間の頭部を握り潰すなんて簡単だ――悪魔って奴はなぜだか、惨たらしい殺し方を好む傾向がある。頭を握り潰す程度で済めば、むしろ恩の字かもしれない。
――なんにせよ、そんなことはさせないが。
「
初速から音速に至った俺は、三歩の助走を経て大ジャンプする。そして不格好なドロップキックを、悪魔の頭に叩き込んだ。
下手くそでも体重の乗ったドロップキック――それも、音速のドロップキックだ。
もともと半分ほど切れていた悪魔の首は、その衝撃に耐えられず完全に千切れて飛んで行った。
いくら悪魔でも、さすがに首が吹っ飛んでも死なないなんてことはない。
悪魔は闇に溶けるように消えていく。
それを確認した俺は、ヘッドホンを外して一息吐いた。
世界が速度を取り戻す。
「ふぅ……」
息を吐く。
心臓があり得ないリズムで跳ねまわっているが、これはただの契約対価。いつものことだ。
「……また、助けてもらっちゃったね」
しばらくの沈黙の後、桜庭がおもむろに口を開く。
「別に……助けたとかじゃない。悪魔がどのくらいで死ぬとか、教えてなかった俺が悪いんだし……」
「そこは強気にカッコつけてよ」
桜庭はからっと笑う。
「今の音穏くん、せっかくカッコよかったんだから」
そんなことを言われて、あっさり照れてしまう自分の簡単さが、どうにも恥ずかしかった。
◆
「悪魔ってなんで倒さなきゃいけないんだろうねー」
翌日。
昼休みに、いつもの如く文化棟の空き教室に逃げ込んだみ、弁当を突いていると、当たり前みたいに現れた桜庭が、開口一番、そんなことを言った。
「悪魔は人間に危害を加える。でも、普通の人間は悪魔が見えない――だから、悪魔が見えるし、倒せる力を持っている俺たち契約者が、倒さないといけない……みたいな?」
ボッチは自分の発言に責任を持つことができないため、断定詞は使わない。これ、常識。
「なるほどね。悪魔の力を使って、悪魔を倒すんだ」
「確かに、そうなるのか」
そう言われてみると、何か矛盾しているような気がする。
「なんか仮面ライダーみたいだね」
「?」
その喩えはよくわからない。
俺が首を捻っていると、桜庭は唐突に拳を突き上げた。
「よ~し! 私も音穏くんみたいになれるように、頑張るぞー」
などと宣う。
「俺みたいに?」
「うん! 音穏くんみたいに、カッコよく戦えるように」
「……俺なんて全然だよ」
謙遜でもなんでもなく。
俺はただただ首を振った。
俺ごときに憧れてはいけない。
「桜庭は才能あるさ。昨日、悪魔と戦ってるの見て思った――剣道とか習ってたのか?」
「ううん。全然」
「じゃあ、天才だ。剣をあげるので戦ってくださいって急に言われて、あそこまで戦える人間、なかなかいない」
「悪魔の力とかじゃないの?」
「そういうのは聞いたことないな……知らんけど」
悪魔と契約しても、向上するのは身体能力だけだ。
戦闘センスとかは、自前のもので戦うことになる――もちろん、そういうものに自信がない人は、契約者になってもひっそりと普通の人のように暮らしていたりする。
「ま、何でもいいや! これから、新米エクソシストとして頑張ってくぞ―!」
「エクソシスト?」
拳を突き上げて宣誓している桜庭に、俺は空気を読まずに問い返した。
「うん。悪魔を退治するから、エクソシスト」
エクソシストという言葉の意味はもちろん知っているが、しかし、その言葉は口に馴染まな過ぎて、別のイメージが脳を過ってしまう――具体的に言うと、かの有名ホラー映画の「スパイダーウォーク」のシーンが脳内で再生される。
「もしかして、エクソシストって言わない?」
「まあ、言わないな……別に教会に所属してるとかでもないし――魔石を売ってお小遣い稼いでるだけだから、バイト感覚だし。どれだけカッコよく言ったって、賞金稼ぎとかじゃないか?」
「そっか……」
そうなのだ。
先ほど悪魔が見えない人のために、悪魔を倒さなきゃいけない――なんて無責任なことを言ったが、もちろん、悪魔と契約したからといって自動的にそんな責任が発生するわけじゃない。悪魔と戦うも目を背けるも、本人次第のことだし、逃げたからといって誰かに責められるわけでもない。もちろん、責任もない。
責任もない仕事なんて、アルバイトですらないだろう。
ましてや、エクソシストなんてカッコいい名前を名乗れるわけもない。
――と、俺は思うのだが、
「でもま、私はエクソシストって名乗ろうかな。そっちの方がカッコいいし!」
桜庭は全くそうは思わないようで、そんなことを言うのだった。
「これから、新米エクソシストとして頑張ってくぞ―!」
と、繰り返す。
拳を高々と突き上げる桜庭を、俺は苦笑いしながら眺めていた。
こういう時に「おー!」とか、ノリよく応えることができないから、俺はボッチなんだなと再認識した。
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