第4話 F級ダンジョン 1/3
その後、俺は体調不良を理由に特訓の場を離れた。確かに、頭を打たれた時の鈍い痛みや、前世の記憶が一気に蘇ったことによる戸惑いはあった。だが、不思議なことに、それらの違和感は驚くほど早く収まった。痛みは瞬く間に消え去り、混乱も薄霧が晴れるように消え失せていった。
まるで、前世の記憶が初めから自分の一部だったかのようだ。その膨大な知識や経験が、何の違和感もなく自分に馴染んでいる。自分が『新藤蓮也』であると同時に、『かつて最強と謳われた古代魔法師』であるという事実を、自然と受け入れている自分がいる。それは奇妙な感覚でありながら、不思議と心地よくもあった。
「それはともかく、だな」
前世を思い出した俺にとって、この地道なトレーニングに付き合う必要性は薄い。超古代文明の力を取り戻した今、もっと効率的で効果的な方法がいくらでもある。黒波さんが付き添おうとしてくれたが、そこは丁重に断った。これから行うことは他人には知られたくない秘密の作業だからな。
俺が向かったのは、『迷宮攻略室』だ。
この部屋は、人工的にダンジョンを生成するための特殊な設備が整えられている。ダンジョンとは、大気中の魔力が凝縮することで自然発生するものだが、この迷宮攻略室ではそれを意図的に発生させることができる。まさに、迷宮学院ならではのトンデモ施設だ。迷宮学院の生徒なら誰でも──それこそFクラスの生徒でも自由に使えるというこの施設の存在には、心底感謝するしかない。
「まあ……前世の力を使えば、ダンジョン生成なんて朝飯前なんだけどな」
前世が最強の古代魔法師だった俺は、10億年前に培った技術と知識を完全に取り戻している。かつての地球は、現代をはるかに凌駕する文明を誇っており、ダンジョン生成など雑作もない行為だった。そもそも現代で自然発生するダンジョンそのものが、超古代文明が生み出した兵器の副産物に過ぎないのだが……まあ、その話は今は置いておこう。
迷宮攻略室は無機質な空間だった。
教室らしい机や椅子は一切なく、がらんどうとした異様な雰囲気を醸し出している。唯一の設備は、教卓の上に置かれたノートパソコンだ。その画面には「等級を選んでください」と表示され、プルダウンメニューが用意されていた。とりあえず初回なので、『F級ダンジョン』を選択する。すると──教室中央に空間が歪み、ぽっかりと黒い穴が出現した。これが通称『ゲート』だ。
「さて、さっそく挑むとするか」
現在時刻は18時。学校が閉まる20時までには時間が限られている。特訓場から勝手に拝借してきた木刀を握り締め、俺は軽く肩を回した。そして、深呼吸で気持ちを整えると、少し急ぎ足でゲートへと歩み寄り、その中へと足を踏み入れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ゲートを潜り抜けた俺の目の前には、薄暗い洞窟が広がっていた。湿った空気が肌にまとわりつき、足元の地面はぬかるんでいる。洞窟内には不規則な石柱や天井から滴り落ちる水滴があり、どこか不気味な雰囲気を醸し出している。壁面にはところどころ苔が生え、微かに魔力を感じさせる青白い光を放っていた。
現代の魔法技術で生成されたダンジョンは、あくまで訓練用の模擬空間だ。だからこそ、本物のダンジョンに比べるとそのスケールも難易度も控えめだ。前世の俺が幾度となく訪れた凶悪な迷宮を思い出せば、ここは遊園地のアトラクションのようなものだと言えるだろう。
「へぇ、現代の技術もなかなかやるじゃないか」
俺は少し感心しながら、湿った空気の中を前に進んだ。このダンジョンはF級、つまり最も難易度が低い設定ではあるが、それでも侮るわけにはいかない。足元に転がる小石がカラカラと音を立てるたびに、微かに反響する音が洞窟内の不気味さを増幅させる。この空間は人工的に作られたものとは思えないほどのリアリティを持っていた。
絶対零度の冷気や1兆度の火球など、古代魔法は現代魔法を遥かに凌駕していた。だが、前世の俺は膨大な魔法の中からたった2つの魔法だけに専念する道を選んだ。これは、ほかの魔法を習得できなかったからではない。無数の魔法を捨て、最強と呼ぶに相応しい2つの魔法だけを極めるための選択だった。
「ゴブゥ……」
「ゴブブゥ……」
そんなことを考えながら進んでいると、緑色の小鬼──ゴブリンが現れた。身長は1メートルにも満たない小柄な身体だが、筋肉質で、錆びた短剣や棍棒を握っている。そしてもう1匹は赤いローブを纏い、樫の杖を握り締めたゴブリン・ウィザードだった。
ゴブリンはF級の中でも最下位に位置する魔物だ。魔力を持たない一般人でも倒せる可能性のある、いわば『ザコ』。だが、油断はできない。前世の記憶と魔法を取り戻したとはいえ、今の俺の体力や技量は一般人以下。慎重に戦う必要があった。
「ゴブブゥ!!」
考えを巡らせている間に、ゴブリン・ウィザードが動いた。樫の杖を掲げると、野球ボール大の火球を生成し、勢いよく俺の顔面へと飛ばしてきた。その火球は空気を切り裂く音を立てながら直進してくるが──
「《
刹那、火球は霧散した。まるで花火が弾けるように、その場から完全に消え去ったのだ。自慢の攻撃が唐突に消えたことで、ゴブリン・ウィザードは明らかに困惑していた。
「……よし、成功だな」
俺は自らの力を確認しながら呟く。これが前世の俺が完成させた究極魔法、《
だが、《
「ゴブゥ!!」
怒り狂ったようにもう1匹のゴブリンが錆びたナイフを握りしめ、こちらへと突進してきた。ナイフ自体はボロボロで心許ないが、その切っ先が皮膚を裂けば大ダメージは避けられないだろう。だが幸いなことに、その動きは鈍く、白夜の攻撃速度の半分にも満たない。俺は軽いステップでその突進をかわした。
「おらぁああああああ!!」
振り抜いた木刀が、ゴブリンの頭にクリーンヒット。鈍い音を立てて、ゴブリンの小柄な身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。倒れ込んだゴブリンの姿を確認する間もなく、俺の腕に鈍い感触が残る。それは肉や骨を打ち砕いた手応えだった。真っ赤な返り血と弾け飛ぶピンク色の脳漿が顔に付着し、臭気と粘ついた感触が押し寄せてくる。
「うっ……」
吐き気を抑えつつも、手を止めるわけにはいかない。忌避感を抱いて立ち止まれば、次の一撃で命を落とすのは俺だ。覚悟を決めて、怯えるゴブリン・ウィザードに接近し、木刀を振り下ろした。
グチャッ──不快な音が響き、ゴブリン・ウィザードの動きが止まる。そして、2匹のゴブリンは光の粒子となり、霧散した。その場には、小さな石だけがカランと音を立てて転がっていた。
「初勝利……か」
呟きながら、俺は地面に転がる石を拾い上げた。その冷たい感触が、今しがたの戦闘の現実を嫌でも思い出させる。視線を下げると、そこには赤黒く濡れた木刀の姿。返り血が木肌に染み込み、戦闘の爪痕を刻んでいた。
目を閉じると、不意に湧き上がるのは2つの感情。1つは、命を奪ってしまったという圧倒的な嫌悪感。いくら魔物とはいえ、生き物をこの手で屠ったという事実は、心に深く刻まれている。もう1つは、その裏側に潜む嗜虐的な興奮──力の差を見せつけ、相手を圧倒したときに湧き起こる高揚感。その2つがせめぎ合い、胸の中で奇妙な違和感を生み出していた。
しかし、今は感情に流されている場合ではない。この場でやるべきことがある。気を取り直し、俺は石を確認する。光を反射して輝くその小さな石は、単なる石ではない。これこそが、ダンジョンの魔物を倒した者だけが手にすることのできる『魔石』だ。
「これが魔石か……」
掌に載せた小さな石を見つめながら、思わず呟いた。魔物を討伐すると得られるこの魔石──それは現代社会において極めて重要な資源となっている。魔力を通すことで生成される『魔素』は、電気を凌駕する効率を誇るエネルギー源として注目を浴びており、さらには昨今ではシリコンに代わる半導体材料としての可能性も示唆されている。特に高純度の魔石は天文学的な価値を持つこともあり、ドラゴンやヴァンパイアの魔石などは1つで億を超える価格が付くことさえある。
しかし、この魔石にはもう1つ、知られざる使い道が存在する。現代では未発見のその用途を、古代魔法師の前世を持つ俺は知っている。
「《
小さな魔石を口に運び、飲み込んだ。喉を通る異物感に反して、全身に魔力が行き渡る感覚が広がる。そして次の瞬間、目の前に透明なウィンドウが浮かび上がった。
【《身体強化》を会得しました】
「……まぁまぁなスキルだな」
俺が飲み込んだ魔石から得たのは、肉体能力を底上げする《身体強化》というスキルだった。これこそが《
さらに、このスキルの最大の利点は、《
前世の俺は、この《
「さて、もう1つ試してみるか……」
ゴブリン・ウィザードが残した魔石を飲み込む。しかし、今回はスキルを会得できなかった。おそらくその魔石に宿る力が魔法系スキルだったのだろう。《
新たに手にした《身体強化》のスキルが、全身に力をみなぎらせる。筋肉が躍動し、これまでの虚弱な身体が嘘のように軽く感じられた。とはいえ、まだまだ黒波さんに勝てる気はしないが。彼女の規格外のパワーには遠く及ばないが、それでもこのスキルは確実に俺を強くしている。
「よし、この調子でスキルをどんどん吸収していくぞ!」
声を張り上げ、俺はダンジョンの奥へと歩を進めた。さらなる力を得るため、そして、決闘に勝利するため──。そのためにも、俺はダンジョンを突き進んだ。
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