第2話 微かな希望

「れ、蓮也くん。そ、その……あ、ありがとうね。で、でも……」


 放課後のチャイムが鳴り、教室内に微かなざわめきが広がった直後のことだった。わざとらしく遅れてやってきた教師による学院の説明もようやく終わり、周囲がようやく解放感に包まれる中、隣の席の彼女が小さな声で話しかけてきた。彼女の大柄な身体がシュンと縮こまり、見た目以上に小さく感じられる。


 彼女の顔には申し訳なさが滲んでいた。『自分が負うべき責任を押し付けてしまった』とでも思っているのだろう。だが、そんな必要は全くない。俺が勝手に手を挙げたことだ。とはいえ、この表情を見ると彼女が責任感の強い優しい人間であることがわかる。


 ……しかし、気になることが一つある。彼女はどうして俺の名前を知っているのだろう? 新学期特有の自己紹介タイムもなかったし、実際に俺は彼女の名前を知らない。覚えていないだけで、どこかで会ったことがあるのだろうか。いや、そんな可能性は低い。ま、どうでもいいか。


「ううん、気にしないで。えっと……ごめん、名前は?」

「あ、く、黒波雨凛くろなみあめりだよ。ご、ごめんね、じ、自己紹介が遅れて」……やっぱり覚えてないんだ」


 ……?

 何か言った気がしたが、気のせいか?

 まぁ、それはいいか。


「いやいや、謝ることじゃないよ」

「え、えへへ。で、でも……ほ、本当に、わ、私のせいで……れ、蓮也くんが、け、決闘に……。わ、私、ほ、本当に申し訳ないよ……」


 黒波雨凛──彼女の名前はどこか優雅でありながら、彼女の大柄な身体とは少しギャップがある。だが、その震える声には深い後悔と自責が込められていた。


「大丈夫、俺が勝手にしたことだから」

「だ、だけど……」

「少しキザっぽいけど、『女性の涙は絶対に拭け』って母さんから言われてるんだ。だから、その……俺がしたくてしたことだから、気にしないで大丈夫だよ!」


 ワザとおどけて言ったその言葉に、彼女の表情が少しだけ和らいだ。だが、俺の中で苦い記憶が蘇る。


 もちろん、母さんの話は全て嘘だ。俺の母親はホスト狂いで、家にいることは滅多にない。たまに帰ってきたと思えば、俺を構うどころか存在すら忘れたような態度を取る。俺が魔力に覚醒した時も、ほんの一瞬だけ褒めてくれたが、それもきっと俺の奨学金目当てだったのだろう。


 父親は俺が幼い頃に蒸発し、俺には家族らしい家族などいなかった。だからこそ、俺が彼女に語った言葉は、俺自身が信じたかった理想でしかない。


「で、でも……」

「黒波さん、本当に大丈夫だから。俺が勝手に決めたことなんだよ。ほら、そんな顔しないで」


 彼女の申し訳なさが、俺の言葉で少しでも和らぐことを願って、優しく微笑む。彼女の顔にわずかながら安堵の色が浮かぶのを見て、俺はホッとした。


「……ほ、本当に、ありがとうね。れ、蓮也くん。で、でも……必ずお礼はさせてね」


 最後の一言には、どこかゾクッとするような不穏な響きがあったが、深く考えないことにした。ともかく、俺の行動は間違いではなかったようだ。彼女の不安や自責を少しでも拭えたのなら、それで良い。勇気を出してよかった、と心から思った。


 ──とはいえ、現状は何も変わらない。


 俺はマンガやラノベの主人公とは違う。美人なクラスメイトの笑顔や感謝を受けたところで、突然覚醒してEクラスのあの男を倒せるわけでもない。彼女の涙を止めたところで、暗澹とした未来が明るくなるわけでもないのだ。


「僕たちからも謝罪をさせてくれ」


 次に何をするべきか考えていたその時、数人のクラスメイトが俺の席のそばに集まってきた。


 白髪で長身痩躯の美男子、茶髪で筋骨隆々な大男、桃色ボブの小柄な少女、青髪ロングのグラマラスな美女、赤髪ツインテールのスレンダーな少女──いずれも際立つ容姿の5人組だ。こんな美男美女たちに囲まれると、何だか居心地が悪い。


 彼らの顔ぶれには見覚えがあった。黒波さんが決闘相手に指名された際、他の生徒たちが安堵する中で、この5人だけは悔しそうな表情を浮かべていたのだ。白髪の男子などは、何か言いたげに口を開いていたのを思い出す。きっと、俺と同じように勇気を振り絞ろうとしていたのだろう。


「すまない。僕がもっと……君のように勇気を振り絞れていれば……!」

「いや、白夜だけの責任じゃねえよ。俺たち全員、同じ腰抜けだ。情けねぇ。だから、お前には感謝してもしきれねェよ」

「でも、本当にカッコよかったよ! 隣の席の女の子を守るために勇気を出して……ボク、ちょっと見惚れちゃったな!」

「あなたの行動は、私たちも見習うべきです。そして……責任を押し付けてしまって、本当に申し訳ありません」

「そうね。アンタの勇気には敬意を表するわ。あの場で手を上げられるなんて、普通じゃできないことだから」


 5人が次々に話しかけてきて、少し困惑する。けれど、感謝の気持ちが伝わってきたのは間違いない。


「クラスメイトを代表して、深い感謝を述べるよ。それで……勝てる算段はあるのかい?」


 白髪の男子──白夜がそう尋ねてきた。その目には期待が込められている。他のクラスメイトたちも一様に俺に注目し、次の言葉を待っていた。


──期待されている。だけど、俺には何の策もない。


「その……特にないよ。俺はとっさに身体が動いただけで、Eクラスの彼に勝てる算段なんて……マジでこれっぽっちもないんだ」


 正直に答えると、教室内に落胆の空気が広がった。俺の言葉に絶望を覚えたのだろう。敗北が見えている未来に、全員が暗い表情を浮かべていた。


「あのEクラスの男、どうせ俺たちを奴隷扱いするつもりなんだろう。あの顔つきなら、そんなことを考えていてもおかしくない」


 内心でそう毒づきながら、俺は何もできない自分に苛立っていた。


「そうなんだ……もし君が良ければなんだけど、僕たちと鍛えないかい?」

「……へ?」

「そうだ、それがいいな! 今のままだと勝つのは難しいけど、少しでも可能性を高めよう!」

「ふふ、確かに白夜らしいアイデアですね。それくらいしか方法はありませんもの」

「で、どうするの? アンタもその訓練に参加するの?」


 確かに、彼らの提案は理にかなっている。けれど、たった5日間の修行で何かが変わるのか? そんな疑問が頭をよぎる。


「れ、蓮也くんが参加するんなら、わ、私も参加するよ!!」


 隣にいた黒波さんが、突然勢いよく声を上げた。その声は少し震えていたが、決意が込められているのがはっきりと分かった。


「え、黒波さん?」

「わ、私が本来負うはずだった責任を、れ、蓮也くんに押し付けちゃったんだから……そ、そのくらいは一緒にやるよ!! せ、せめて、れ、蓮也くんの苦しみを、わ、私にも共有させて!!」


 苦しむこと前提かよ、と内心少しだけ突っ込みたくなったが……その申し出は純粋に嬉しかった。一緒に頑張ろうとしてくれる仲間がいるというのは、これほど心強いものなのか。


 これまで俺は筋トレも勉強も三日坊主で終わってきた。自分一人では何かを成し遂げる自信なんて欠片もなかった。だけど、こんなに大人数と一緒なら……成し遂げられるかもしれない。たった5日という短い期間だが、それでも頑張ってみようという気持ちが湧いてきた。


 黒波さんは、ふいに右手を差し出してきた。その手は驚くほど丸くて、まるでクリームパンのようだった。恥ずかしそうにしている彼女の表情はどこかかわいらしく、胸がドキドキしてしまう。


 こんなに緊張して彼女の手を握ったら、その動揺がバレてしまうのではないか……そんな不安もよぎったが──


「うん、じゃあ……お言葉に甘えて」


 俺は静かに彼女の手を握った。


 その手は驚くほど柔らかく、ぷにぷにしていて、何ともいえない温かさがあった。


「う、うん!! い、一緒に頑張ろうね!!」


 彼女の笑顔を見ていると、不思議と勇気が湧いてくる。どんなに厳しい訓練でも、彼女が隣にいてくれるのなら耐えられそうだ。

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