第2輪 過去のことは土壌に流すが良い

 うまく行っとると良いのじゃが


          ——『真の薫香』


 パリの東に位置するヴァンセンヌの森の上の次元には、その森と同じ広さの城がそびえ

立っている。アロマ連合フランス支部だ。均一に立ち並ぶ塔群を円形に囲む外壁の中心には

ひときわ大きな主塔が立っており、主塔と外壁の間には12本の塔が立っている。アロマ連合の紋章である Flower of Life をモデルにデザインされたものだ。そのいっぽう愛用ケータイ

——ヴァイオレット製のオレンジ・モデルで、ティーンの時から使っている——で確認した空からの画像では時計のようにも見える。塔同士を石製の空中回廊で結んでいるのが特徴。それ以外は面白いところは何もないし、センスだってない。こんな建築は人間たちの真似事だ。

もしオレが人間だったとしたら、ここで精霊たちが働いているとは思わない、それぐらい花美がない。花らしさがないんだ。主塔はエッフェル塔より全然低いし、そもそも何で石造り? 木製じゃないのは大問題だ。ジャパンの京都にある連合支部は植物界と天使界の建築技術を

用いて、各神社と寺を空に浮かぶ空中庭園で結んだ巨大な城があるのに、この建造物ときたらそういう特別な技術が何もない。いっそのこと*フィンランド支部のようにして欲しかった。さんざん悪く言ったが、単純な建築であることはテクノロジーが優れていて機能的である証拠だ。エアリスやケータイで十分コミュニケーションは取れるし、城の反対側まで行くなら

わざわざ*空中回廊を歩かなくてもポータルで一瞬で移動できるんだから。


*(フィンランド支部はトゥルクにある。

  地政学的にロンドン支部とパリ支部ほど重要とみなされていないため規模が小さい。

  フィンランドとスウェーデンがサンタ界の主要世界になっていることも理由のひとつだ。

  でもなんでかな、デザイン性に優れているんだ。

  あそこは各ツリーハウスを吊り橋で繋いでいて

  ——一度だけ訪れたことがあるんだけど——

  みんなお菓子を食べて和気あいあいとしていた。ちゃんと仕事してるのかな。

  ちなみに支部長のマスター・モミは大使として植物界とサンタ界の外交を担当している)


*(え?

  じゃあなんで必要のない回廊を造っちまったかって? 

  そりゃ……

  造ったやつに聞け。

  That's fashion, オシャレなんてだいたいそんなもんだろ)

 保護されてラウンジに案内されたオレたちは、ある精霊を待つため青いボール状のソファに座っていた。本来であればオレたちのほうから赴くべきなのに、*木を使って彼のほうから

来てくれるらしい。ラウンジにいるのはふたりの若い芽だけだった。今日はフットボールの

社内大会があるから、みんなそっちへ行ってるんだろう。いや、わからない。彼の粋な計らいで全員を退出させたのかもしれない。いつもならここでくつろいだり、仕事するヒトが

たくさんいる。この空間は外から見たゴシック調の建物の印象とは異なりモダンだった。

床には緑のカーペットが敷かれ、バーカウンターや浮遊型のテレビが設置されている。

アイマスク、歯ブラシを始めとしたアメニティも整っている。見ていて嫌になった。精霊は

どれだけ働いても過労死できない。丈夫なんだ、ただ疲弊するだけで永遠に働くことが

できる。だから死ぬことに憧れているヒトは少なくない。それにしてもこのソファ、本当に

やわらかくて心地が良い。快適。天井近くでただよっている光の玉たちをぼんやり見つめ

ながら「なあ、犯人はどの陣営だと思う?」同じボールをシェアする——おたがいの香りを

聞きながら待ったほうが良いと話しあった結果だ。植物の精霊は仲間といれば精神的にも

物理的にも強くなる。それに回復も早い——ラベンダーに聞いた。





*(木を使う:植物界の慣用表現。相手の気持ちを察して思いやること。また、その行動。

ロンドンに住んでいる悪友のピーター——ウサギの精霊はいつも誰かに「相手に優しくしろ」と言っていて、騎士の心を持っている男だと最初思ってたんだ。でもなんか使い方に違和感を感じてある日、聞いてみたんだ。「その言葉、どういう意味で使ってる?」って。答えは衝撃だった。奇妙なことに動物界では意味がまったく異なり〝利用しろ〟という意味になるんだ。あいつはずっとオレにも仲間たちにも敵や人間たちを「利用しろ」と言っていたんだ! あの状況はまるでイングランドとアメリカ合衆国で使われる英語、レグザゴンヌとカナダで使われるフランス語の違いさながらだった。同じ言葉でも意味は違う。だから君も動物界に旅行するときには言葉の使い方に注意したほうがいい。

 それにしても、なんだかんだ言ってもピーターは古くて変な良いやつだよ。自分の神話を

人間に作らせようとして、絵本のモデルになっちまったけど——……やっぱりモラルに欠けるやつだな。精霊社会では人間たちに神話として語られることが社会的なステータスなんだ。

でも無理に作らせることは良くない、それは人間界へのマナーのない介入だ。やつには幼稚な絵本がお似合いだな。ああ、なんだか会いたくなってきた。我が友ピーターよ、

パリは災害だ、テロリストがいる! 何よりもっと恐ろしいことはトイレの数が少ない‼︎)


「……いまは興味ないわ。考えるための情報が足りない」

「至上主義者、動物、それか一般霊」腕時計の針は16時21分を示している。

 オレとラベンダーがあの恐ろしい光景を目撃してから1時間が経とうとしていた。

「アロマ連合のマスターだったら面白いのに」

「You're cutting me! (:冗談だろ!)」茶化す彼女に目をこぼれんばかりに見開く。

「可能性の話よ」

「笑い話じゃないぞ、精油計画はどれほどの精霊が知ってるんだ?」

「評議員だけよ——〝日の昇る評議会〟に出席している。今はまだ」

「……伐採だ」植物界の最高意志決定機関だぞ。そこに裏切り者がいることになる。違うと

信じたい。「待て、おまえ、いつ評議員になった?」ラベンダーはもう評議員なのか。

フルーツクラスなのに、オレはまだマスターにすらなれていない。悔しい。

こんなんじゃ地球に怒られちまう。

「もしかしてわたし、実はフルーツなんじゃない?」

 彼女はわざと傲慢な仕草でおちょくってきた。

「やめてくれ、勝手にヒトの心を読むな」人間は非物質の次元で生きている生命体とは違い、物理的な肉体を持っている。だから心を誰かに読まれてしまうなんてことはない——読める

人間もいるけど——そこはちょっと、うらやましい。

 この Egyptian girl 3200年以上も生きているんだ、*ノージンジャー、オレさまならその年齢より早くマスターになれているはずだ。だが、たった三千年ぽっちで本当になれる

だろうか? かなり野心的な夢だ。ええい、宇宙を作るよりは遥かにかんたんだ!


*(ノージンジャー:花たちが好んで使う植物界の代表的なスラング。

  しょうがないとか、C'est la vie(セラヴィ)を意味する。

  これを使えばおまえの花言葉もさらにネイティブに近づくことまちがいなしだ。

  補足として、ノージンジャー指数と呼ばれるその星の幸福度を示す数値があるんだ。

  地球の順位は……やめておこう、悲しくなるだけだ。みんなこの言葉を使いすぎなんだ)


 その頃には、ふたりは体のほとんどをソファ沼に飲みこまれていた。

「A bit, やわらか過ぎやしないか? オレたちは沈水植物じゃないぞ」

「あー、うーん、そうねー」ラベンダーの声は完全に力が抜けて伸び切っていた。リラックスしている。「アトランティス人の気持ちが理解できたわ」彼らが聞いたら怒るだろうな。

一万年以上前、その文明は大陸ごと海に沈んで消滅した。もし彼らが激怒したらオレたちは

こう言うんだ。‘Yeah, that's life! C'est la vie !!!’(:人生そんなもんだよ‼︎)

考えないといけないことがたくさんあるのに、あまりの居心地の良さに睡魔が襲ってきた。

街を歩く間、ずっと神経を張り巡らせていたからだ。じき『梨の王』がここに来る。そしたら

事情を説明しないといけない。——なぜかとなりからずっと視線を感じる——少しは休みを

取らないと。残念なことに生意気なユダヤ人少女の次の一言でオレさまの意識はささやかな

パニックをともなって完全に覚醒することになった。

「じゃあ、面接を始めましょうか」

「Well, what?」

「自己紹介して」

「知ってるだろ」

「やれ」

「今するの?」

「そうよ、休んでるヒマはないわ」

「待てったら。マジで言ってるの? テロリストに襲われて、

 支部長に状況を説明できるように情報を整理しないといけないのに、

 面接なんかできないよ」

「OK、不合格! ロンドンへ帰れば?」

「……」言葉を失ったオレの代わりに匂いが気持ちを代弁する。


[What the Earth are you doing?!(:こいつ人間だな、マジかよ)]


 フレンチ・ガールはヒトを値踏みするように嫌な視線を送ってくる


 気取りやがって、もともとおまえはイスラエル出身のくせに!

「ああ、わかったよ、やるよ」

「自己紹介からどうぞ」

「知ってるだろ」

「どうぞ」冷たく言い放つ彼女





「ええと……」準備してきた言葉、忘れちまったぜ、あのテロリスト、*オーストラリア送りにしてやる。とにかく、今はラベンダーの機嫌を損ねるのはマズいな。フランス語で話そう。居住まいを少しでも正したかったがソファがやわらかすぎる、チッ、ここの土壌は災害だぜ。「Enchanté. Je m'appelle Orange, le Orange(:初めまして——数えきれないほど会ってるけど——私の名前はオレンジです)」フランスの文化は形式が大切だ。オレは厳格な決まりに則って言葉を収穫するように努めた。素直に、謙虚に。でも時々は大胆に。面接の基本だ。「礼名は『天界の果実』。年齢は約300歳、出身は人間界のロンドン。話せる言語は英語、花言葉、フランス語、それにクマ語を少々。専門は衛生学、トイレ学、それに歴史。

主な支援経歴はイングランドとフランス。ナポレオンを——」

「待って、年齢をごまかすのはNGよ。244歳でしょ、計算もまともにできないの?」

*(オーストラリア:名詞。

  非物質界では刑務所を意味する単語なんだけど、

  どういうわけか、人間たちは国の名前にしちまった。誰か教えてあげないのかな。

  道を歩いていて、恥ずかしい言葉が書かれている服を着ているヒトをたまに見るけど、

  あんな感じだと思う。今の人類も、そういう年頃なんだろう。

  意味を知ったらきっと、恥ずかしさのあまり

  オーストラリア大陸はアトランティス大陸のように沈んじまうにちがいない。

  人間たちに教えるのはやめておこう。

  知らぬが花だ:The way you don't know is flowery)


「そういうおまえだって正確にはいくつなんだ? いつも3200歳で通してるじゃないか」

「だって女性だもの」肩をすくめる。

「それに面接に遅刻してくるのだってマナー違反だ」

 こんな文句、他の面接官にはとても言えない。

「遅刻?」

「15分遅れてきただろ」

「ここでは遅れて来るのがマナーよ」しまった、そうだった。それがパリ・ルールだ。

 ああ、つまんないことで腹を立てていた自分が*馬花らしい。


*(馬花:Foolower.

  家族や友だちとふざけ合ってるときから、本気で相手を罵るときまで使える便利な言葉。

  文脈あるいはトーンで意味の強さを判断しなければならない。

  花言葉での使用頻度は全単語中トップ10に入る。

  いちおう言及しておくと、パリの精霊は真面目——皮肉屋で、律儀に遅れてやってくる)


 人間に騙された(:タヌキに化かされた)自分に愕然としているとラベンダーは微笑んだ。「今までのやり取りは遊びよ、ちょっとからかっただけ」その言葉は衝撃だった。

 こいつ、時間がないってヒトに言っておきながら、遊んでやがったのか! 彼女は続ける。「ひとつだけよ——わたしが聞きたいことは」手を組む彼女の目つきは鋭いものになった。

その香りも純度を高め、圧力を感じる。「わたしと共に行く? 逃げても責めはしないわ」

 目をつむる。自分の華やかな香りを感じた。情熱のアロマ。でも自信がないのが匂いに出ている。精油計画を進めれば死ぬかもしれない。脳内では数々の情報が閃く。ともだちの笑顔、戦争での失敗、自分のふがいなさ、ロンドンの愉快な仲間たち、皇子ペパー・ミント、クマのパディントン、ウサギのピーター、それに魚のゴーティ、フルーツに生まれたプライド、『黄金のリンゴ』、植物界と動物界の大戦争『地球大混乱時代』、恐怖、差別、自慢のアクセント、師匠。勇気——花として生きることの美しさ。皇帝ナポレオン









































































「やるに決まってるだろ!」言い切った。地球を愛してるんだ。「Allons-y !!!

                              やってやろうぜ‼︎」

「採用」満足華に、新しい上司はくしゃっと花笑む。「根性あるね」

 ちょうどその時、まるでタイミングでも見計らったかのように豪華な香りがラウンジに

響く。少年と少女は立ち上がって身なりを整えた。お出ましだ。

 フランス支部長『梨の王』マスター・ベルガモット。シトラス族を率いるカリスマ。香りが

先に到着し、本人は遅れてラウンジの中央に出現した。2メートルを超える日焼けした白人はストライプの青いスーツに赤いポケットチーフを差しこんでいる。「待たせたな。無事か?」オイルでなでつけられたブルネットの髪が反射する。「酷い目にあったと聞いたぞ——ああ、大人にはならなくて良い、疲れているだろう」フォーマルな姿になるためにエネルギーを循環させるラベンダーを、仰々しい仕草で制す。木を使う彼に彼女は答えた。

「ベル、ありが——マスター・ベルガモット、感謝します」オレは聞き逃さなかった。ベル? 愛称で呼んだぞ、それにラベンダーを見る彼の目の下の筋肉がわずかにゆるんだのも。「精油計画をやめろって脅されたの。評議員しか知らないはずよ」

 ベルガモットは周囲に誰もいないことを確認すると、ため息をついた。これもなんだか演技をしているみたいだ。オレはこういう仕草のヒトが苦手だが、彼の気取ったところと満ち

あふれる自信に惹かれる植物たちは大勢いる。実際、ネットでの評判もすこぶる良い。

「ラベンダー、オレンジ。このことは内密に」わざわざ人差し指を口に当てて言う。ドイツ人のような強靭な体格に、イタリア人を匂わせる芝居がかった振る舞い。古い植物だからとも

思ったが、ベルガモットはラベンダーより若いはずだ。ペパーと同じで千歳から二千歳の

どこかだと思う。単純に彼の性格だ、格好つけたがり屋さんなんだろう。人差し指を口に

当てるなんて、ふざけてるときや映画の中でしか見たことがない。「連合内に裏切り者がいると知れたらパニックだ。みんな疑心暗鬼になるぞ。それこそ*植物至上主義者たちの

思うツボだ」


*(植物至上主義者:

  1番優れているのは香りを持っている植物の精霊だと

  信じて疑わない哀れなヒトたちのこと。

  彼らの他世界——特に動物界の住民に対する無差別攻撃と人間界への直接介入は

  地球中で問題視され、他の*E7が植物界を批判する大きな理由になっている)


*(E7:地球に存在する主要7世界。

  植物界、天使界、動物界、サンタ界、人魚界、冥界、龍界)


 オレはそっぽを向いた。「仲間を疑わなきゃならないなんて、嫌になるね」

                エアリスが写すフィヨルド 美しい。

「オレンジ」肩が重くなった。見ると支部長がその大きな手を置いている。

 彼はオレの根っこ(:神経)に触っている。「同じシトラスの同胞よ、よろしく頼むよ」

腰なんかかがめて視線を合わせてきやがるんだ、チッ

 まるで子どもを諭すような言い方じゃないか、Er? 

                         大人に変身すれば良かった

彼はフルーツクラス特有の輝かしい笑みを浮かべて

    ——女はみんな、こういうのが好きなんだ——ウィスキーみたいに

                              低く紳士的な声で続ける。




 豪華に

      大胆不敵に

                       煌びやか

            

           情熱絢爛

                                火樹銀花 

                                    avec élégance

「君たちには期待しているんだ。


     もし3次元に精油が普及すれば、


  衛生状態が改善する。そこが鍵なんだ。病気による死亡率と自殺者数が低下する。



    魔法のゼロ



 ビジネスは数字を上げることが目的だが、

     支援は数字が0になること程喜ばしいことはないのだ! 

   教育レベルは向上し、労働人口が増え、

 苦労せずとも生きてゆける社会が花開けば、彼らに余裕が生まれる。


               彼らはかつて星からもらった恩恵を返してくれる。


    すなわち、人間と自然が調和する時代がやってくる!」









































































[理想だ‼︎ その時代がやってくる前に、至上主義者たちが復讐を果たすだろ]


 言葉はのどから噴火寸前だったが、なんとかマグマだまりである胃袋へと引きずりもどす。「Sir, わかっています」


「調査班は編成するの?」

 冷たいトーンとは対照的にラベンダーの匂いは華やいでいた。おいったら、隠せよ。


「ああ、こちらでやっておく」

          彼もだ。ふたりは仲の良いおじさんと姪みたいに見える。

                      「全くこの星は、忙しくて敵わんな」


                          「まったく」彼女も同調する。






 ブラウンの髪を後ろになでつけると彼はたくわえた顎ひげに手をやる。「君たちは精油計画に集中するんだ。では良い香りを」告げるやいなや彼は潜伏——出現の対義語。高次元生命体が移動のために裏のチャンネルに入ること——した。Oh オレも早くあれができれば……。

どこの次元でも能力のあるやつってのは、できないやつの気持ちなんか考えないんだ

 ÚÚú……


「『梨の王』ってユーモアのある礼名よね、彼はシトラスなのに……オレンジ?」


 沈黙にたたずむリンゴ髪の少年。すでにラベンダーの声は意識の彼方にあった。



 襲撃——犯人——面接——支部長——ラベンダーの態度。



   クソ疲れた、


                     今日はもう眠りたい






































発芽


 イエスの人生が大いなる試練の連続だったように、僕にも試練がやってきた。おばあさんの家の住所が書かれたメモを無くしてしまったんだ。僕はイエス様じゃない。人生終わった。完全にお手上げ。記憶だけで訪れるのは不可能だし、空腹だ。パリの人は冷たい。変な話し方だと笑われた。警察を頼ろうかと思ったけど、保護されてリヨンに連れ戻されるのも釈然としない。せっかくここまで来たんだ。諦めたくない。傲慢な父に負けたくない。幸い、父から借りた財布があるから食べる分には困らないと思っていた。でも、それは甘い考えだった。転んだ時に駆け寄って来た男が強盗で、リュックサックごと持って行かれた。パリには本当に優しい人がいない。ニオイも鼻がひん曲がりそうだ。捨てられた犬みたいに街を徘徊する他なかった。もうダメかと思った時、



               Hey frère, bonsoir. Comment vas tu ?

                      よぉ兄弟、良い夜だな。調子はどうだ?




 不思議なともだちに会った。名前は……思い出せない。変わった名前だった気がする。オランダ人かアイルランド人みたいな赤毛で、年齢は同じかちょっと上ぐらい。それなのに、お年寄りみたいな話し方をするんだ。もう誰も信用するまいと思っていたのに、なぜだかそいつのことは信用できた。彼は魔法使いみたいで、歴史や建造物、トイレ、国内外の状況、まるでプロヴァンスのワイン畑のように広大な知識を持っているんだ——食べ物をくれる人や盗まれた財布の場所まで! 彼こそ本物のパリジャンだ。パリ中の路地裏を共に走って笑った、雨に打たれながら。彼とはそれっきり。今でも赤毛で自分と同年齢の男性を見かけると、もしや彼では、と思い話しかけずにはいられない。一緒にいたのはその日だけ。彼のことは何も知らない。貴族の出身だろうから、向こうはともだちと思っていないだろう。現在はきっと政府で働いているか、そうでなくとも何か凄いことをしていると思う。とにかく気づいた時、僕はおばあさんの家の前に立っていたんだ。振り返ると、彼はもういなかった。別れの挨拶もできなかった。その後は、父親からのどんな暴力暴言にも耐えることができた。その代わり、ともだちに会えない悲しみで枕を濡らした   。    。。              。

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