第1輪 花と仲良くなりたいならば、マイナスからのスタートだと思え
ラベンダー、良いか? 四の五の言わずにやれ。でなきゃ殺す
——銀狐
お、なんだこの匂い、*弱木だな。よし、いっちょふっかけてやるか。
天井から垂れ下がるお守り、フラスコ、何に使うのかよくわからない実験道具が散らかった木造の部屋には赤毛の白人少年と黒髪の青年がいた。申し訳なさを誤魔化そうと、少年——
まあ、オレのことなんだけど——はチャーミングなそばかすの笑顔を見せる。白いシャツを
着た浅黒い肌の青年は年季の入った机の上で頭を抱えている。これはチャンスだ。上司に説得を試みる。「いいかジジイ、さっきも言ったが、オレはもう維管束が煮えくり返って
いるんだ! テロリスト、犯罪、戦争、この発展途上星にはウンザリする!
いちばんイライラするのはあの*悪魔どもだ!」 「言葉づかい」師匠の『真の薫香』はやんわりとたしなめたが、オレは続けた。
「ロンドンから離れたい、人間とも関わりたくない、
落ち着いたプロジェクトに参加させてくれ!」
*(弱木:植物界の慣用表現。自信がなかったり、ためらってる植物に使われる)
*(悪魔:人間を意味するスラング。
最初は天使たちが使っていた言葉だが、今では地球中の精霊に使われている。
綺麗な表現ではない。下劣だ)
「うーむ、困ったのう……」オレにはわかる、砂漠の王たる彼の香りはいつもみたいに澄んでいない、よどんでいて迷いが見える、肌だってカサカサだ。ここが正念場だぞ。言葉を慎重に選べ。じゃないとまた人間だらけの職場に放りこまれちまう。そんな地獄はもう嫌だ。
「オーレ。もし人間の良い側面が見える仕事があれば、やるか?」そのとき、オレのほおを
小惑星がかすめた。部屋全体に広がる宇宙儀のものだ。その惑星はオレと師匠の間に浮かぶ
天体に衝突した。宇宙船に乗って脱出に成功した原住民もいたが、残念なことに、ほとんどは故郷と運命を共にした。これはシミュレーター。現実ではないが、それでもオレを衝動的に
させるには十分だった。
「至上主義者とも動物とも犯罪とも戦争とも関わらない、人間とも関わらない——関わってもリラックスできる落ち着いた職場で働きたい! 場所はフランス以外認めない‼︎ この条件を満たせないなら、オレはアロマ連合をやめて一般霊として生きる!」今、このオレンジさまのアロマは爆発し柑橘の香りが部屋に充満した。劣等呪文でさえ唱えようものなら引火して2輪とも死ぬ! 無茶な条件であることは百も承知だ。だけど交渉とはこういうものだ。1フランのために百フランよこせと言うのさ。相手はこの地球でいっちばん手強い神だ。下手な脅しが通じる精霊じゃない。もしかしたらオレの演技も見破られている可能性もあるが、まったくの嘘ってわけでもないぜ。こちとら、このまま神経衰弱して過労死するつもりはない。悪魔——おっと失礼、人間だらけの魔界から抜け出してホワイトな職場で働きたいって野望が叶わないのなら、ここで本当に無理心中したって良いんだ。ただ、ほんのちょっと問題があって、交渉相手が地球の覇者『真の薫香』ってこと。天使界の世界長ミカエルや冥界のハーデス陛下とは立場は同じでも格がちがう。この男こそ地球の代表だ。オレとジジイは同じ山で育った仲とは言っても、今はただただおっかない! オレは絶対強者の次の発言のために耳を立てる。
真剣な表情で、おたがいにらみ合う。いくらかの沈黙が続き彼の眉間のシワとマリアナ海溝はどちらが深いか考え始めた頃。『真の薫香』は大笑いした。花笑みを浮かべ、穏やかそうに言うんだ。「そうかそうか、実はのう、ちょうど良いプロジェクトがある。精油計画だ」
「なんだそれは?」
アロマ連合本部の存在するテーベ、エジプト。笛を思わせる鷹の鳴き声が耳をつんざくと、窓からは灼熱の国の太陽が焼き足らんとばかりにオリエント・アロマ・アカデミーの学長、
アロマ連合のグランド・マスター、植物界の世界長を兼任する男の執務室へ。忙殺される年々を送る彼の燻っていた煙が部屋を出る頃には普段の聞く者に畏敬の念を想い起させる純然たる
神秘的な香りになっていたことに気づいたのは、親友のペパーからもらった彼の師匠である
マスター・シナモンの葉巻を試している最中でのことだった。何か引っかかりはしたものの、勝利の味に酔いしれていたために、それはナイルのワニに食べられてしまった。
馬鹿みたいに気取ったパリの街を歩くといろんな匂いがする。
この際、もう一度言おう。そのほうが気分が晴れる。
グズでお調子者のナポレオンみたいにうぬぼれて気取り狂った*パーティー好きの鳥ちゃんたちが集うパリの街は災害だ。安っぽい出来損ないの香水、シガレット、動物の腐敗した匂い。
どこを見ても人間、人間、人間。うぇ。表の顔は光の都、でも正体は権力と暴力と金と、あとそう、みなさんご存知ウンコで物を言わせる、それがパリ。
とにかく耐えられないのは人間たちの糞尿だ。これさえなければフランスを支援する精霊の数だってもっと増えただろうに。なんでこんな臭い街に暮らせるのかな、きっとそういう風に
進化しちまったんだろう。
*(パーティー好きの鳥ちゃんたち:スラング。
ナイトクラブで遊んでいるような頭のゆるい若者たちを指す。人間に使う場合は
パーティーピーポー。前者は差別の言葉じゃないが、後者は差別用語リストに今年入った。
他方で、パーティーアニマルは完全に侮蔑のための言葉だ。
とにかく、植物の精霊が動物に対して使うと、どれも差別になってしまうから
気をつけたほうがいい。恥ずべきことに、地球にはこういった差別用語を嬉々として
使いたがる植物たちがいる。ときどき思うんだ、歴史なんかなくなれば良いのにって)
まるでエスカルゴの体のように渦巻くパリの区画、その9番目のオペラ地区に指定された
カフェはあった。緑のペンキが塗られた看板には〝平和のカフェ〟と書かれている。
なんて皮肉だ。戦争ばかりしてきた国に平和のカフェなんてものはあるのだろうか。
それとも、このカフェだけは本当に中立的安全地帯なのだろうか。百年戦争やナポレオン戦争で凄惨な犠牲を払って手に入れたものがカフェひとつの平和だと思うと木の毒だ。
店内には入らずテラス席に着いた。
正面には工事中のオペラ座が見える。作業着をまとった男たちは石材を運び、ダイレクターと思われるスーツを着た男が図面片手に指示を飛ばしている。なるほど、その設計図だと……頭に完成したオペラ座の外観を思い浮かべる。これは……保守的でイマイチだ。このデザインは今までの延長線でしかない。彫刻や装飾をいっぱい取り付けて、ただ豪華にしただけだ。
こんなもので喜ぶのは浅はかなナポレオン坊やぐらいだ。エッフェル塔のような斬新さが
欲しい。
新しい上司になるかもしれないヒトを待つ間、オレは通りに自分の香りを響かせる。
さわやかな太陽色のエネルギーが、となりに座る女性の顔に笑みを咲かせる。彼女が不思議
そうに首を振ると、首に巻いている緑のスカーフも一緒に宙を踊った。香りの出どころを
探しているらしいが、あいにく人間たちにはオレたちが見えない。目の前にいるのにな。
良い彼氏が見つかることを祈ってるぜ。
それにしても自分の要求がこうもすんなり通ると疑ってしまう。満足できない。騙された? でも、人間を支援するプロジェクトなんて山ほどあるんだ。条件に合うもののひとつやふたつあるだろう。ジジイには感謝しないとな。精油計画、人間界に精油を普及するプロジェクト
だって聞いている。衛生観念と精神性の向上が目的らしい。物流かぁ、やったことないけど
オレさまなら上手くできるだろう。直接ではないが、大陸軍にいたから関わってはいる。
新しい上司、どんな植物なんだ? 能力があって部下を大切にする精霊であってほしい。
名前を聞いておくんだったな。そうすりゃ素性を調べられたのに。時計を見る。約束の午後
二時半はとうに過ぎていた。不安だ。時間は合っているはず。腕時計の針は正確だ。経験上、時間にルーズなやつはダメなやつしかいない。もう10分過ぎてるぞ。偉大なシトラス族の
豊かな匂いは空気が抜ける風船みたいにしぼんでいった。となりに座るブルネットの髪の女性は怪訝な表情でむせこんでいた。どうする? 逃げるなら今だぞ、でもそんなことしちまえば師匠の顔に泥を塗っちまう。
悩んでいると、ある香りがただよってきた。そのアロマはとてもよく澄んでいるのに、
どこか悲しいんだ。暗闇のなかをひとり孤独に歩き続けるような恐怖。いつ人間が襲ってくるかわからない。でも、匂いの中には三日月もあるんだ。それはオレが良く知っている香り
だった。彼女だ! 次の瞬間、例の女が出現した——
真っ白なスケッチブックにブラシでさっと絵を描いたように
このテーブルの反対側に立っている。
「Always you, Lavender. How did you do that?
やれやれだよ。どうやるんだ、それ?」
「Toi !? NoOon !!! Je n’étais pas au courant, quelle déforestation !!!
おまえ⁉︎ 最悪‼︎ アンタだなんて聞いてない、なんて伐採‼︎」
質問には答えずマスター・ラベンダーは詰め寄ってきた。黒いシャツのオレとは対照的に【ローマ帝国時代】の純白のトガを着ている。Oh my Apple!(:なんてこった)あのジジイ。何か隠してるんじゃないかと思ったら、やっぱりこういうことだったのか。知ってたら断っていたのに。マズいことになった。昔のことだが、ラベンダーとはちょっぴり
いろいろあって、それは話せば本が何冊もかけるぐらい。
「アンタだって知ってたらゼッタイ来なかった、災害!」激しい匂いをまきちらしながら怒っている。「*アップルヘアめ!」*14世紀あたり以降のいろんな時代の言葉とアクセントが混ざったオルレアンの方言で、ラベンダーは話した。下品な話し方だ。まあ、フランス語を
聞いたことのないやつが聞いたら、ちょっとは上品に聞こえるんじゃないか?
「じつはオレも同じことを思ってたんだ、奇遇だな。『洗い草』、オレたち同じ大陸でやって
いけるんじゃないか?」オレは英語——彼女が嫌悪する言語——で意地悪に話した。
*(オレの髪は植物界ではアップルヘアと呼ばれている。
通常はうらやましいというニュアンスで使うけど、
ラベンダーはオレがこの呼ばれ方をされるのが嫌なことを知ってて、
わざと差別的に言っている。おもしろいことに、
人間界ではこの髪の色をジンジャーと呼ぶんだ。こっちは完全に差別の言葉だ。
みんなどうかしてるぜ、これのどこがリンゴやジンジャーなんだ?
なぜオレンジヘアって言わねえ! おまえたち、重病だ、眼科へ行ったほうがいいぜ)
*(正直いうと、半分ぐらい何いってるのかさっぱり。
いろんな言葉で話さないで欲しい。これは長生きの精霊によくあることなんだ。
特にオレの師匠の『真の薫香』ったらそりゃもう生きた化石なんだから!
おまえたちのおじいさんおばあさんだってそうだろ?
そんなわけだから相手の香りや心をよく読んで、
その場の状況と照らし合わせながらオレはいつも会話してるんだ。
ちぇ、みんな英語で話せば良いのにな。
え? なんで英語なのかって? 母国語だから。
オレは生粋のロンドンっ子なんだ。
植物界じゃなくて外の世界で生まれたんだぜ! それが自慢さ!) 「減らず口を叩くな、カンキツめ!」あわい紫色の長い髪を振り乱しながら「あなた、わたしに何したか忘れたの⁉︎」14歳の白人の姿の小娘は、言ってはいけない言葉を言っちまった。シトラスの精霊に向かってカンキツと言ったんだ。カチンと来た。オレは手始めに礼儀正しく華麗に脚を組み直した。 「なあ人間、ヒトを差別したらいけないって学校で教わらなかったか? それに話し方も矯正したほうがいい、それは雑草クラス(:労働者階級)のアクセントだ。
確かに過去にはいろいろあったかもしれないが——」
ここから、ややこしくなった事態を収めようとしたが小娘は聞こうとなかった。
「人間って呼んだな‼︎ 年上に向かって!」 顔を真っ赤にして拳もわなわな震えていた。ラベンダーは12歳の少年の胸ぐらをつかみ、拳を上げる。その時、遠くに何か光るものが見えた。頭が判断する前に体は反射的に動いた。ラベンダーを抱きしめて前方へ押し倒す。後方でテーブルの脚が折れて倒れる音がした。弾丸だ。3次元の物体は壊れていない、ということはこの次元にいるやつがオレたちを狙って
いる。緊張で強張った体を強制的に動かす。 「「走れ‼︎」」英語とフランス語でおたがい同時に叫ぶと、赤毛の少年とそれより少し背の
高い少女は近くのブティックに駆けこんだ。激しい音が背後から襲ってくる。緑、青、黄、
ディスプレイ・ウィンドウに立ってネックレスとドレスを歩行者に自慢する嫌味なマネキン
たちの間から外を覗く。石畳の上を薬莢が転がっている。爆撃される前にガラスから離れた。ゴシック調の店内、テロが起こっていることに気づかず接客している女と太った金持ちの婦人の間を不思議な風が慌てるように奥へ通り抜ける。天井から下がる照明がひと瞬き、
点滅する。怪訝な顔の人間たちをよそにブリーフィングは始まった。 「ツケられた?」行手を阻むマネキンたちをかわし息を切らしながらラベンダーをにらむ。
裏口から路地へ出た。糞尿、シガレット、それにゴミが散らばっているが
お行儀よく避けている暇はない。
「転移して来たんだからあり得ない。あなたのほうよ」 「目的がわからない」 右へ左へ路地裏を駆け抜ける。先頭のラベンダーが通りへ顔を出し安全を確認する。 「ナイトとマスターがいるのよ、機密情報が知りたいに決まってるでしょ」
彼女が念じるとエアリスと呼ばれるスクリーンが空中に表示された。 「なぜやつは、この会合を知っていた?」
指で画面を操作し救難信号を発信すると、
ラベンダーは暗い笑みを浮かべる。「知ってるでしょ?」意味ありげに匂わせる。
「ほんとうに連合内に至上主義者がいるのか……」
「いて当然よ、みんな*ニンゲンが嫌いなんだから」 「言葉づかい」たしなめる。でも仕事で疲弊した年上の女性を慰める感じで
*(ニンゲン:ningain or nimmgain. ヒューマンを意味する。
地球で1番汚いとされる差別のための言葉。
映画やドラマではよく使われるけど、じっさいにこれを使っている精霊は教養がないか、
至上主義者だと思われるから使わないほうがいい。
君が夢の中で精霊と会話するときにはなおさら。
精霊界には差別的な言葉が多いんだ、特に植物界には。
え? 聖書や伝説、おとぎ話に出てくる精霊とはイメージがちがうって?
おいおい、勘弁してくれ、あたりまえだろそんなの。
理想のパリと現実のパリはちがう。
カルチャー・ショックを受けた人間はみんな同じこと言うんだから、ヤんなっちゃうな)
「相手は動物? 植物?」オレは尋ねた。
「香りは今のところ感じない、動物クサさもね。何かアイディアは?」
「とにかく離れよう、何人いるかわからない、囲まれたらおしまいだ」
春の陽気な格好をする人間たちが行き交うシャンゼリゼ通りは物騒な状況とは正反対
だった。歩行者たちにまぎれ混んだ時、ふたりの外見は変わっていた。身長186センチの
金髪の男性と、店から盗んだ霊体の緑のコートと帽子に身を包んだ
ローマ人の少女。目立たないように、でもできるたけ早く歩いた。オレは目を疑う。この女、信じられない、着込んだだけじゃないか。何してるんだ?
「Oi, 変身しろ、バレるぞ」小声で言う。
「わたしたちは何にでも変身できる。でもそれじゃあアイデンティティがないのと一緒だわ」
「命と主義、どちらが大事なんだ?」静かに怒鳴った。「ヒトを巻きこむな!」迷惑にも程がある! オレは怒りをかくせなかった。
「両方よ。やめて、匂いに出てる」そんなことわかってる、おまえのせいだぞ。「エッフェル塔まで行けばポータルがある。植物界に帰れるわ」
「待ち伏せしてるだろ、救援が来るまでシャン・ド・マルス公園でやり過ごしたほうが良い」
「たどり着く前に捕まる可能性だってある。
祈りましょう、相手が霊視に長けていないことを」
「公園なら、向こうも手出しはできないだろう。派手に騒ぎを起こせばナイトたちが来る……
問題はそいつらがオレたちの味方かどうか」
正面、遠くのほうではエトワール凱旋門が事の成り行きを見守っていた。どうやら建造物も主人に似るらしい。魔界パリに堂々とそびえ立ち、造らせた友達と同じようにその存在を主張している。頼む、レニー、オレに勇気をくれ。やつならきっとこう言うだろう。
「ハッハッハ、らしくないなオーレ! 私はいつもおまえから元気をもらっていたんだぞ! ほらほら、実ったみのった!」昔話に花が咲く。表情から自然と笑みがこぼれる。左を向けば21年前に建てられた世界で——正確には人間界で——もっとも高い塔、エッフェル塔が
向こうに見えた。できるだけ視界に入れないように努める。敵があそこから監視しているかもしれないからだ。フランスの人々は幸せだ。あの高さの建造物ではしゃぐことができるんだ
から。でも、古いものが好きなオレは嫌いじゃない。人間界の建物はワイルドでかっこいい、原始的で遅れているって揶揄するやつもいるが。こんなときでさえなければ彼女(:La tour Eiffel エッフェル塔。女性名詞)のあの美しい曲線美に心を奪われていたのに。左へ曲がり、公園へと続くジョルジュ・サンク通りに入る。
「オレはやっぱり退職するべきだった……地球を救うなんて愚かなことだ」 「わたしも退職したいよ」そう言う彼女の表情は泣いているのか笑っているのかオレには
わからなかった。「ねえ、何か有用なものはない?」
「どこの世界にいるんだ? 面接に手榴弾や銃を持ってくるやつが」
「人間界」 「ああ」確かにな、やつらは本当に奇妙な生き物だ。まあ、ひょっとしたら全員ではない
かもしれないが。「武器はない、戦いになったら魔法で応戦しよう」
「災害(:最悪)」
平日の午後2時半。通りを歩く人間は多かった。それは身を隠すには便利だったけど同時に恐怖でもあった。彼らにオレたちの姿は見えない。それは一刻も早く前方の人間の歩行線から逸れなければならないことを意味していた、それも自然に。普通は、おたがいに近づけば避けようとする。だけどそのアクションが生まれないのだ。相手が無反応なのは不自然だし、体を通り抜けられでもしたら、それこそ一貫の終わりだ。敵はオレたちのミスを見逃すことなく
殺しにかかる。緊張と不安で吐きそうだ。胃が痛んだ。殺すなら人間を殺せば良い。
オレは関係ないだろ。
ふと、手が温かくなった。下を見やるとラベンダーが手をつないでいた、お姉さんが
弟に優しくするみたいに。その藤色の瞳はまるで、魚を知らない透き通った水みたいな色だ。
「大丈夫、わたしがいる。どう? あなたの霊視で変なやつ、いない?」
「どうだろうな……全員が怪しく視えるな。
飛んでいる鳥も、葉に止まっているチョウチョも、車も何もかも」
もっと周りをよく見たいけど、挙動不審になればそれこそ相手の思うツボだ。
「パパ、生き残れたらアイスクリーム買ってちょうだい」あどけない少女を演じる年上の女性——紀元前13世紀、古代エジプトの頃から生きている——の仕草に、頭が思考停止する。
「……」[枯れちまえ。状況わかってるのか?]言葉には出さなかったが、
匂いには出てしまった。
「わたしだって不安なの、バレるから早く抑えて、匂い」その声は怯えていた。真っ白で華奢な彼女の手を、力強く握りしめる。何が起きても瞬時に対処できるように感覚を研ぎ澄ませること20分。公園はまだ見えない。ラベンダーに歩調を合わせているからだ。それがことさら不安とイライラを募らせる。浮かんだ疑問を口にした。
「どうして救援が来ないんだ? 位置情報もこの姿も送信されているのに誰ひとり来ない!」撃たれた後すぐにオレは頭のなかで念じて救難信号を送った。オレたちがここにいることは、
この街にあるアロマ連合フランス支部に届いているはずだ。「電波障害?」ラベンダーは何も答えなかった。いきなり握った手が後ろに強く引かれ振り返る。「何してるんだ?
立ち止まってないで——」言葉はフェード・アウト。何か様子がおかしい。目も口元も、
まるで木にでもなっちまったみてェに動かねえ。何を見てるんだ?
オレの背後に何かあるのか? ゆっくりと、振り返る。頭が「やめろ」と
叫んでいたのに
[Eux ! Allez, allez, allez !!!(:いたぞ! 急げ急げ‼︎)]白人の人間に変身した5輪の植物霊たちはテレパシーで会話をしながら救助対象を囲んだ。「ラーラゥアーラ・クマノス 我が友守れ」ひとりが《人間除け》の呪文をとなえると、*花たちの周りに色鮮やかなオーロラが現れた。銃撃や魔法攻撃から守るためのものだ。「大丈夫か?」救助対象の男性の肩をつかんでも反応はなかった。どういうわけか、ふたりとも立ち尽くしたままで動かない。「おい、
どうした?」怪訝に思った男性がその理由に気づいた時、彼の背筋は凍った。
その場にいる全員の花びらは恐怖で落ちてしまった
パリ市内の建物、歩行者用通路、車が上を走る路面、いたる所に文章が書かれている——荒々しいフォントで、多くの色と言語で強く。ヒトを脅す恐怖色。赤、黒、青、茶色、それに3次元では表現できない色でも。ある歩行者の背中、羊みたいなフワフワのセーターには赤色で。母親と手をつなぐ5歳の少の子のほっぺには汚い緑色で。聖母マリアみたいに快活で純粋な空には血よりも赤く、エッフェル塔には深海よりも青く書いてある。通りに並んだ店の看板や扉、ショーケース、街路樹、車、公園の芝生、フランス国旗の旗にも。視界の片隅の地面の上には、人間たちが捨てた吸い殻で文章が作られていた。ときどき、嫌味にピンク色で可愛く描かれたものもある。色も表現方法も違うけれど、どれも共通していることがある。それらはすべてひとつの意味を提案していた。
精油計画をやめろ
鼻を匂いがかすめた瞬間、理解した。これは*香り文だ。実際にこれらの文章がパリの市内に書かれたわけじゃない。犯人からの脅迫状の幻覚——匂いで表現された意味——を脳が視ているんだ。いったい精油計画に何があるっていうんだ? 人間を支援するプロジェクトは山のようにあるけど、これは犯罪者や世界情勢と関わらない、ちっぽけな仕事ではなかったのか?
*(花:植物の精霊を敬ったフォーマルな表現。
相手の種類の3次元での形態が草や木でも使われる)
*(香り文:Smelletter or Smeletter written by your preference.
香りは植物界の文化に決して欠かせない要素だ。これなくして花の文化は成り立たない。
コミュニケーション、ドレス・コード、戦闘、医療、恋愛、多くの場面で使われる。
特に重要な情報はエアリスやパソコンではなく、香り文で送られる。
なぜなら植物以外の精霊には読むことができないからだ)
種
あれはまだ少年だった頃。パリへ行ったことがある。ひとりで。理由はよく覚えてない。確か、親と喧嘩して無性に腹が立って、困らせてやろうとした気がする。それで、おばあさんの家へ行くことにしたんだ。困難なことはいっぱいあった。リヨンからパリはだいぶ距離があるし、路線図は読めない、どの切符を買えば良いかわからないし、お腹だって空く。たくさんの大人にナメられた。何よりも大変だったのは、永遠とも思える長い時間を汽車の中で退屈に過ごさなきゃならなかったこと。「ああ、家出なんてするんじゃなかった」って。すぐに引き返そうと思ったけど、何だかもったいない気がして。プライドもあった。自分の境遇についてあれこれ考えるには、良い時間だったかもしれない。優秀な二人の兄と比べられる苦痛や、殴られる痛み。もし違う家に生まれていたら、どうなっていたかを想像した。列車を乗り継いで、わからないことは誰かに尋ねて、多分、いけないこともした。それでもようやくパリに着いた時、大人になれたと感じた。自分の頭で一生懸命考えて、自分の力だけで行動したんだ。すごく晴れ晴れとした気分だった。パリのプラットフォームに立った時、歩いている人々は違う国の人々みたいだった。身につけている物も、話し方も。異国にヴァカンスに来たみたいで、嬉しかった。その週に完成したばかりの真紅のエッフェル塔を見ていたら、
彼女が僕に言ったんだよ!
〝Bienvenue à Paris !!!〟
パリへようこそ‼︎
実際には、誰かが叫んだ声だった。
でも、何か運命めいたものを感じた
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