第2話
思えば近頃、青空の身体はどこかおかしかった。
まずケガの治りが異様に早い。桃園にしばしば付けられる擦り傷や打撲の類は、数時間もせぬ内に完治していた。
身体も丈夫だ。池に落とされた時も風邪を引くことなく少しも体調を崩さなかった。ただ濡れた全身を不快に感じただけだ。
とにかく疲れない。財布と定期券を取り上げられて、帰宅するのに二時間の道のりを歩かなければならなかった時も、面倒に感じただけで息一つ乱すことなかった。太腿や脹脛が張るような感触も皆無だった。
体育の授業の調子も凄ぶる良い。いや良すぎる程だ。マラソンではクラスの運動自慢達を周回遅れにしてしまいそうになり、思わず手を抜いて走った程だ。クラスの男子から戯れに申し込まれた腕相撲では、空手部で地区優勝を果たしたという彼の力が赤子のそれに感じられ、青空はへどもどした笑みと共に負ける演技をしなければならなかった。
何かが起きている。青空は思っていた。
どうして自分の身にこんなことが起きる。青空は悩んでいた。
心当たりのあることが一つあった。その現象と青空の身に起きている現象に相互関係を見出す理由は、どちらも『異常』であるという一点に尽きる。それ以外に具体的な共通点は何もなかったが、その一点において強烈に結びついていた。
だから、目の前にそれが現れた時も、青空は『とうとう来たな』という以上の感想を抱かなかった。
怪獣だった。
轟音と共に当たりの建物を踏み壊しながら現れたそれは、灰色の皮膚と二足歩行するトカゲのような姿をしていた。体長は校舎の倍はあり、爬虫類のそれを何十倍も硬く分厚くしたようなウロコに覆われた全身はまるまるとして大きく、手足はそれと比較すると随分と短く感じられる。精悍なようにも愛嬌があるようも見える、絵に描かれる恐竜のような顔立ち。太く長い尻尾はそれだけで家屋五つ分程に達する長さで、頭上から尻尾の先に掛けて、トリケラトプスのような太い棘が規則的に並んでいる。
ああ……これは。青空は思う。
おぞましい程にバカげた外見をしている。
特撮作品を探せばこれに近いか、ほとんど一致するような怪物が必ず、それも何体も見付かるだろうというような姿だった。青空はその姿を見てバカげていると感じたが、正確にはその外見そのものがバカげていると言うより、そんなものが現実に現れて街を破壊するという事情がバカげていると言うべきだろう。今時そんな話を考える方も愚劣だが、現実に起きるのは最早喜劇だ。緊迫感や恐怖感よりも、滑稽さの方が先に来る。
怪獣は咆哮を上げた。どこかで聞いたことのあるような、安っぽく作り物めいた声だった。それを聞いて青空は確信を強める。それはこの怪獣は自然に発生したものではなく、何者かが作為を持って生成した代物だという確信だった。それもおそらくは赤子のような想像力しか持ちえない、バカげた何者かによって。
あたりの建物を薙ぎ払い、人々を踏みつぶしながら怪獣は行進を始めた。そして思い付いたかのように大口を開いては、火炎とも光線ともつかない遠隔攻撃を無作為に放射した。
青空は踵を返して怪獣から逃げ出した。こんなバカげた怪物からはとにかく距離を取るに限る。何を置いても逃げるしかない。
同じように逃げ惑う他のすべての人々よりも、自動車の渋滞の脇を抜けて歩道を走行し始めたオートバイよりも、青空の脚は速かった。肉体に異常が生じて身体能力が増してからと言うもの、全力疾走というものをしたことがなかったが、本気を出せばその時速は百キロにも二百キロにも達するかのようだった。
十分に離れられたと思えたところで、青空は息を吐きながらビルの壁に手を付いた。人並みの暮らしをする分には疲れ知らずだった肉体も、全力で走ればちゃんと疲れるらしかった。血まみれの制服の裏で心臓がバクバクと跳ねているのが分かる。
青空は自分がどこまで怪獣から距離を取っているのか気になって、ビルの前で跳躍した。ビルに飛び乗って高所から遠くを見まわそうと考えたのだ。ほんの思い付きだったが実行するのは容易かった。七階建てのビルの屋上まで一息に跳び上がり、着地する。
景色を見回す。見渡す限りの摩天楼に青空は目が眩んだ。白銀の太陽に照らされたビル群は、いくつかは圧し折れいくつかはねじ曲がり、いくつかは完全に横たわって踏みつぶされていた。そしてその中心で灰色のウロコを持った二足歩行の爬虫類が、破壊の限りを尽くしながら咆哮をあげている。思った程の距離が取れていないのか、或いは怪獣自身の規格外のサイズの為か、その稚拙な造形の巨体はやけに近くに感じられた。
青空と怪獣の視線が交差する。
冷ややかな恐怖が胸を通り過ぎた途端、怪獣は咆哮をあげて青空のいる方へと全力で走り始めた。
狙われた。思わず青空はうめき声を漏らす。どれほど如何にもでバカらしい、想像力の欠如した姿をしていても、怪獣は怪獣であり凄まじい脅威に外ならない。こんなものに追われては何を老いても逃げるしかない。
青空はビルからビルへと飛び移りながら怪獣から逃げた。聳え立つ摩天楼の頂上を乗り継いで走る体験はある意味では夢のようでもあった。地上で逃げ惑う人々を豆粒のように見下ろしながら、自分一人快適な上空をひたすら飛び続ける。後ろから怪獣に追われていなければ、少しは良い気分だったかもしれない。
瞬発的な走行速度なら青空の方に分があったが、総合的な移動速度そのものは、怪獣の方が速かった。その原因は主にスタミナにある。その怪獣はその巨躯に無尽蔵の体力を孕んでいたが、青空の方は全力疾走を長く保てなかった。度々ビルの屋上で膝に手を付いている内に、怪獣との距離は縮まっていく。
一度青空をロックオンしたからには、もったい付けた歩き方を怪獣はしないらしかった。胴体と比較して長いとは言えない手足をシャカシャカ動かし、建物を薙ぎ払いながら直線的に突っ込んで来る。その迫力に青空は強く恐怖した。
どうやら逃げているだけでは自分は助からないらしい。
怪獣はみるみる内に青空に迫って来る
青空は悲鳴を上げた。その時だった。
胸の中から何か熱い物が込み上げて来るのを感じた。それは決して比喩的な表現ではなく物理的に熱かった。心臓のあたりから発生したその熱は、やがて具体的な形を持って青空の身体を這い回ると、肩と肘を経由して青空の右の手の平へと移動して行った。
青空の掌で青い光が瞬く。
黒い拳銃が青空の手の平に生成された。
何が起こったのか。どうしてこんなものが自分の中から現れたのか。分からないが、とにかく何かバカげた作為がそこに働いているのは明らかだった。恐ろしく想像力の欠如した何者かが恐ろしく想像力の欠如した怪獣を生み出し、そしてそれに対抗する為の手段として、青空に超人的な肉体と一本の拳銃を与えたのだ。
愚劣だ。
だが今はこれに頼るしかない。
青空は拳銃を怪獣へと向ける。
どうして自分がこんなことに巻き込まれ、どうして自分がこんなことをやらされているのか。理不尽で不本意でならなかったが、とにかくこれをやらないと生き延びられない。それが確かである以上、青空は引き金を引くしかない。
発砲。
放たれた弾丸が巨体の腹部に到達すると、怪獣は悲鳴を上げてその場で倒れこんだ。怪獣が倒れこむことで近くにあった建物が押しつぶされ、あたりを逃げていた人々の何人かが圧死したが、とにかく青空の攻撃が怪獣にダメージを与えたことは確からしかった。
青空はその場で怪獣から背を向けた。この隙に逃げる為だった。
「は? 何ちょっと、逃げちゃうの」
声がした。
「おい。そりゃねぇだろ。おまえ、ちゃんと最後まで戦えよ」
別の声がした。
その場で声の主を探すこと刹那、青空の前に、隣のビルの屋上から二人の少女が飛び移って来た。
赤い髪と金色の髪をした少女らである。これまた戯作的だが、しかし彼女らの場合それは単に染めたり色を抜いたりして、ファッション的にそうしているに過ぎないらしかった。証拠に彼女らの顔立ちは青空と同じ日本人のそれだったし、髪の色を変えている以外にはその外見自体に異常なところは何もなかった。
その手に持っている奇怪な凶器を除いては。
赤い髪の少女は大きな弓を帯びていた。少女の体長の半分以上にもなる大きな弓だ。セミロングの赤い髪に、髪が染め物であることを伺わせるアーモンド形の黒い目は、化粧して作ったであろうくっきりとした二重瞼と、針金のような長いまつ毛に彩られている。眉もくっきりと太く描かれており、唇は色の濃い紅が引かれていた。体格は中肉中背と言ったところ。
金髪の少女は大きな槍を構えていた。少女の背丈より高い銀色の柄に、実用性を疑いたくなる程太く巨大な穂が付属している。垂らせば肩に届くかどうかという金髪は無造作にあちこち跳ねていて、瓜実のような細面を覆う様子はタテガミのようだ。やけに精悍な切れ長の三白眼に、嫌でも目を引くようなくっきりと通った鼻筋をしている。体格は良く引き締まっていて、背は165センチの青空が見上げる程高い。
「あなた達は……」
青空は自分の手にある拳銃と、少女達の持つ弓と槍を見比べた。
「あなたと同じ。わたしも戦士に選ばれたんだよ」と赤髪の少女。「すごいことだよ。本当にすごいことなんだから」
「いい加減あたしらも戦うぞ」と金髪の少女。「これ以上被害を出す前に、さっさとやっちまうぞ」
怪獣が身を起こした。憤怒に塗れた表情で、青空達三人を見詰める。
「その子が戦士として覚醒するのを促す為に、わたし達は手を出さないんじゃなかったの?」と赤髪の少女。
「武器が生成されるまで待ったんだから、それで良いだろう」と金髪の少女。
「でもまだ一人前とは言えないじゃん。今手を出したら、対策局の人が怒るかも」
「待てばその分、人が死ぬんだぞ」
怪獣が口を開いた。青空が思わずビルを飛び降りたその直後、放たれた火炎だか光線だかが、先ほどまでたっていたビルを破壊した。
着地した青空の周囲にビルの破片が降り注いだ。その内の一つが青空の頭上にぶつかったが、「いたっ」という声を上げさせる以上の威力はなかった。
「バカだなぁ。ちゃんと避けなくちゃ」赤髪が愉快そうに笑っている。
「来るぞ」
金髪が言うなり怪獣の巨大な足の裏が青空の頭上に到来した。遮二無二回避することで辛うじて被弾は免れる。
そのまま青空は脱兎の如く逃げ出した。
もうこれ以上、突如現れたこの二人にかかずらってはいられなかった。その二人が何者で自分とどういう関係があるかは分からなかったが、いやおぼろげに筋書きは見えていたが、とにかく今は逃げるしかなかった。いくら武器がありそれが驚く程有効に作用したと言っても、戦えば負ける可能性があり、敗北すれば命を失うのだから。
「あっ。ちょっと」赤髪の少女の声がした。「本当に逃げちゃうの? そこのパチモンゴジラ、きっと雑魚っ端だよ? あなたがわたし達と同じなら、何発かその銃を打ち込めば簡単にやっつけられるのに」
「もう構うな」金髪の少女が苛立ったように言う。「どうせ怪獣はまた現れる。そいつに戦士としての習熟を促すのは、その時になってからで良い」
青空は逃げ続けた。怪獣はもう追って来なかった。弓と槍を持つ二人の少女が、怪獣に対峙して足を止めさせていた。これから戦いが始まるのは想像に難くなかったが、そんなものを見届けたいとも、増して参加したいとも思わなかった。
背を向けた青空の視界の外で、怪獣は少女達を殺害しようと鋼の爪を帯びた手を伸ばす。
二人の少女は難なくそれを回避する。赤髪の少女は身を躱しながらどこからともなく取り出した矢を番え、金髪の少女は槍を構えながらその場を飛び上がって襲い掛かる。
放たれた矢が怪獣の懐を貫いた。矢の細さを考えると考えられない程巨大な穴が怪獣の胴体に穿たれて、反対側から冴え冴えとした蒼天を覗かせた。悲鳴を上げる怪獣の頭上から飛び掛かった金髪の少女が、巨大な槍をその脳天に突き立てる。
怪獣の頭部は穴が空く間もなく木っ端微塵に破壊され、激しい衝撃の余波でその胴体までもが吹き飛んだ。飛び散った怪獣の肉体は街のあちこちへと降り注いだが、怪獣の爬虫類的な外観からすると不思議なことに、血は一滴も溢れていなかった。
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