勇者になんてなりたくもない

粘膜王女三世

一章

第1話

 階段から突き落とされた。

 そのことに特に意味はなかった。ただ青空が階段を下りていたからという理由で、気まぐれに背中を押されただけのことだった。

 そんなことをすれば危険なのは明白だったが、突き飛ばした方の桃園にも一応の考えはあった。第一にその階段は然程高いものでもなかったし、第二にその時青空の左手は手すりに添えられていた。第三に桃園が青空を突き飛ばすというのは様々な場面で日常茶飯事のことであり、その全てで青空に大きなケガはなかった。無論取るに足らないような小さなケガ……肘や膝を擦り剥くだとか、あちこち打撲するとか、顔を打って鼻血を出すとか……は良くあることだが、それらは桃園に不都合になるような大事ではなかった。よって今回階段を下りる青空を押したとしても、大したことにならないだろうと桃園は考えたのである。

 しかし実際には青空は階段から落ち、胸を打ち付け、折れた肋骨が心臓を貫いた。

 溢れ出す血液が青空の制服を濡らす。桃園は悲鳴を上げた。

 死んだと青空は思った。愚かな同級生による愚かな虐げに晒され続け、その愚かな行いによってあっけなく死んでいくことを思うと口惜しかった。自分の生命と人生は一体何だったのだろうと、死の淵で青空は強く嘆いていた。

 その時だった。

 激しく傷んでいた胸の痛みがたちまち引いた。胸から溢れ出ていた血液は止まり、白い皮膚を突き破って露出していた肋骨が元通りになる。機能を停止していたはずの心臓が正常に動き出し、血液が全身に巡り始めた。

 青空はその場を立ち上がった。制服には赤黒い血がこびりついていたが、それを除けば肉体は正常そのものだった。背後から桃園が息を吐く音が響いた。

 「青空。あんた、大丈夫なの?」

 思わず媚びを孕んだ表情で青空は振り向いた。

 「え、ええ。大丈夫みたいです」

 「ムッチャ血ぃ出てんじゃん」

 「ちょっと、擦りむいただけですよぅ」

 そんなはずはない。突き出した肋骨は内臓と皮膚のみならず制服をも貫いて、穿たれた穴からは青空の白い肌と水色の下着が露出していた。それほどの事態が起きながら、何事もなかったかのように再生している己の肉体が信じられなかった。

 やがて騒ぎを聞きつけた教師に発見され、青空は一先ずは保健室へと連れて行かれた。どう考えても学校の保険医に対処できる事態ではなかったが、本人は元気そうにしているし、擦り剝いただけだと主張してもいる。救急車を呼んで大事にするのは学校としても避けたかったのだろう。

 「驚いた。本当にケガをしていないのね」

 若い保険医は青空の身体をまじまじと見詰めながら驚いた声を発した。

 「でも血は本物だわ。何が起きたのか、今すぐに大きな病院で見て貰いなさい」

 「早退して良いんでしょうか?」

 「良いに決まってるわ。何なら、誰か先生に車を出して貰いなさい。救急車を呼んでないのがおかしいんだから」

 「いえ。それは」青空は首を横に振った。「良いです。自分で行けます」

 青空は教室に鞄を取りに向かった。

 教室では桃園が取り巻きに囲まれながら、何事もなかったかのようにはしゃいだ声を上げている。目を合わせないように前を通り過ぎようとして、青空は再び背中を突き飛ばされた。床に這いつくばる。

 なるべく恨みがましい顔をしないようにすると、自然と媚びを孕んだ薄ら笑いになる。桃園は「きっしょ」と蔑みを帯びた声を発し、「擦りむいたくらいでいちいち早退すんなよ」と青空を睨んだ。

 「すいません」

 「階段からは自分で落ちたって言ったんでしょうね?」

 「あ、はい」

 「なら良いわ」

 帰った帰った、と手を振る桃園。青空は引き攣った笑みの形で強張らせた顔のまま、下駄箱に向かって廊下を進んだ。

 壁に設置された鏡が目に入る。

 黒くて長い髪と白い肌をした少女の姿がある。すらりとした百六十五センチの背丈に、痩身に似合わぬ大きなバストを持っている。黒目がちな大きな目と小作りで高い鼻、柔らかげな薄桃色の唇をしている。自分が綺麗であることには流石に気付いている。雑誌やテレビに声を掛けられたこともある。

 だがいつからだろうか。媚び諂った薄笑いがその面貌に張り付いて剥がれなくなったのは。不器用に持ち上げられた口元と、今にも泣き出しそうなのに無理矢理笑っているその目元は、見ていると苛立たしい程にみっともない。こんな顔をした女が同じ教室にいれば、ついつい後ろから突き飛ばしてしまう桃園の気持ちも、青空には理解が出来てしまうのだった。

 青空は無理矢理鏡から目を離した。肩を落として、下駄箱へ歩き始めた。

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